蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)
廊下から絹を裂く……と言うにはいささか野太い叫び声が轟いた。
チカはおどろいて思わず自室の扉を開ける。薄暗い廊下にだれかが仁王立ちしていた。まさかそんな堂々たるポーズで立っているとは思いも寄らなかったチカは、ちょっとだけひるむ。
「出た!!!」
仁王立ちの主はそう叫ぶ。「そんなに叫ばなくても……」と思いながらチカはアオを見た。“城”の内部は暗いので、この距離ではアオの顔は見えない。しかしその声が震えていたことはわかった。
「なにがあったの?」
チカはそう言いつつ、ランタンを掲げてその光をアオへと向ける。アオの足元から伸びる影が長く濃くなり、廊下の床と壁に映る。途端、アオからまた形容しがたい悲鳴が上がった。
「光で刺激するなっ! 動いたじゃん!!!」
チカはアオが言わんとしていることがわからず、脳内がクエスチョンマークで埋め尽くされていくのを感じた。
そのとき、
「虫が出たんだろ」
とチカのうしろから同室者のアマネが顔を出した。
チカは振り返ってアマネを見る。いつもの仏頂面に、眉間にしわが寄った顔をして、呆れ声でアマネは続ける。
「いつもヘラヘラしてるそいつがそんだけ大騒ぎするってことは……虫でも見たんだろ」
「虫? 虫ってそれは……ゴ」
「そいつの名を口にするな!!!!!!」
家屋に出る昆虫のうち、人間がもっとも過剰に反応するものと言えばチカにとってはそれであったのだが、アオの剣幕に圧されて最後まで口にはできなかった。
ランタンの光を受けて浮かび上がったアオの顔は、いつもの余裕綽々な表情はどこへやら、半泣きでその名の通り青くしているのだから、面食らう。
アマネが先ほど言った通り、アオはいつもどこかヘラヘラと不真面目に笑っているイメージが強い。しかしそんなアオが――虫がまったくダメだったとは。チカにとっては結構意外な事実だった。
「あ」
「は?!」
「足元……」
アオの足元に黒光りする昆虫が這い寄ってきていたので、チカは言葉少なに指摘する。その後に待ち受ける展開を半ば想像できてしまったこともある。決して、アオをからかいたかったという気持ちはなかった。しかしかと言って黙っているわけにもいくまい。
そういう葛藤が瞬時に起こった結果の、「足元……」というセリフだった。
予想通り、アオが絶叫する。そしてその声におどろいたのか、昆虫は急に
チカは「なんでこういうときの虫ってこっちの顔に飛び込んでくるんだろう……」と、どうでもいいことを考える。
濁音まみれの絶叫を長く撒き散らしながら、アオはチカたちのいる方向へと逃げ込む。
そしてなぜかアオはチカの体にすがりついた。本当になぜなのかわからず、チカは体を硬直させる。
しかしそうしているあいだにもアオがわめくので、チカは彼がこちらの体にすがりついているという事実よりも、己の鼓膜の心配をせざるを得ない。
「チカ! アマネ! 殺せ!!!」
「お前を?」
チカの背後にいるアマネが呆れ半分、不機嫌半分といった声を出し、冗談に聞こえないセリフを発する。「ちっげーよ!!! 例のアレをだよ!!!」とアオは即座に否定するが、とにかく耳元がうるさくてチカは敵わなかった。
「アオ、離れて……」
「はあ?! お前っ、俺を見捨てる気か???!!!」
「いや、離れてくれないと退治できないよ? それともこのまま退治すればいいの?」
「はあ?! そんなことしたらアレに近づくことになるじゃん!!! なんでそんなことゆうの!!!」
「うるっさ……」
チカの背後に立つアマネですら、今のアオの声はうるさいらしい。翻ってすがりつかれて耳元で叫ばれているチカなど。
それにしてもアオのキャラ崩壊は甚だしいことこの上ない。いつも余裕ぶっていて、一筋縄ではいかないという第一印象を抱いていただけに、今の彼の姿はチカからすればなんとも無残そのものだった。
「ってゆうかどこ?! アイツどこ行った?!」
「アオが叫びまくってるから見失った」
「見ててよ!!! そんで殺して!!!」
無茶苦茶な要求をするアオの様子にとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、アマネがそのえりぐりを掴んで引き上げる。しかしアオは七人の中で一番背が高い。アマネがアオを引き上げるには限度があった。それが不満なのか、「チッ」とアマネは舌打ちする。
「いつまでもチカに引っついてんじゃねえぞ。マシロとコーイチにチクってやろうか?」
同室者ふたりの名前を出されたからなのか、アオは急に大人しくなった。さすがにマシロという恋人がいる身で、チカに抱きつくような形ですがりついていた状況はマズいと思ったのかもしれない。
もう少し早くそのことに気がついてくれれば……と、なんだかアオがいたほうの耳がじんじんするような気がするチカは、釈然としない思いをすることになる。
「虫ダメなんだね」
しかし気を取り直し、間を持たせるような言葉を口にしてしまうのは、チカの悲しいサガでもあった。気まずい空気に耐えられないから、ついつい場を取り持つようなことをしてしまうのである。
アマネがアオのえりぐりから手を離す。軽く首が絞まった状態になっていたアオは、ちょっとだけ咳き込んだあと、「ムリ」とだけ言ってチカの言葉に答える。
「春の始まりは大体こんな調子だ。いい加減にして欲しい」
アマネはそう言って厳しい視線をアオに向ける。散々大騒ぎした当のアオはと言えば、「俺は悪くない」とばかりの顔をしている。その余裕ぶった態度が気に障ったのだろう、アマネは大きな舌打ちをした。
まだまだ寒い日は続くが、暦の上ではもう春先である。ちょっと温かいと思えるような日もたまに訪れるようになっていた。
なるほど、冬のあいだは活動が鈍っていた虫たちも、春の訪れとともに活発になり始めているのだろう。盛夏ともなればアオはどうなってしまうのだろうとチカはいらぬ心配をしてしまう。
「これまではどうしてたの?」
「……普通に他の皆に頼ってましたけど」
「マシロやコーイチは大丈夫なんだ」
「こいつが異常に大騒ぎしているだけだ」
「騒ぐだろ! あんなグロいもん見たら!」
ぎゃあぎゃあとアオがまた騒ぎ出し、アマネの機嫌が急降下して行くのがチカにも肌でわかった。
「まあ、たしかに虫の動きってちょっと怖いときがあるけど――」
と、アオの言葉の肩を持つようなセリフをチカが口にしている途中で、アオのひときわ大きな絶叫が響き渡った。
「――るっせえ!」
アマネがキレてアオの胸倉を掴む。しかしそれでもなおアオはチカとアマネの背後を指差し叫んでいる。
尋常ではないアオの叫び声に、チカは思わず振り返ってランタンの光を差し向けた。
「おっっっわ!!!」
アオのように絶叫しなかったものの、チカも声を上げてしまう。
それでようやく異常事態に気づいたアマネが、チカと同様にアオが指差す方向を振り返った。
そこには虫がいた。黒光りする甲虫がいた。しかしそれはあまりにも――巨大であった。下手な小型犬よりも大きい。そんな昆虫がわさわさと六本の脚を動かしてこちらに向かっている。
チカは、アオほど苦手ではなかったものの、これほどまでに大きな虫を見てはひるんでしまう。
しかしアマネがチカの腕を引っ張って部屋に引き込み、即座に扉を閉めたので大事には至らなかった。閉じたばかりの扉からは、ドンッと先ほどの虫が衝突したのだろう音が響き渡る。
「……この“城”って小型犬よりも大きな虫が出るの?」
そうアマネに問うたチカの声は震えていた。しかしアマネはそれをことさら指摘することもなく、うなずくことで答えとする。
「さすがにあのサイズの虫が出るんだったら虫がダメになっても仕方な――」
チカはアオがいるだろう方向を見て――
「し、死んでる……?!」
彼が壁にもたれかかって微動だにしていなかったので、面食らってガラでもないボケを口にしてしまう。
「気ぃ失ってるだけだ」
アマネはそう言って蔑みの目でアオを見下ろす。そして「ハア……」とクソデカため息をついたのであった。
なお、くだんの小型犬より大きな虫はアマネが単騎で退治をした。
そのあとでアオはアマネに散々イヤミと文句を言われたが、いつもようにヘラヘラとした笑顔でかわそうとしたため、アマネがキレてチカは胃を痛めた。
なお、アオはことの次第を知ったマシロとコーイチに絞られたが、このときは神妙な顔つきをしていたので、アマネが再びキレそうになっていた。
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