土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

 屋根に積もった雪が滑り落ちる音で目覚めた。


 キングサイズのベッドはチカとアマネ、ふたりぶんの体温が移ってあたたかい。寝室に置かれたストーブのお陰で、冬の朝にしては空気が生ぬるかった。


 閉じられた鎧戸の隙間から差し込むかすかな光を見て、チカは朝を知る。しかし体感では早く起きてしまった気分で、実際に時計を確認すれば朝食の時間は結構先だ。


 時計を確認したあとは、手持ちランタンの光を限界まで弱める。こんな早い時間にアマネを起こしてしまったら、怒られるような気がしたからだ。


 耳を澄ませれば鎧戸に雨粒が当たる音が聞こえる。この時期の雨は花を養うと言う。風雅な表現だとチカは思ったが、それをどういった経緯で知ったのかまでは思い出せない。


 なんにせよ雨が降っているからか、今日の空気は厳冬のピリリとした寒さとは違い、どこか生ぬるい。


 ドレッサーに備えつけられた鏡を覗くと、盛大に寝癖がついているのがわかった。昨晩、眠気に負けて乾かすのを怠ったせいだろう。朝食まではまだ時間がある。風呂にでも入るかとチカは部屋に置いてあるハンドベルを鳴らす。


 この季節には欠かせないストーブや、“城”での生活必需品であるランタン同様、ベルを鳴らせば大浴場の風呂が湧くという仕組みは、相変わらずよくわからない。


 こういったよくわからない仕組みのものをナントカ不思議と名づけるとしたら、それはきっと七では収まらないだろうとチカは思うようになっていた。


 マシロなどは「大昔にこの“城”で働いていた使用人の幽霊がまだいて……」などと、冗談なのか本気なのか判断のつかない顔で説明をする。


 しかし仮に幽霊がいるとして現世に干渉できるとしても、その仕組みは相変わらず謎であり、よってマシロの言葉はこの不可思議な現象を説明する答えとしては適切ではないだろう。


 だが便利なものは便利だから、使う。便利さは不気味さを乗り越える。人類とは基本的に怠惰な生き物なのかもしれない。寝起きであるせいか、チカの思考は跳躍する。


 食堂があるのと同じ階――一階にある大浴場へ、バスアイテム一式を手に向かう。食堂を通り過ぎたがまだ朝食担当のユースケとササはいなかった。


 こんなにも朝早いので大浴場でだれかとかち合うこともないだろう。そう思って“捨品”として貰ったバスボムを持ってきた。


 大浴場の重い扉を開けると、じんわりと温かい、湿度のある空気が顔にかかる。ちなみに大浴場はひとつしかないので、平素は男女入れ替わり制で入浴している。


 チカは手早く寝間着を脱ぐと、バスボムとランタンを片手に浴場へと入る。入り口近くにランタンを置いて、湯の張られた風呂にバスボムを投げ入れれば、あっという間に優雅なバスタイムの始まりであった。


 先ほどまで布団にくるまれていたので、体の芯はそれほど冷たくはなっていない。それでも熱い湯に身を沈めるという行為には贅沢なものを感じる。


 特に目的もなく湯船に波を立ててみたりしたあとは、頭から湯をかぶって寝癖のついた髪をリセットする。次はきちんと乾かさなければ。そう思いつつ、チカは寝間着ではなく持ち込んだ普段着に袖を通して自室へと帰った。


 寝室にあるドレッサーの引き出しに入っているブラシを求めて部屋に入れば、ベッドの上でアマネが上半身を起こし、ぼんやりとした顔を晒していた。


 ストーブの煌々とした光を受けて、浮かび上がった黒い人影に、入室したチカがぎょっとするのもむべなるかな。てっきりまだ寝息を立てているものと思い込んでいたので、おどろいたわけである。


 寝ぼけまなこをしぱしぱと瞬かせて、アマネはじっとチカを見ている。このときばかりは眉間にしわも寄っていないし、無防備な幼い顔でいる。


 アマネの正確な年齢は知らないものの、普段はだれよりも年嵩に見えるから、その険しさのない寝起きの顔つきを見て、チカは物珍しさにしばらく彼を観察する。


 するとしばらくしてアマネがゆっくりとした口調で話し出す。


「……どこ行ってた」

「……風呂だよ。盛大に寝癖がついちゃってたから」


 チカの髪質はあまり柔らかくないので、寝癖がついてしまうとちょっと手櫛を入れたり、水をつけたりするくらいでは直らないのだ。


 反対にアマネは毛髪そのものが細く、ネコっ毛のような感じなので、チカとは違って寝癖がついても容易に言うことを聞いてくれるようだった。


「どこにもいくな」

「え?」

「おれのそばにいろ……ばか」


 アマネは舌足らずにそう言い置くと、パタリとベッドに寝転がって、分厚い掛け布団を引き寄せて寝入ってしまう。


 チカはと言えば、唐突なアマネの「デレ」におどろいて固まってしまっている。


「……ツンデレ?」


 たっぷり一分は固まったあと、チカが口にしたのはそんな言葉だった。

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