魚上氷(うおこおりをいずる)・後
突く、叩く、押さえつける――。棒一本で出来ることは意外と多彩だった。そしてこの棒は意外にもチカの手に馴染む。体が覚えているというやつなのだろう。しかしそれをきっかけに記憶の一部が戻るなどということは起こらなかった。
というか、そんなことを考えている暇はなかった。
こんなに貰った覚えがないというのに、イワナだかヤマメだか――とにかく魚が大量にこちらへ向かってくる。分身でもしたのだろうかとボケる暇もないほどに突撃されては、たまったものではない。
「うっ!」
チカの右肩に魚がぶつかった。木製の扉を揺らしていたほどの衝撃が、そのまま肩から腕へと伝わり、チカは棒を取り落としそうになる。
どうにかこらえたものの体が少しだけ浮いた。体勢が崩れる。
その視界の隅でランタンの光を受けて浮かび上がったアマネの顔に、一瞬あせりが見えた。
けれどもすぐにそれはこちらへと向かってくる魚の姿によってさえぎられてしまう。
――顔面にぶつかる。
そんな死因はイヤだとか、魚独特の生臭いにおいが充満する中では死にたくないなどといった考えが、即座にチカの脳裏をよぎって行った。
猛スピードで向かってくる魚の、妙になまめかしく輝く顔面は――しかしチカの鼻先を前にして地に叩き落とされた。
一瞬、アマネかと思ったが、彼は少し離れた場所で苦闘している。
反対側を向くと、腰に小さなランタンを提げて、棒を手にしたササが無表情のまま立っていたので、チカは飛び上がりそうなほどびっくりした。
「生きてるか?」
ササの後ろでランタンを掲げたユースケの姿を確認する。ユースケの言葉にチカは何度かうなずいた。
そうしている間にも明らかに貰った分よりも多い魚はこちらへと突撃してくる。
「ま、話はあとにしようぜ」
ユースケの言葉に同意して、チカはもう一度うなずいた。
苦戦していた戦況はササとユースケの助力もあって引っくり返る。特にチカがおどろいたのは、ササがべらぼうに強いことだった。
棒捌きが明らかにチカのものとは違う。状況に合わせて突き、叩き、振り回し、取り押さえる――。自在に棒を操る姿はひとつの完成されたダンスを見ているかのようだった。
チカは荒々しさと優雅さが同居した不思議なササの動きに目を奪われつつ、どうにか他の三人と共にすべての魚を叩きのめすことに成功したのだった。
……そして、残されたのは冷えた魚の死体。いや、“捨品”として供えられた時点で魚たちは絶命していたのだが……じゃあそれならばなぜ魚が動き出したのか――しかも空中を泳いでいたのかなどなど疑問は尽きない。
「表面は氷が解けて濡れてるけど、中はカチコチだ」
なるほど、こんなものに全速力でぶつかられては扉も揺れるし、体勢も崩れる。チカは棒の先で床に散乱する魚の死体を突きつつ納得する。
「明らかに数が多い……なんだこりゃ」
「こんなに貰ってない、よね?」
「こんなに貰っても俺たちは七人しかいないんだ。消費できない。それくらいは渡すほうも理解しているだろ」
疲労の色が見えるアマネに、チカが疑問を口にすればユースケが当たり前とばかりに答える。ササは会話には参加せず、ぼんやりと廊下の先に広がる闇を見つめていた。
見える範囲に転がっている魚を数えれば、ざっと三〇尾はある。そしてユースケによるとマシロたちの部屋も襲撃されたらしく、となればこの奇妙な魚たちはまだまだ多く床に転がっているのだろう。想像すると、げんなりしてしまう。
「増殖したってこと?」
「……“捨品”には往々にしてこういうことがある。“城”が原因なのか、もともとそういうものだからこっちに捨てられたのかはわからないが……」
「ええ……」
淡々としたユースケの言葉に、チカはちょっとだけ顔から血の気が引いた。
先日のウグイスと同じ鳴き声を発する怪物といい、この“城”はちょっと危険すぎるんじゃないかと思った。
かと言って、今のところその“城”から出るすべは存在しないのだが。
「食べられるのか」
美しい声が耳を疑うようなことを告げる。
正体は瞬時に類推するまでもなく、先ほどからひとことも発してはいなかったササだった。
「食べるなら捌くけど」
しかもユースケはササの言葉におどろいた様子もなく、少し呆れ顔で――しかし「ササ限定世話焼き」などと言われるに足る提案をする。
ササとユースケのやり取りを聞き、チカの視界の端でアマネは明らかに引いていた。仏頂面が崩れると、少し印象は幼くなるなとチカは現実逃避気味に考える。
「やめといたら? 床に転がってるし」
「洗って、焼けばいいんじゃないか」
「んー……まあ、サっちゃんがどうしても食べたいって言うならそうするけどさ」
「もったいないだろう」
口をつぐむチカとアマネなど気にも留めず、ユースケとササのあいだで話が進んで行く。
どうしたものかと思っていると、チカはじっとササがこちらを見ていることに気づいた。
「食べないのか」
「え?」
「おれはパス」
じーっと青い瞳で見つめながら告げられた言葉に、チカは一歩出遅れた。そうしているあいだにアマネがちゃっかりと一抜けしてしまう。ササの青い瞳はアマネに向くことなくチカをじーっと見つめていた。
そして――チカはそのどこまでも純粋な好意しか感じられない眼差しに屈して、「一尾くらいなら……」などと気づけばのたまっていたのであった。
ちなみに、ササに誘われた、あの場にいなかった残りの三人はアマネ同様即座に辞退の言葉を口にしたため、奇妙奇天烈な魚が彩る食卓を囲んだのは、チカとユースケとササだけであった。
ちなみにちなみに、奇妙な魚は淡白な白身の典型的な川魚といった味であった。ユースケの調理が上手かったので、おいしく食べられたものの、チカが複雑な心境で箸を進めたのは言うまでもないだろう。
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