2 破


 ふたりの上司である男は、むろん部下たちの椿事を知らぬ。

 女が自分に靡くかもしれぬと、その眸の色のうらに見当はずれな期待をいだきさえしたがさてではどうするか。もう五年ばかりもまともに異性と交際していない彼には、如何にして想いを確かめどのように一歩先へ進めるかと云う課題はあまりに難解な問いだった。答えの出ないまま手持ち無沙汰を埋めるため運んだジョッキから、唇が受ける前にビールがこぼれ落ちた。幸い落ちたビールは数滴ほどでたいした害はない。口のまわりをウェットティッシュで拭うだけで事は足りる。


 ウェットティッシュの感触はやはりおしぼりに比べ劣る、と男は思った。コストを考えれば已む無しとすべきだろうが、何度も再利用できるおしぼりよりも使い捨てのウェットティッシュの方が安価だと云うのは考えてみれば不思議な話だ。それでも環境のことを思えばおしぼりのリユースを優先するのが正解なのだろうか。だがコスト高の背景にはなにか余計な負荷がかかっているのであって、それが環境にもマイナスに働く可能性は否定できない。例えばそういうところなんだよ環境対策の胡散臭さって。

 課長ちょっと仕事が出ちゃってますよこんなときぐらい仕事のこと忘れましょうよと女がジョッキにくちをつけないまま言うと、水割りの氷をカラカラいわせながら妻帯者はまあでもそうなっちゃいますよねここんとこ環境問題にかかりっきりでしたもんと穂を接いだ。いつの間にウィスキーを頼んだのかはだれにもわからぬ藪の中だ。


 彼としては話の内容には興味なく、只管に早く宴がお開きになって妻子の待つ我が家へ帰りたいとそれが望みで、そのため話を広げるよりも閉じる方向へとさっきから会話を誘導していた。職場の三人でやすい居酒屋料理で脂肪の嵩を増やすぐらいならばとっとと家へ戻って我が子の笑顔に癒されたい、それが自然な感情と云うものだろう。

 ところがいま、上司の視線が女へ向かっているのを見て、少し考えが変わった。


 このひとに彼女を押しつければよいのではないか。彼の心に浮かんだストーリーは明快で安直で自己中心的だ。

 彼女とは一夜限りの関係にしておきたい。と云ってそれが彼女の意思と合致すればよいのだが万一彼女が関係の持続を求めるなりあるいは表面上は同意するとして心の裡では納得せず妙な想いを拗らせ、最悪ストーカー化なんぞした日には目もあてられねえ。迷惑このうえねえ。ではどうすれば? 彼女の心がほかの男へ向かえばよいのだ。目の前の上司は見た目はぱっとしないししゃべっていてなんの面白味とて無いが経済力だけは盤石で、常識人ではあるから結婚相手としてお勧めするのに五段階評価をするならぎりぎり四をつけてやってもいいってもんだ。おれと不毛な不倫関係に突き進むよりよほど彼女の未来も明るいんでねえの?

 勝手に女の人生設計までこしらえ、あらためて上司を見るとまぬけ顔でイワシの南蛮漬けをつまんでいる。見方によってはそれもかわいいと評価できるか? うん、ひとによっては、まあ、たぶん。あばたもえくぼって云うし。

 例の過ちの一夜に呑んでるさいちゅうふたりでさんざっぱら上司をこきおろして盛り上がったことは都合よく記憶の海のサルガッソーの底に沈めて、妻帯者はまた勝手にふたりの未来図を描いて自身の不倫地獄の可能性は遠くへ追いやった。



  ***



 呑み会は延々とつづいている。「どうだい一杯」が一杯で済むことは決してない、それは世のことわりだなと女は思った。

 それはよいのだが、先刻さっきから会話の流れがどうにも可怪しい。隣の同僚はやたらと私を誉めて誉めたおして誉め殺してもう、殺され過ぎて殺され飽きた。誉めろホメロス、殺せよホメロス。ヘレネーはギリシアとオリエントとの間に戦争を惹き起こす要因になるほどの美女だった。夫をすて若い王子と逃げたがそれは彼女の罪ではない。美の女神がヘレネーをそそのかしたのだから。神の教唆に逆らえる女がどこに在ろうか――たとえ夫有る身なろうとも。たとい相手に妻子が有ろうとも。

 妻子持ちの男の饒舌はつづく。まるで上司に向かって私をプレゼンしているように。それでいて彼は、上司のことも褒めそやす。今度は上司のプレゼンか? だれに向かって? 私か。私しかいないか。妙なやつだぜ、まるでふたりをくっつけようってみたいじゃないか。とせせら笑ったところでハッとした。

 冗談じゃない。なめた考えこいてんじゃねえバカヤロウ。



 テーブルに並ぶのは具沢山の炒飯と、鰤大根に、ポテトサラダに油淋鶏ユーリンチー。妻帯者はつぎつぎあたらしい皿に箸をつけていく。こんなところまで浮気性だ。大根をつまみ上げると黒いタレが滴った。タレはやすっぽい贋の年輪を描いたテーブルに落ちて、にじんだたれには油が泛んだ。最後の鰤には課長が手を伸ばした。

 無くなると急に惜しくなる。どうして先に鰤をとらなかったのだろう。だが後悔さきに立たずだ。いずれおれはこの女を一夜だけで見限ったことを惜しむのかもしれない。いやきっと惜しむだろう。いやだがこれが正答だ。これが正当だ。真っ当な男の決断だ。こいつにしたって、と男は酔いのまわって表情に締まりのなくなった女をちらり見た。

 こいつにしたって、おれとハッピーエンドになり得ない不倫の道を行くより、つまらん男だが経済力だけは優良物件の課長と平凡な恋してうまいこと取っつかまえて、まんまと安定した身分を得る方がきっといい。

 自らの保身を善意にすり替え男はいよいよ饒舌になった。居酒屋の陽気な喧騒のなかで男の紡ぐ言葉はどれもこれも真実味のない二酸化炭素になり地球はまた一歩カタストロフィに近づいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る