居酒屋シャウト

久里 琳

1 序


「生中みっつ」の声と交叉して、テーブルのうえを割り箸とウェットティッシュがすべっていった。

 おしぼりがわりのウェットティッシュは人数分よりたいてい多めに配られる。今日もひとつ余ったそれを女は対面といめんの男の前に押しやった。べつにふたつ必要なわけでもないが男は素直に女の好意をうけて、つまみの注文をつづけた。


 仕事帰りの一杯である。独身の彼としてはそのまま夕食を兼ねているのでつまみと云いながらも腹にたまるものと、ついでにビタミンを補給するため野菜多めで頼んでいる。自分のためのチョイスではあるが、同時にお伴にいてきたふたりの事情も酌んだつもりだ。

 前に座るのは男女ふたり。歳は三十前後と云ったところで、四十代に入った男からするとひと回り若い。ふたりとも、男の部下だ。

 ここしばらく残業がつづいた重要案件に目途が立った日のこと、久しぶりに早く上がって軽く祝杯でも挙げるつもりだった。通例いつもならひとりで向かうのだが、ちょうど帰り支度をはじめていたふたりへ半ば社交辞令で、どうだい一杯? と声をかけたところ思いがけず随いてきたのだ。


「おごりじゃないぞ」

「もちろんっす」

「いやいや、そこはねぎらってくれたっていいじゃないですかあ」

 と冗談めかして応酬したが、実際のところ支払いの大半は自分が持つつもりでいる。役職に就いてそれなりの報酬を得ている独身貴族だ、余裕ある財布のつかい道をどうしようと誰に遠慮することもない。ながら、全額払うのではなくある程度の出費を彼らに求めるあたりは、同じような部下を持つ他の管理職への配慮だ。家族持ちの同僚たちは彼とちがって財布に余裕も自由も乏しい。


 ほとんど待たないうちにおばちゃんが愛想のいい声でジョッキを三つならべて置いた。それを女がふたりの男の前へと辷らせた。辷ったジョッキを追って、ジョッキのまわりについた水滴がテーブルのうえに軌跡を残した。

 乾杯、とジョッキを鳴らしたとき女と一瞬目が合い、呑む前というのに心臓がむずがゆくなるのを男は感じた。と云って、恋の甘い疼きではない。すくなくとも男自身にその覚えはなかった。

 女に魅力がなかったわけではない。とびきり美人だとは云わないまでも、きりっとした眸が印象的な姿は一定のファンを社内に得ていたし、先刻のビール配りに見られるように気が利くところは特に年齢のいった男たちの好感を得てもいた。

 男もじつは彼女に魅力を感じるひとりなのではあるが、干支が一周するほどの年齢差は彼をして躊躇せしめるに十分であり、それになんと云っても上司部下の関係なのであってこのコンプライアンスに喧しい世の中は中高年男性に迂闊な行動を許さない。

 世のしがらみを過剰に感じて自分で自分を縛り、男はもうずいぶん長く恋に踏み出す機会を逸している。四十を越して自ら加減する縄はいよいよきつく、恋はますます彼から縁遠くなった。


 だが今宵ふと目が合った刹那、男はいつもとちがう輝きを女の眸に認めてめずらしく動揺した。たしかにそのとき、女の胸に鬱積していたのは如何にも艶めいたためいきだ。そこに感づいたのだとしたら、男もまだ捨てたものではないかもしれぬ。

 彼女は一夜の過ちを後悔していた。お相手は隣の男――実は妻帯者である。


 残業続きで、しかもその案件と云うのが初めて尽くしの難題山積だったがため彼女自身も雲を掴むような心地で業務を進めたのみならず、上司でさえも最終着地点をしかとイメージできていない様子で、しばしば変わる指示命令に翻弄される日々がひと月あまりも続いた。

 それは同僚である妻帯者も同様で、疲労と憤懣の溜まった者同士、居酒屋でやけ酒呷って愚痴に批判に悩みに弱音、ときに気炎を上げきゃははと唐突なはしゃぎ声を響かせ、酒はいよいよすすんで気づけば彼に肩をいだかれ夜道を歩いていた。行先はホテルだ。一瞬正気に返って彼が妻帯者であることに想い至ったけれども、朦朧とした意識のなかでもうなんだっていいやと思考を放棄し流れに身をまかせた。

 へたを打った、と頭を抱えたのは翌朝のことである。

 化粧のりも満足いかぬまま出社し気まずい想いでちらと顔を見たとき彼はなにもなかった風に笑顔で応えたのだった。女はその反応にほっとした反面すこしがっかりと云うか憤りに近いものが心中に沸き起こってもいた。

 こいつ何もなかったことにする気だな。それは彼女も望むところではあるのだ、それはそうだがちょいとつまみ食いしてやったぜなどと軽く思われるようでは彼女の女がすたる。

 此処は二度三度と重ね求めるのが礼儀というものではなかろうか。では彼女自身は関係の持続を望んでいるのかと云うと、それは自分でもわからない。理性は明らかに過日の関係を樹海の迷宮の奥にうずめてありとあらゆる人の目から秘して、記録も記憶もまるごと抹消してしまうのが最善と告げている。だが感情は、或いは感情とも呼べない認識の水面下に隠れた彼女の肉の本能は、肌を重ねるほどにしっくり馴染むはずの媾合を惜しんでいる。此間は互いに恐れと照れと遠慮のようなものがあって十分に踏み込めなかった性の饗応も、二度目となれば一段上の快楽を追求できようものではないか。初回ゆえの物足りなさのうらみをそのままに置いておくのはいかにも口惜しい。

 あれから一週間が過ぎた今夜女は、再度の誘惑を一切おくびにも出さない隣の妻帯者を睨みたい気持ちを押しこんで、代わりに行き場所のない感情をかくした眸を上司へと向けた。それがくだんの眸の色である。


 女の隣での妻帯者はやはり過ちを後悔していた。悔恨の深甚なること女のれに比してはるかに陰翳が濃い。なんとなれば彼は家庭の崩壊をこそ最もおそれていたからである。

 魔が差したとしか云いようのない一夜だった。一年後輩である彼女に性的魅力を感じていなかったわけではない。外見は彼の好みからやや外れるものの、すぐそばで彼女が体を揺らすときふり撒かれ微かに鼻をくすぐる匂いなどにはつい下半身が疼くほどだったが、新婚の閨の余燼未だ冷めやらず且つ待望の第一子が半年前生れたばかりの彼にとって、家庭の平和を危険に晒す冒険はまったく選択肢になかったのである。

 酒はこわい。彼はつぶやくが、実のところ浮気は彼の習い性であっていまに始まったことではない。流石に結婚後は暫く押さえこんでいた悪い癖が、とうとう本領発揮し表に出てきたまでのこと、と云うのが実状だろう。この一件がどう落着するにせよ、彼の家庭生活はこの先も恒に危険とともにある。


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