第235話 Agnus Dei【神の子羊】


【13.Agnus Dei】

(神の子羊)


 それが偶然であるか必然であったのか、楽想は重苦しく、不穏な空気を纏いながらに、じっとりと歌われ始めた。


“«Agnus Dei,»”

(神の子羊よ)


 奏者の半分以上が焼け死に、もう殆どが火の色に満たされてしまったホールで、ギルリートは歯噛みしながら『闇映しカオスミラー』を発動して鴉紋の姿を模倣する。


“«qui tollis peccata mundi:»”

(この世の罪を取り除く)


 長く余韻を残す声楽家立ち上がりのコーラスの最中で、鴉紋は吊り上がった口角から歯牙を覗かせた。


「…………ぅッ」


 メラメラと盛る炎を背景に、黒の異形が力強く踏み出して来る。


「ぅ……」


 ただ睨みを効かせて歩み寄って来るだけ……しかしその圧の何と凄まじい事か……

 ギルリートは思わず生唾を飲み込みながら一歩後退っていた。

 誰よりも高潔で気位の高い彼が、その唯一無二の凄まじいエネルギーに気圧されながら、眉根を強張らせていく。

 ――そして赤き世界で、黒の柱を空に逆立てた男は口を開いた。


「自分の姿も持ち合わせていないお前に、何が出来る……」

「…………!」


 天使の子ギルリート・ヴァルフレアを見下す視線、そして語られた言葉に、彼は冷え切っていた全身の血流が再びに燃え立っていくのを感じ始めた。


 壮大な楽想はパタリと途切れ、静寂の中で彼は鴉紋の言葉を反芻はんすうする。

 赤黒い天。その中心に照らされながら、堂々と佇んだ男を見つめて。


「お前になにが……」


 対象の姿を映し出す力。それぞれのトラウマを呼び起こす力。仮面に隠し続けた自らの素顔……


「キサマにッ――――!!」


 その激情を隠そうともせずに、ギルリートは額に青筋を立てて肩を怒らせる――

 耳を澄ますと微かに、偉大なる声楽家達の声が聞こえて来た。


“dona eis requiem.”

(彼等に安息を)


 鴉紋が一歩近付いて来る度に黒の暴風は勢いを増し、ギルリートの髪をかき混ぜていく。

 負け時と六枚の暗黒を空に打ち出すして抵抗するも、余りにも強引な力には抗えず、足下が浮き始めるのに腰を落として踏み耐える事しか叶わなかった。


「く……ッ」


 余りにも違う力。蹂躪を余儀無くされる凄絶なパワーを目前に、ギルリートはまだ闘志を宿し続けていた。


“«Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: »”

(この世の罪を取り除く神の子羊よ)


 みるみると消し炭になっていく命。灼熱のステージで、奏者は散っていた仲間の奏でる筈であったパートをフォローしながら、懸命に楽想の完成に尽くし続ける。

 カルクスとエルバンスの鬼気迫る演奏に支えられ、楽想はまた盛りたっていった。


「そこまで言うなら鴉紋よ……」

「あ……?」

「貴様の拳で正面切って俺の……いや、お前の拳を打ち破ってみせろ」

「……」

「出来るよなぁ、何せ負ける筈が無いのだろうッ!? クク……」


 安い挑発。そんな事は分かりきっている。

 崇高なるギルリートがそのプライドをかなぐり捨ててでも、弱者の立場から土俵を制限する提案をしたのには訳があった。

 ――至極単純な……だが彼にとって、身命を賭してでも証明せねばならぬ程の、人生の命題の為。


 再びに沈黙し、


“dona eis requiem.”

(彼等に安息を)


 微かに息をし始めた楽想は、絶え絶えになった彼等の生命を表現しているかの様であった。


 ――返答する代わりに、歩みを止めて腰を落とし始めた鴉紋。傲岸不遜な男に、ギルリートは肩を揺すって不敵に笑う。


「駄目だよ鴉紋、罠だよ!」


 そう助言をするセイルであったが、焔の揺らぎに合わせ、ゆっくりと腰を落としていった両者の緊張感にあてられて声を失った。


“«Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: »”

(この世の罪を取り除く神の子羊よ)


 息を吹き返す楽想。互いに腰を深く落として右腕を後方へと引き絞りながら、ミキミキと音を立てて肉を締め、背の暗黒で天を引き裂いていく。


「…………」

「…………」


 楽想が途絶えた僅かな時――漢達は視線を向かい合わせてその時を待った。

 互いにあらん限りの力を右手に溜め込んで――――


 ヒリついた緊迫を破ったのは、確かな眼光で敵を見据えたギルリートである。


「鴉紋、お前の敗因は……であった事だ」


神聖なる楽想が、闇夜に長く響き渡った。


“dona eis requiem sempiternam.”

(彼等に永久の安息を与えてください。)

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