第6話 公と私
ある人はこう私純明快なヒエラルキーのことだろう。しかし、本当に個人は自由に溢れているのだろうか。
独立した自由な個人など、どこでお目にかかれるだろうか。<公>というものの圧力に服従するだけの存在。それが<私>の現実ではないの か。<公>が示す選択肢から、何かを選択するだけの存在。毎朝、電車で会社に行き、毎日同じような仕事をして家に帰る。それによって、何とか食料を確保す る。週に2回の休日も<公>が提供するエンターテイメントを有り難く消費するだけだ。情報も思索もメディアに 反応するだけのことであり、どう反応したところで、すべては<公>の想定内だ。私的な領域。そんなものが残されているだろうか。私的な空間は存在しても、 その空間はすべて<公>によって支配されている。フェリックス・ガタリの表現を借りれば「市場的な主観性への自己放棄」が生じているのだ。
別に放棄したくて放棄するわけではない。放棄せざる得ない状況があるということだ。古臭い表現を用いるなら「自己家畜化」だ。人間が人間自 らを家畜化すること。自由を失う代償は安全と生存だ。会社の中で偉いさんと称される人が辞令一枚で引越しだ。いったい何が偉いのか意味不明である。組織の 中のヒエラルキーなど、モチベーションを高める手段でしかない。そんなものに騙されて何十年も過ごす人が山のようにいる。可哀相な人がたくさんいる。
<私>はもはや、ひとつの記号になってしまった。そういう問題意識が<個人>や<精神>といった視点から鋭く指摘されている。公の復権を叫 ぶ人がいるだけではなく、私の復活を叫ぶ人たちがいる。ここでは<公>という概念を政府に限定してはいない。権力としての社会。それが現在の<公>の実相 ではあるまいか。
そもそも、公と私は対立を孕んではいるものの矛盾するものではなかった。より良い<私>を実現するためには、よりよい<公>が必要とな る。<公>のために<私>を犠牲にするのは、それが最終的にはより良い<私>になると判断するからである。問題はこの判断が分かれる点にあるのではないの か。
いや、そんな事ではない。<私>などは眼中に無く、美しき秩序である<公>こそが人類の価値なのだという、正反対の主張をする人たちもい る。あるいは、より良い<私>というものを、<公>への奉仕や貢献へと置き換えるかもしれない。それにしても、こういう人達は、どういう立場で発言をして いるおつもりなのか。<私的>な発言ではないと強弁するのだろうか。
それにしても厄介な状況だ。公を支える私なるものは存在しない。私に貢献すべき公は腐敗し混乱している。そんな認識が正しいならば、絶望の 他に何があるだろうか。もはや権力は自由自在だ。いや、権力間の闘争だけがある。権力の関心は公にも私にもない。関心があるとすれば、それは目的としてで はなく手段としてに過ぎない。
公や私という概念もまた権力に利用されようとしている。私たちは注意深く概念のすり替えに気づかなければならない。本来ならばそれはジャーナリズムやメディアの役割なのだが、彼らは信用に値しない。彼らも立派に権力の一部なのだから。
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