雲が砕ける
松竹梅
雲が砕ける
家族が大切にしている写真集の中に、私が生まれて初めて興味を持ったものがある。
透き通るような青。届きそうで届かない場所。
さえぎるものも、ノイズになるものも存在しない、ただ青一色に染まっている。
「空」というシンプルなタイトルの通り、太陽や月が同居している場所の写真をまとめたものだ。
500年前の写真家・天沢空哉が生涯をかけて残した666ページにもわたる超大作。
父の書斎棚で、これだけが表紙を向けて立てかけられていた。
まるで神棚に置かれた神札のように輝きを放つそれを指さして聞いた。
「お父さん、あれは何?」
「あれは空。僕たちの住む地下の天井を隔てた向こう、地上よりもさらに高いところにある場所だよ」
「地上よりも上にあるところ?前に学校行事の地上見学で行ったときには、あんな色してなかったよ。せっかく買ってもらったカメラ持って行ったのに、どこも真っ暗で、すごい量の水が落ちてきてたもん」
「それは雨だね。地上では絶えず雨の降る季節があって、”雨季”というんだ。きっとそれにあたってしまったんだね」
「だったら雨のないときに地上に行きたかったなー。そうすればこんなにきれいな空を撮ることができたんでしょ?」
父に手渡された写真集を見つめながら、私は不平を漏らす。
「私もこんな写真を撮れたら楽しいんだろうなぁ」
学校の先生は私たちのこういう気持ちを大事にしてくれないから、あまり楽しい場所とは言えない。
研究者として働く父から得ることのできる知識の方が、よっぽど楽しいものだった。
父の話はいつも希望にあふれていたけれど、このときはなぜか渋い顔をしていた。
「残念だけど、それは難しいな。地上はとても危険な場所なんだよ」
「どうして?」
「空には太陽という神様がいてね、とても強い光を放っているんだ。大昔、人々がまだ強い体を持っていたころは、植物や動物が生き生きとしていて、暖かい空気に包まれていたそうだ。それも太陽の光のおかげなんだ。でも長い時間をかけて地上に蓄積された光はどんどん人間の体をむしばんでいった。肌は黒くなり、目は灼けるように熱く、しまいには体が溶けてしまう病気が流行して、たくさんの人が死んだんだ。」
「・・・」
父の話が少しづつ暗色を示し始め、私は固唾を飲んで聴き入っていた。
「でも人類には生き抜く手段があった。生まれた育った星、この地球とともに生きるために地下で暮らすことにしたんだ。おかげで太陽の脅威はなくなり、豊かな生活を獲得することができた。基盤を作ってくれた先人たちの知恵は、この地下でずっと残り続ける。今を生きる私たちは、わざわざ危険な場所に行く必要はないんだよ」
「それならなんで、お父さんは地上の研究をしているの?そんなに危ないなら、お父さんもいかない方がいいに決まっているよ」
穏やかな口調で話していた父にすがるように、素直に思ったことを口にする。
家族は私と父しかいない。
私にとっては父だけが頼りになる、かけがえのない存在なのだ。
「残念だけど、それも難しいね。僕の仕事はこの星のすべての人類のためのものなんだ」
「どういうこと?」
「この星にはたくさんの人々がいるのは知っているよね。僕たちの住む地域みたいに、この星には666の地下地域があって、それぞれの共同体ごとに穏やかな生活を過ごしている。昔は共同体同士いがみ合って、殺し合いになることも少なくなかった。人類繁栄を阻害する戦争は、太陽光と同じくらい害のあるものだったんだ」
「そうなんだ、戦争って怖いんだね」
「今はその戦争も起こらない。起こるはずもないんだ」
「どうして?絶対起こらないの?」
不思議に思って首をかしげると、父が眼鏡を光らせて笑った。
ブリッジをクイッと中指で押し上げる、大好きな科学と歴史について語るときの癖だ。
「それは空の資源を共有しているからだよ」
「空の資源?」
「僕らが地上で暮らしていられるのは先人の知恵があるからだと言ったよね。大昔、人類の身体が弱くなり始めたころ、地上には機械生命体が同じように繁栄していたんだ。人類の技術の粋が詰まった機械たちとの関係は良好で、親子のように助け合っていたそうだ。しかし、先の流行病によって人類は最盛期から急激にその数を減らしていった。”親”の滅亡を危惧した機械たちは、人類を守るために空に昇った。地上から離れれば離れるほど害性の高くなる空の途中、いくつもの機械たちが一つになり、地上を覆う一枚の布になった。その布はいくつも生成され、元居た機械生命体のほとんどを吸収したと言われているんだ」
「そんなことがあったんだね・・・」
「”星の外套”と呼ばれる布。大昔の科学用語でいうところの”雲”にあたるんだけど、これが害ある太陽光を完全に反射する代わりに、地上に雨をもたらす役割を果たしている。雲は世界中に存在していて、僕たち人類の住む地域共同体”TERRA”を周期的に回遊して、地上に太陽光が溜まりすぎないように調整してくれているんだ」
「その雲っていうのはいくつくらいあるの?」
「10万とも、それ以上ともいわれている。僕たちの地域の周期は冬の12月から2月、6月、9月の5か月間。この間は地上が完全に真っ暗になって、雨や雨が凝結した雪がずっと降り続けるんだ。勘違いしやすいんだけど、雨は悪いものじゃない。貯水や温浴施設、下水処理・・・。地下水だけだと足りないから、雨や雪は僕たちの生活にも大切なものなんだ。地上での活動もこの時期しかできないしね」
父がマグカップのコーヒーを一口すする。
「戦争は、結局のところ機械資源の奪い合いだ。どちらがいかに優れた機械兵器を生産できるか。いかに多くの機械を破壊できるか。戦争は技術をつぶす、人類の知恵の無駄遣いだと、僕は思うんだ。機械をもっと有効に研究や開発に使えば、人類はもっと豊かになる。戦争なんてやったって意味ないんだよ」
「じゃあ、お父さんは僕たちの平和を守っているってことだ」
「その通り!」
父は人差し指を立てて微笑み、声の調子を上げた。
「僕の仕事は、雲を監視すること。ずっと空を漂っている雲には、時々ほころびが見られるところもあってね。私たちの生活に多大な影響を与えないように予測しているんだ。過去にも何度か似たような事例は起こっていることがわかっているから、そこから危険予測をしている感じだね。今までは過去の文献をさらうくらいしかできなかったんだけど、機械技術が再び私たちの手に戻ってきて精度の高い機械生命体を扱うことができるようになった。おかげで雲の周回予測精度が上がって、生活の安定性が増してきている。すべては機械技術復権のおかげだね」
「へぇ~~」
父の仕事のことは、説明されても小難しい言葉が多くてよくわからなかったけど、みんなに自慢できる仕事をしているということだけはわかった。
それに仕事で忙しいということは、父が私たちのために働いているという証拠だとも。
だが、それでも憧れは収まらなかった。
手元の広々とした蒼穹に想いを馳せるほど、実体をつかむことができない事実に組み伏せられる。
「でも・・・やっぱり空を見ることは出来ないんだね」
「残念ながら、僕も見たことはないよ。太陽の光を浴びたらどうなるか、いま生きている人たちは誰も知らない。見たいと思わないわけじゃないけど、こればかりはどうしてもね」
「・・・」
しょげてむくれる私の頭に、父の大きな手が優しく置かれた。
「とはいえ、自分の知らないことに目を向けるのは学がついてきた証拠。これからもいろんなことに興味を持ってくれると父親として嬉しい限りだ。これからもそのカメラで街のいろんなものを撮るといい。面白いと感じたことや、気に入った場所とかね。まあ、地下にいるとなかなか不思議なことを見つけるのも難し・・・」
ヴー!ヴー!
「!」
「!?」
父が静かに語り始めた瞬間、けたたましいサイレンが家の静寂を割って入った。
聞いたことのない警報音に思わず身をすくめる。
「な、何の音!?」
「これは・・・!!」
驚愕の表情を浮かべた父が、取るものもとりあえず家の外に出ていく。
「待って、お父さん!」
飛び出した先、街の人たちが天井を見上げて動揺していた。
地割れでも起きそうな人々のざわめきと、警備隊の誘導する声が重なってくらくらする。
経験したことのないような事態であることはすぐに分かった。
視線の先、父の白衣が揺れた気がした。
「お父さん!」
向かう先は研究棟。
街で最も高い建物であり、唯一地上とつながっている連絡昇降機が設置されている。
全面ガラス張りの昇降機に仲間たちと乗る父の姿を見るたび、父が無事に帰ってくれるように家から祈っていた。
地上見学でも利用したそれは見た目よりも無骨で、私は父がもう戻ってこれなくなってしまうのではないかと感じてしまった。
「僕も行く!待って、お父さん!」
街で騒ぐ人々の足元を縫いながら研究棟へ走る。
普段は重い扉が、混乱して流れ込んでくる人々に押し切られる形で口を開けていた。
押しとどめる警備隊と街の人々にもまれながら、父がいるはずのメインルームに向かう。
「ポイントEはもうダメだ!今にも崩れちまう!」
「K、L、Mとの結束断裂!近接するU~Yにも影響が!」
「このままだと基盤のZが・・・!!」
昇降機までの道のりで飛び交う怒号が事態の異常さを表していたが、それ以上に父のことが気がかりだった。
父はもう昇ってしまっただろうか、もし地上で溶けてしまっていたら・・・。
嫌な想像を振り払いながら進む、進む。
3台ある昇降機の内、1つは地上へ進む途中だった。
隣で口を開けた昇降機に飛び乗り、ボタンを押して昇っていく。
だんだんと近づく地上に、以前の真っ暗闇を思い浮かべた。
その中で溺れるようにもがく父がいる気がして、昇っている間ずっと目をつぶっていた。
「お父さん・・・!」
家で祈っていた時と同じように、顔の前で手を組み結ぶ。
耳の感覚がだんだんと軽くなっていくのを感じていると、瞼の向こうから感じたことのない光と熱が迫ってきた。
「・・・?」
顔を上げて見てみるも、ぽっかり空いた穴が白く染まっているだけ。
しかしその先には何も見えない、ただまばゆい光だけが突き抜けてきている。
組んでいた手を掲げて光を遮るが、昇降機のガラスに光が乱反射して駆け巡る。
減速していく昇降機に身を預けながら、私はだんだんと死に向かっていくような感覚に陥った。
白い穴がすぐそこにまで迫り、急に視界が開ける。
「・・・!まぶしっ・・・」
昇降機の中で感じていた以上の光が全身に降り注ぐ。
まだ慣れない目をゆっくりと見開き、自分以外の存在を探して頭を巡らせる。
「・・・お父さん・・・?」
左を見ると、別の昇降機の前で立ちすくむ一団がいた。
背の高い大人たち、その中に見慣れた顔を見つけた。
他の大人たち同様、口を開いたまま天を仰いでいる。
再び声をかけようとした私も、父の先の景色につられて天に目を向けた。
「空だ・・・」
透き通る青。薄く水で溶いた絵の具を引き伸ばしたような鮮やかさ。
先ほどまで眺めていた写真集の青空がそこに広がっていた。
届くはずも、見ることもないと思っていた景色。
宝石やイルミネーションなどとは違う、自然なままのきれいな場所に感情が追い付かないほどに感動していた。
「!コウ、なんでここに・・・」
呆けていた父が私に気付き、駆け寄ってくる。
「お父さん、これが空・・・?」
「そうだ、そのはずなんだが・・・」
「主任!計測値出ました!」
父の研究チームの一人が簡易パソコンの画面を見つめて叫ぶ。
「どうだ?」
「それが・・・おかしいです。これほどの形状変化があるのに、”外套”停滞期の実測値と同じです!」
「
「違います!光満期とは真逆ですが、
天の景色に目を奪われている私の横で、父が難しい顔をしてうなる。
「ありえないことだ・・・、どう見ても”外套”は機能していない。だが計測値は”外套”の存在を示している・・・。肉眼では観測できないということか?だったらいつもの黒い雲はどこへ・・・」
電子画面と天の青を見比べながら、大人たちが考え込んでいると、もう一つの昇降機から到着音が響いた。
2人の屈強な男を従え、小柄な人がひょこひょこと降りてきた。
「おお、本当に起きるとはな。長生きはするものよの」
見た目からは年齢が読めず、男か女かもわからない、不思議な雰囲気を纏っている。
これだけの事態にも落ち着いて笑みさえ浮かべている姿から、ただものではないことが分かった。
「星主様!なぜここへ」
「もちろんこの奇跡を見るためよ。伝承は観測されるために語り継がれるから伝承なのだ」
「伝承・・・?」
何もわからない私がつぶやくと、星主は微笑みながら答えた。
「その昔、太陽光を遮る雲ができて数世紀。機械文明が2度目の最盛期を迎えたころ、星を覆う雲にほころびが見られ始めるようになった。そなたらのような研究者が躍起になって雲の観測をし始め、監視を行うために人々は多くの機械生命体を造成した。やがて人と機械との共生が現実的になってきたとき、雲に大きなヒビが入る。崩壊は止まることなく、基盤部分にも及んで雲を完全にバラバラにした。地上から監視していた研究者らは太陽の光を浴びることに恐れおののいたが、体が溶けることはなかった。見上げると、視界いっぱいに真っ青な場所が広がっていたという―――」
「それが、空・・・?」
「その通り。今目の前で起きている奇跡は、23回目になるはずよの。天高く存在する”外套”は長い時間をかけて太陽光を蓄積してきた。その許容値がいっぱいになったとき、黒い実体部分は砕け、毒素を吸収したまま光のみを乱反射し、地上を照らす」
「こんなに明るい光は初めて見た・・・」
「黒く染まった”外套”は、砕けると同時に色素を飛ばす。その際に本来のガラス質だけが空気中に残留し、受け止めた光のうち、人体に毒になる部分を吸収して太陽光の恵みのみを地上に落とす、ということよの」
実感のわかない昔話を目の当たりにして、父を含めた大人たちはぽかんとして話を聞いていた。
私も空から目を外して聞いてはいたものの、細かい部分はよくわからなかった。
目の前で足を止めた星主は、子供の私と同じ目の高さだった。
正反対に大人びた瞳が私の抱えたカメラに向けられる。
「そして太陽の恵みを落とす代わりに、地上の恵みは天に昇る。これも”雲が砕ける”伝承とともに語られる定めよの」
「・・・?」
「!まさか・・・」
首をかしげる私の横で、父が慌てて口を挟む。
「機械生命体が、いや機械そのものが空に昇るということでしょうか・・・?」
「そう、われらの技術の粋が天へと昇り、地上を守護する”星の外套”になるときが来たのよの」
声の出ない大人たちの反応を見て、私もどうなるかを想像することができた。
「機械がなくなっちゃうの?」
「なくなるわけではない。私たちを守ってくれるのだから。共同体ごとに発達した様々な機械は一つとなり、空の資源として共有財産になるのよの」
「じゃあ、このカメラも?」
私は地下の生活風景しか写してこなかった小さな機械をポケットから取り出して、まじまじと眺めた。
数えるほどしか使っていないけれど、手に収まるサイズがなじみ、ひそかに気に入っていたのだ。
「そっか・・・」
「コウ・・・ごめんな。お父さんが知っておけばカメラを買うこともなかったのに」
「・・・」
否定も肯定もできず、ジッと手元の塊を見つめていると、朗々とした笑い声が響いた。
「ほっほっほ。そんなに気落ちするものでもないのよの、コウとやら」
「?」
「この伝承には続きがあってな。雲が砕けてから光満期になるまでの間、空は最も明るくなるそうな。害のない光の中を楽しむことができるのはこの冬の時期だけ。機械も容積の大きいものからゆっくりと天へと昇っていくのよの」
星主はにっこりと笑いかける。
「そなたの小さなキャメラが天に昇るのはおそらく冬の終わり、春の始めのころ。ちょうど春を祝う祭りが開かれるころであろうよ。それまでに思う存分、おぬしのフィルムを青空に染めるのがよいのではないか?」
憧れた空がそこにある。
何よりもきれいな場所、次の冬にはきっともう見ることは出来ない。
地上に来るときには恐ろしかった光が、今となっては何よりも美しい。
初めて美しいと思った以上にきれいな空を見上げると、自然と頬が緩んだ。
「うん・・・僕いっぱい写真撮るよ」
小さな機械を握る手に力がこもる。
「この空の美しさを忘れないように」
***
―――こうして、写真家・天沢光の人生が始まった。
のちに残された写真集の最初と最後には、輝かしいほど青く染まった空の写真が飾られている。
雲が砕ける 松竹梅 @matu_take_ume_
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