公爵令嬢は手折れない
比古胡桃
公爵令嬢は手折れない
「そういうことですのっ!?」
間の抜けた大声とともに身体が、ばね仕掛けのようにびょいん、と跳ね起きる。その勢いで、外気から守ってくれていたベッドシーツは哀れもみくちゃ。
誰もいない真暗な部屋は、調度品の一つ一つが一流の職人によるオーダーメイド。
厚いカーテンの向こう、お天道様がお休み中の空には、ビーズ瓶をひっくり返したような星々。良い子も悪い子も眠り、深まった夜ともなると夜街以外の地域の明かりは殆ど消えている。貴族街も心もとない街灯のみ。
そんな深夜に眼を覚まし、挙げ句の果て、部屋にも時間帯にも見合わない声を出して身体を起こしたのは、とある小国の公爵家令嬢スフレーリア。
動悸息切れは激しく、ともすれば今にこそ倒れてしまいそうなほどに頭の中はぐるぐるぐちゃぐちゃ、混乱中。肌触りの良いはずのネグリジェは汗で肌にしとりと張り付いていて気持ちが悪い。
「とりあえず落ち着かなくては……みっともないわ」
取り乱しそうではあるが、そこは公爵令嬢。常に落ち着き払うようにと、常々教育を施されてきた。瞼をおろし、思考を急激にクールダウンさせる。貴族社会とは海千山千を越えた、全員が仮面をつけた陰謀野望の渦巻く戦場。感情を表に出すことは、それ即ち付け入られる隙。
深呼吸を数度、水差しを傾け、意匠の凝らされたカップへと注ぎ、ゆっくりと口腔内から喉へと流し込む。
「ふぅ」
乾いた身体に、じわ、と染みこんでいくのに意識を傾ける。ワンアクションを置いたため先ほどよりも幾分かは普段の落ち着きを取り戻す。静かに規則的に呼吸ができるようになったことで周囲に眼を向けてみる。そこにはいつも通りの自室。
天蓋付きベッドのヴェールの向こうには豪華な家具や、貴重な芸術品の数々が飾られているのが薄らと見える。頼んでもいないのに部屋へと置かれているグランドピアノもいつも通り。ピアノを置いても尚広々とした一室を与えられているというのが、公爵令嬢という立場を再確認させる。
きっと枕元にある呼び鈴を鳴らせば今すぐにでも召使いなりが飛んでくることだろう。
「いやいやいや、ほんとうに言っていますの……?」
誰も、何も、言っていない。そもそも、この部屋にいるのは自分一人。だというのに、そんな独り言をこぼしてしまうのは、目覚める原因となった怪夢の所為。変な夢を見て目を覚ます、ただそれだけならば、ありふれた話。
動揺が収まらないのは、夢の内容があまりにも突飛であったから。付け加えるならば、夢というには余りにも具体的過ぎて、鮮明で、目覚めるまではそれを現実と認識していたほど。
「そんなわけ、ない」
自覚、というのは、絶対不可避、この世で一番避けようのない刃。居なくなってから気付く大切な人、だなんて、普遍的に語られているのが一つの証左。知らぬ間に負った傷が、誰かに指摘されてから痛むなんて事だってある。どれだけ、誤魔化そうと、言い訳を並べてみても、自分にだけは通用しない。
主役は、スフレーリアと、もう一人。
家柄も、品格も足りていなければ、垢抜けてもいない男爵令嬢。シエラという少女。
シエラは少し裕福な平民と変わらないような木っ端貴族で、貴族としての常識に欠けるところがある。結果、スフレーリアの婚約者である第一王子や騎士団長の息子、教皇子息の導師等に、馴れ馴れしく接し、どういう訳かそれが、彼らにとっては好ましく映ったらしい。
狙ってか、ただの礼儀知らずかは分からないが、自身の婚約者に取り入る男爵令嬢。貴族社会には、貴族社会の立ち居振る舞いがある。それは表向き平等を謳っている学院においても同じ。
貴族らしく、孤立するように圧力をかけた。これが、大人になれば、嫌がらせどころではなく、毒殺・人質・事故に見せかけた殺人と、なんでもござれが貴族というどうしようもない生き物。今のうちに、常識知らずの男爵令嬢に教育を施してあげよう、という心遣い半分、制裁半分の行動であった。
ところがどっこい、それで孤立する男爵令嬢が、悲劇のヒロインに映るのか、節穴達……失礼、王子達は更に、シエラに過保護に。そうとなれば、もはや何をせずとも、他の生徒から反感を買うもので。
シエラという少女は、国の将来を担う殿方に囲まれていながら孤立していた。
ここまでが現実で、ここからが夢の話。
自身の婚約者と引き剥がし、貴族としての常識を教える為の嫌がらせの数々は段々とエスカレート。家柄を利用した男爵家へのちょっかいと言う悪事に、他生徒の嫌がらせすらも、ついでとばかりに擦りつけられ、見事、婚約破棄。
以降、貴族として瑕を負ってしまったスフレーリアは大人しくなり、男爵令嬢ことシエラの側には、彼女を慕う王子等々が側にいて平和に過ごしました。めでたし。めでたし。
「いえ、めでたくはないでしょう」
ぶんぶんと、頭を振るう。寝起きでも尚、カーテンより差し込む僅かな月光を吸い込み、静かな燐光を放つ自身の銀糸のような髪が膨らむ。
勧善懲悪の物語の悪役となり、断罪されるのは百歩譲って許そう。それは上手くやれなかった自分の落ち度で、それすらも見越したシエラが一枚上手だっただけ。
婚約破棄されただけで済んだのは一重に公爵令嬢という立場があったからに違いない。王子ほどの相手とは言わないが結婚相手には事欠かない。それだけの知識と容姿と家柄は兼ね備えている自負があり、そうあれかしと育てられ、高貴なるものの定めと受け入れてきた。
重要なのはソコではない。婚約破棄でさえスフレーリアにとっては小事。
夢で感じた将来の可能性を垣間見た時に、婚約破棄を学院の生徒達の前で言い渡されたときの感情が、今も生々しく心にへばりついている。
婚約破棄という物語の終局において、自身の婚約者であった王子と親しくするシエラ。スフレーリアは狂いそうになる程に、心乱れた。嫉妬した。婚約破棄などよりも、王子とシエラが手を繋いだ時には、あまりのショックに頽れた。
どうして……どうして、シエラの手を握っているのが自分ではないのか、と。
「……そういうことだったのね」
公爵令嬢という、この国の貴族でも最も影響力のある家の娘であるスフレーリア。本当に、自身の婚約者からシエラを引き剥がそうとしたならば、鶴の一声。王子に直談判すれば、少なくとも、嫌がらせをして引き剥がす必要はない。にも拘わらず、自身がシエラばかりに構うのは何故なのか。
王子に接触されるのが気に入らないという嫉妬心だと思い込んでいた。が、蓋を開けてみればこれ。
「好きな相手だからこそ、嫌がらせをしてしまう……こんな幼稚な……」
自身の好意に気付かずに及んだ行為で、本人を傷つけるとはなんと愚かしいのか。とはいえ、そもそも自身が同性に対して好意を抱く性分だなんて、気づくわけがない。
「どうしたものかしら」
これまで、シエラに対して棘のある言葉を言って孤立させる原因を作ってしまったが、夢の中ほど苛烈な嫌がらせはしていない。気付くのが遅く、既に過ちを犯してしまってはいるが取り返しがつかない状況でもないはず。
神か、運命の悪戯か。ただの偶然か。ともあれ、自身の感情の正体を教えてくれた夢。それを知ったこの瞬間、引くという選択肢はスフレーリアにはない。知らないでおけばよかった感情を、態々知らされたのだから。
というか、自覚したというのにこれまで通りで居る程、我慢強くない。
「決めたわ」
腹をくくってしまえば胸にあった蟠りは全て消え、恋する乙女のパワーは無限大だ。
あの手この手を正々堂々と尽くして、誰にも文句を言わせない。欲しいものは自身で手に入れてこそ。たとえ障害が多かろうとも、それすらも踏破して見せる。殿方連中のように、ふわふわとした距離に甘んじるつもりはカケラもない。ただでさえ、同性というハンデキャップを抱えているのだ。
覚悟を決め、出来のいい頭を全力で働かせる。
「あの娘を、堕とす」
全ては、このたった一言に集約された。
「……とはいえ、少しだけ、心を落ち着けたいわ」
呼び鈴を鳴らし、従者を呼ぶ。この乱れた心を、落ち着けるのに、少しだけ夜風に当たりたかった。
◆◇◆◇◆
「うぅ……導師様、何でこんな大事なものを忘れていってしまったのですか……」
あどけなさの残る少女は一人、日の沈んだ街中。誰が見ても上質な生地を使っているであろうことがわかる制服を身に、貴族街を一人で歩いていた。
男爵令嬢として両親からの愛をこれでもかというほどに受け、素直に礼儀正しく、真っ直ぐに育ったシエラ。
貴族とは言っても末端中の末端であるシエラの家は非常に小さく、両親は年がら年中平民の商人と忙しく働いている。この制服だって木っ端貴族にとっては痛手の出費になるのに、両親は嫌な顔一つせず拵えてくれた。
貴族街なので下町と比べて圧倒的に安全とは言えど、傍に誰も居ないというのは年頃の少女を不安にさせるに足る材料。
「こんなことなら誰かについて来て……ううん、聖典を忘れたなんて導師さまも知られたくないはずよね」
導師はのんびりとしている柔らかな目元が印象的な、この国の教皇代理のご子息さまであり、シエラからすれば雲の上の存在。けれど、人の縁とは奇妙なもので、木っ端貴族のシエラが導師のほかに、第一王子や次期騎士団長とも言える方と親しくなれるとは夢にも思わなかった。
無論、それを快く思わない人たちも居るのは当然の反応だとも思う。
その筆頭がスフレーリア公爵令嬢。
貴族院の中でも飛びぬけた美貌と聡明さを持っていて同性であってもその瞳に引き込まれそうになる。銀糸の髪の前ではどんな上等な布でも宝石でも霞むと評されるほど。美貌と立ち居振る舞いは正しく、将来の王妃に相応しい、高嶺の花。シエラなんて、公爵令嬢と比べるとその辺に幾らでも生えているタンポポのようなものだ。
そんなタンポポが公爵令嬢の婚約者と親しくしているのだ。当然、快く思われるはずがない。決して暴力等には手を染めては居ないが、公爵令嬢の棘と皮肉を十二分に含んだ物言いはシエラを傷つけるには十分。
公爵令嬢から疎まれているとなると、他生徒もシエラからは距離を置き、それを不憫に思った王子や導師達が気遣ってくれて更に……という悪循環。
「とりあえず、聖典を届けたらすぐに帰りましょう。そうしましょう」
どこか抜けたところのある導師に、大事な聖典を届け、夜がこれ以上深まる前に家に帰ろうと決意。そうでなければ夜の暗闇に脚が竦んで動けなくなりそうだった。
貴族街にある立派な教会に辿り着き、見上げる。
表の大きな扉のある教会は生活スペースではないが故に導師はいないだろうと思ったが、いきなり裏に回ってお邪魔するのも失礼ではないだろうか。うんうん悩んだ後に教会の聖堂にいなかったら裏に回ろうと扉をゆっくりと潜った。
「ふわぁ……」
静かで人の気配はせず、天窓を通して星と月明かりだけが照らす聖堂内は幻想的で、声にもならないほどの感嘆の溜め息が零れた。空気すらも荘厳であり、静けさと相まってこの聖堂内だけ別世界のよう。
「どなたかしら?」
ゆたりと聖堂内を見回しながら歩いていると、急に声をかけられてしまいビクりと跳ねる。誰も居なかったと思い込んでいた故に第三者に動揺を隠せない。
「え、えっと、わた、私は……」
「落ち着きなさい、主が見ていらっしゃるわよ」
綺麗な声に促され深呼吸を一つして、聖堂の奥に佇む人影を見つめる。
「ぁ……」
視線が目の前の光景に吸い込まれてしまい、頭の中にあった混乱の全てがどこへなりと消える。心の内から情のうねりが湧き、映る彼女に惹き付けられていた。聖堂の中心にいたというのに、気付かなかったのは、あまりにもこの空間と、彼女という存在が調和していたから。
月明かりをそのまま吸い込んでしまったかのような銀糸の髪を揺らし、真白な透き通るような肌は薄暗いというのにも映えていて清楚さと妖艶さが同居。
その上、誰も居ない聖堂内という神聖な空気が彼女と自分を包み込んでいて物語の中に迷い込んでしまったかのように錯覚してしまう。
「綺麗……」
自分にも聞こえるか怪しいほどの声での呟きは当然、彼女に届きはしなかった。シエラは此処に来た目的も頭から飛んでしまうほどに、その眼に映る幻想的な彼女に見惚れてしまっていた。
「貴女、シエラさん?」
「は、はい!」
名前を呼ばれたことで、意識は急速に現実へと引き戻されて現状を理解しようと働かせる。
目の前に居る彼女は、シエラのよく知る……否、知らない者は貴族学院には誰一人いないだろうスフレーリア公爵令嬢、その人。スフレーリア様だと気付くと、サァと頭の芯の部分が冷えていくのを感じる。こんな所でシエラのことを疎ましく思っている彼女に出会ってしまったのだ。
何より、手には聖典。下手をしたら盗んだかのようにも見えてしまう。
「そ、そのこれは導師様が……!」
咄嗟に事情を説明しようとするも、想定していなかった人物の登場に動揺して上手く言葉に表すことが出来ない。そもそも、シエラはそれほど口が立つ方ではない。
「そう、あのお方も時々抜けたところがあるものね」
「へ、あ、はい」
盗んだのではと嫌味たっぷりに糾弾されるつもりでいた。どころか、盗人にされ、退学、爵位剥奪さえも頭によぎった。と、言うのに帰ってきた言葉は正反対ともいえるほどに柔らかくて拍子抜け。唖然としているシエラを見つめた後、視線を逸らし天窓を見つめるスフレーリア様の目元は僅かに赤らんでいるように見えた。
「いい切っ掛けだわ」
そう、呟くスフレーリア様の真意は解らず、ただただ黙って綺麗な彼女を見つめることしか出なかった。呟いた後にシエラを見つめるスフレーリア様の眼はこれまで見たことのないほど真っ直ぐで、ずっと見つめていると吸い込まれそうだというのに目が離せない。目の前の彼女が人々を魅了する魔女だと言われても納得してしまいそうになるほどに惹かれている。
「……私のお話を聞いてくださるかしら?」
宝石のようなその瞳に魅入られてしまったシエラ。とてもではないが真剣に此方を見つめるスフレーリア様の申し出を断るなんてことは出来なかった。
対するスフレーリアも、実のところ、冷静ではない。まさか、こんな時間に、教会に彼女が、シエラが訪れるなんて考えてもいない、本当の偶然。これまでの過ちと、タブーとされる同性への恋慕のような感情を、告解していた。
シエラの手には、導師の持ち物であり、準国宝でもある聖典。少し前の自分であったのならば、盗んだのだと決めつけて断罪しようとしたのだろうが……そういう娘ではないのをスフレーリアは知っているし、そもそも盗む動機がない。
ほわほわと柔らかい雰囲気を醸し出している割に、意外と狡猾な導師辺りが態と忘れていったのだろう。やり口が気にくわないが、曲がりなりにも準国宝。教科書のように、次会った時に届ける……なんて軽くは受け止められない。
だが、その導師の小狡い一手も、今、この場にいるスフレーリアによって潰える。というか、潰す。
「話の前、に。よろしければ、私から導師へと渡しておきますわよ」
「ですが、スフレーリア様のお手を煩わせるなんて……」
本心で言っているのだろうが、それは悪手。
「渡せない、ということはやはり後ろ暗いことがあることの裏返し」
ボソリ、呟くと、シエラはサーっと夜闇の中でもわかるほどに顔を青くする。あまりにも表情に出るのが、可笑しくて、クスりと、笑いが溢れる。本当に貴族らしくない娘だ。
「……なんて、言われたら貴女が困るでしょう? 私は公爵令嬢。こんな風にこそこそすることなく、堂々と渡しておきますわよ」
「でも、導師様の失態が……」
この期に及んで、自分よりも他人の心配。つくづく甘ったるい。けれど、渋み苦味しかない、貴族の付き合いに置いて、この娘の甘さはどうしようもないほど、心安らぐ。認めるのは癪だけれど、王子たちもスフレーリアもそういう所に惹かれたのだ。
「そう、失態は失態。貴女がその尻拭いをする必要はないでしょう。というか、聖典を忘れるなんて言語道断。少しくらいお灸を添えておかないと、また同じ失敗を繰り返しますわよ」
準国宝すら手段として使おうとする、導師の腹黒さは流石のものだが、目的のために手段を選ばないのは、気に入らない。
「ノブレスオブリージュ。立場や権力には、それ相応の立ち居振る舞いがあります。それが備わっていない方が、将来国を背負っていくようでは、民に示しがつきません」
ですから、と語気を強める。
「渡してくれますわね?」
導師には、明日、自分の仕出かしたしっぺ返しを受けてもらおう。遂に折れたシエラは、力なく、聖典をスフレーリアへと手渡した。
そんなやりとりをしていたからか、いつの間にか場にあった張り詰めたような空気は抜けていた。
「さて、本題に戻りましょうか」
「えっと、何、でしょうか……?」
シエラが分かりやすく困惑している。邪険にされ続けた相手が、穏やかに目の前で佇むスフレーリアの存在は、それ自体が初めて見るものだろう。
困惑ついでに、もう一つ驚いてもらおう。本当ならば、休み明けの学院で伝えようと思っていた言葉。都合が良かった。
「私は公爵令嬢という立場に関わらず、貴女には幾度も心無い酷い言葉を言ってしまいました」
はとが豆鉄砲を喰らったかのようとは正に今のシエラのことを言うのであろう。驚きで言葉にならないのか口をパクパクと動かしている。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉と共に深く頭を下げる。
誰も居ない静けさに満ちる聖堂だからこそ、立場に縛られずに心からの言葉を放てる。立場が頭を下げることを縛る。謝罪の価値を引き上げて、振るえないようにする。
自己満足としか言いようのない自分勝手な謝罪。だけれど、今回は自分の地位を利用させてもらう。公爵令嬢が頭を下げるというのは、ただそれだけで価値があるのだ。しかもその相手は同じ貴族でも天と地ほどに差がある男爵令嬢。
地位の差をかなぐり捨てて頭を下げている。誰か一人でも他の人間がこの場に居れば絶対に取れない態度を示す。
「あ、頭を上げてください! スフレーリア様は何も悪くありませんから!」
あたふたと戸惑いながら嫌な顔をせずに、スフレーリアのことを悪くないと言ってのけるシエラは心優しすぎる。どういう育ち方をしたのだろうか。罵倒の一つや二つどころか、許さないといわれることさえ覚悟していたというのに悪くないと気遣ってくれるその真っ直ぐさが眩しい。
「そもそも私が悪いんです! スフレーリア様の婚約者である王子様に近づいた私が悪いのです!」
「いいえ、王子が貴女に興味を示して近づいてきているのではないかしら?」
「け、けれど、スフレーリア様に嫌われるような行動には違いないのです! だから……」
シエラは尚も自分が悪いと言ってくれる。お人好しが過ぎる。
婚約者の間に突然現れた女だという自覚があり、だからこそスフレーリアに嫌われても仕方がないと理解している。
だが、立場上シエラに興味を示してくる王子のことを拒否だってできないだろう。下手に断ろうものなら不敬罪にすら問われかねない。身分の差が招いた不可抗力。
「違います」
「えっ……?」
「私はシエラさんの事を決して嫌ってはいませんわ」
嫌っていると思わせる原因を作ってしまった自覚があるからそう思われても仕方がないと判っているし、本当の気持ちに気付いてくれているとも思っていない。自身ですら、夢を見るまで気付かなかったのだから。
心臓の音が五月蝿く、呼吸が乱れてしまう。僅かにへたれてしまいそうになるけれど、ここで引いてしまったらきっとこの先ずっと踏み込めない。ゆっくり時間をかけていては、きっと逃げ続けてしまうだろうし、何より性分に合わない。
「私は、シエラさんのことを、愛おしく思っていますもの」
その声は聖堂内にしっかりと響いた。
「えっ……」
折角思いの丈を吐き出したというのに、少しでもスッキリすると思ったのに僅かにも心は晴れない。溢れてくるのはグチャグチャに掻き混ぜられた絵の具のような青黒い感情ばかり。独りよがりな吐露でできた絵の具は、更にスフレーリアの罪を重ね塗りした。
「え、その、スフレーリア様が私、を。えっと……?」
当然の反応。普段から邪険に扱われている相手にいきなり告白されたのだ。その上同性だというのだから混乱しないわけがない。
気まずい沈黙が空間を満たす。
少なくとも、冗談だとは思われなかったのだけが救い。冗談ですよね、だなんて聞かれていればその場で膝を折ってしまいそう。頑張れ、私は公爵令嬢。それに相応しい立ち居振る舞いがある。毅然として存在し続けなければならない。
「そうなりますわよね……私だって、つい最近気付いた事ですもの」
涙も出ていない、声は全く震えていない。だから大丈夫。問題ない。
「私は王子の傍に居る貴女に、王子ではなく私の傍に居て欲しい。そう自覚のないままに過ごし、素直になれない子供のような言葉をぶつけてしまったのよ……私の言葉一つで貴女の学院生活を左右してしまうというのにも関わらず」
未だ動揺は晴れずともシエラは真剣に話を聞いてくれている。
「気付いた時はどうにかなってしまいそうでしたわ」
「スフレーリア様……」
「だから……笑ってもいいわよ」
そんなことはないと首を横に振ってくれて、思わず頬が緩む。シエラの変わらない真っ直ぐさは、どうしようもないほどスフレーリアを安心させる。
「けれど、貴女が此処に来た。単なる偶然でも、私にとっては運命だと思ったの」
そろそろ潮時。これ以上引っ張ったらきっと、女々しく言い訳を並べてしまう。たとえこの先、拒絶され、関わることがなかろうともせめてこの一瞬だけは誰よりも美しく記憶に残しておいて欲しい。
「私は貴女には何も求めないわ。けれど一つお願いと、宣言をしてもいいかしら?」
「は、はいっ」
精一杯の微笑を、張れる限り全ての虚勢を尽くす。
「ただこの思いを胸の中に抱き続けるのを許して」
月明かりを背にシエラへと語りかけた。この暗闇だ、崩れそうになる笑顔もきっとわからないだろう。声だって芯が通っていて明瞭。スフレーリアは最後まで公爵令嬢然として振る舞えているはず。
「同性だからなんて、関係ない。これまでの泥だって全て削ぐ。あなたの視線の先に常に私が居るように、してみせます」
シエラという少女を、手に入れる。私は、欲しいものは全部手に入れないと気が済まない、ワガママな公爵令嬢。
「私はあなたの心を、落としてみせますから。覚悟しておいて頂戴」
ピシッと、思考がショートしたのか石のように動かないシエラ。
「それではごきげんよう」
固まっているままのシエラの横を銀糸の髪を揺らしながら、確固とした足取りで通り抜けただの一度も振り返ることなく教会を後にする。
これからが肝心。
距離を置かれるかも知れないが、当たって砕けろを実践したのだからもう躊躇いはない。当たっても、自分自身が認めない限りは砕けることも、倒れることもないのだと知ったから。
次に学院で顔をあわせたときには出来るだけ綺麗に見えるように、同性ですら魅了できるように自分を磨いて話しかけてみよう。心を奮え立たせて自分の家へと戻る。これからの未来は夢で見たのとは全く違うものとなるだろう。自身の手で変えて、自分の足で歩いていくのだ。
そう思うと、靄のような感情は少しではあるが鳴りを潜めてくれた。
明くる週明け、休日を挟んで学院へと登校したスフレーリア。
取り巻きの令嬢たちの聞き飽きた社交辞令に礼を述べて自身の席へと座り、読みはじめた書籍を取り出して開く。
少しでも知識をつけて、これからの障害を乗り越えるための下地を培わなければならない。一度心に灯が灯ったスフレーリアは行けるところまで行くと心に決めた。公爵令嬢という立場は確かに強力だが、王子達に比べれば見劣りする。どこまで言っても、家柄は家柄でしかない。
女は恋をすると美しくなると言ったがアレは正確ではないと今ならば言える。恋をしたから美しくなろうと努力するのだ。愛しの人を振り向かせるために。
そんなことを考えながら目の前の書籍へと意識を沈ませる。力では今すぐ殿方には敵わない。であれば、磨くのは頭以外にありはしない。貪欲に知識をつけて何処に出しても、何を為しても恥ずかしくない公爵令嬢を目指すと心に決めている。誰にだって、文句は言わせない。
「ス、スフレーリア様!」
思考に没頭していた頭はかけられた声によって現実へと戻ってくる。その声だけは聞き間違いようがない。
「ごきげんよう、シエラさん」
「ご、ごきげんよう」
本から顔を上げてにっこりと微笑んでみせる。
周りはザワザワ。どういうことかと何かを囁きあっている。シエラの後方ではスフレーリアを睨み付けるような、それでいて戸惑っているようにも見える王子たちが居た。
けれど焦点はソコではない。距離を置かれてしまうと踏んでいたけれど、シエラ自身から話しかけてくれたのだ。スフレーリアの思っていたよりも嫌われていたわけではなかったということだろうか。思わぬ僥倖に、今すぐ二人きりの茶会でも開いてしまいたい程に心が跳ね回る。立ち上がって、手を取りたい衝動を抑え付けて、澄ました仮面を身につける。
「スフレーリア様、その、今日のお昼……」
少しだけ顔を赤らめ、それ以上に強張った表情で何かを言い淀んでいるシエラ。何を言いたいのかを察し、言葉の続きを奪う。
「シエラさん、よろしければ今日の昼食、ご一緒しませんこと?」
可憐な笑顔を浮かべてランチのお誘いを投げかけた。公爵令嬢として、自身よりも下の人間に誘われて食事をするのはよろしくない。だからこそシエラは此方から誘えるように余地を残しておいてくれたのだろう。いや、そこまで計算するほど器用な娘ではない。本当に、純粋に誘いたいだけ。真偽は、わからない。でも、構わない。後で本人に聴けばいい。
「よろこんで!」
花の咲いたような笑顔を浮かべて誘いを受けてくれたシエラ。周りの人間は事情を知らないが故に目を丸くして驚いている。それは王子であろうと騎士団長子息だろうと変わることはなかった。
◇◆◇◆◇
「はぁ……緊張したぁ」
溜め息一つ。全身が強張っている。それもこれも、スフレーリア様と一対一でランチするとは思っても居なかったから。
曰く『他の方がいると、緊張するでしょう?』らしいけれど、シエラからするとどっちもどっち。確かに、シエラを快く思っていない生徒の中に放り込まれるのは、正直、気が進まない。けれど、公爵令嬢と一対一で、というのはそれはそれで心休まらない。
(あの方が、凄まじいというのか……)
敵意を向けられている時には、冷たくて怖くて鋭い人。だが、その刃先が収まりってみれば、印象は反転。品位に溢れていて、とても聡明で、あっという間に時間が過ぎた。とはいえ、気疲れしてしまった。理由は、比べるのも烏滸がましいほどに貴族として差があるから……ではなく、昨日の夜、偶然会ったスフレーリア様に愛の告白をされたから。それも、向こう十年は薄れることのないような立派な宣言付き。
嫌われていると思っていた相手からの、告白。しかも相手は同性、その上、公爵令嬢。どうしても昨日のことが頭をよぎる。同性同士であるから恋だの愛だのと言った、先はないと考えていた。
(なんかずっといい匂いした……)
だというのに、一度意識すると、同性であるはずなのに一挙手一投足を目が追いかけてしまう。昨日の出来事が、あまりにも現実感がなさ過ぎて、思わず
『どうして、スフレーリア様は、私のこと、を、その、好きなんですか?』
と、聴いてしまった。同性だとか、そういうのは全部抜きにしても、何故好かれるのかわからなかった。勇気を出して聞いたというのに、スフレーリア様は、どこ吹く風でたった一言。
『さぁ?』
揶揄っているのか、意地悪をしているのか。なんて考えていたのだけれど、本当にわからなかったらしい。考え込む姿さえサマになるのは、なんだかズルイ。
『それが分かっていたら、貴女に嫌味を言ったり、孤立するような行動はしていないわ。本当に、困ったものね』
頬に手を当てて溜め息をつく仕草。教室では決して見せることのない、少しだけ緩んだ姿が、失礼にも可愛らしいと思ってしまって。
そこで終わらないのが、スフレーリア様。その後の、たった一言が、シエラの落ち着きを奪い、今も、頭の中をいっぱいに埋め尽くす。
『だから、これから、どうして貴女を好きなのか、どこを好きなのか。全部、解き明かすつもりよ』
涼やかに、けれども瞳だけは熱を込めたままスフレーリア様に、見惚れていた。綺麗さ、というのは一定のレベルを超えると、性別なんて些細なものになってしまうのだなぁ、とぼんやりと考えながら。
(ううん、違う違う。私は、普通の女の子なんだから……)
では、スフレーリア様は普通ではないのか。と、聞かれたら答えはイエス。僅かの隙間も与えずに頷ける。あの人を普通にしてしまうと、殆どの貴族が落第になってしまう。間違いなく、変わり者。ではなければ、シエラの事を好きになるなんてありえない。
そんな感じで、ずっと頭の中をたった一人でいっぱいだったお陰で、午後の礼法の授業は、もうダメダメで。ただでさえ苦手だったのに、みっともなく笑われてしまう始末。こんな調子では、すぐにスフレーリア様も呆れて、元通り、冷たくされるのではないだろうか。
「はぁ……」
一体、自分の慎ましやかな、それでも楽しい学院生活は何処へやら。
「シエラ、少しいいか」
声をかけられてハッと、意識を取り戻す。
「王子様、いかがなさいました?」
視線をあげた先に居たのは、スフレーリア様の婚約者である王子。建前上は、学院は家柄が関係なく平等な学び舎である……とのことだが、結局、それは建前で。学院に入ったことで浮かれていたシエラは、そんな建前を鵜呑みにして、王子に普通に話しかけてしまった。それが面白かったのか、気に入られてしまい今に至る。
「その、少し時間を貰えるかな?」
周りを目線だけで見渡している所を察するに、教室内ではできない話なのだろうと察して立ち上がる。
「察しがよくて助かる」
微笑む王子の、爽やかな笑顔。甘いマスクは年頃の少女ならば、クラリとしてしまうもので、王子は二重の意味で学院の王子様。そりゃあ、そんな人に目をかけられるシエラは孤立する。
教室の中を見渡す際、一際目立つ人と目が合った。ついこの間までの、睨むような視線はなく柔らかく微笑んでくれた。さらには胸元で小さく手を振ってくれて、不意に胸が弾む。冷たくされていたのに、少し優しくされただけで喜んでしまう単純な自分はさながら犬。尻尾があれば、今頃、わかりやすく左右に踊っていたことだろう。手を振り返すのもどうかと悩んでいると、目線で早く行きなさいと促されて、王子の後を急いで追った。後で謝らねばと心のコルクボードにしっかり留めておく。
「待たせた」
王子に連れられた先の空き教室では導師や騎士団長子息といった、シエラの事を気にかけてくれている人たち。錚々たる面々に、シエラが何かをしたのではないかと心の中で冷や汗がたらり。
「シエラさん、迷惑をかけてしまいましたね」
導師がゆっくりとした口調でシエラへと挨拶すると共に、手元の聖典をトントンと突いた。かの公爵令嬢はいつの間にか、きちんと忘れ物を届けてくれていた。
「あの、スフレーリア様は、何か言っておいででしたか?」
見た目と相まって、苛烈な人であるスフレーリア様は、たとえ相手が誰であっても、自身の考えは曲げそうにない。たとえそれが、学院で人気の導師様であろうとも。
「いやぁ、こんこんとお説教されるのなんて、何年振りかなっていうくらい怒られたよ。それも人が沢山いる中で……」
「それは、その……」
「こういうのを顔から火が出るっていうんだろうね」
呟いて、頬をかく導師様。さしもの導師様も、公爵令嬢の前では形無し、らしい。
「えっと、改めまして、ごきげんよう。私に何か用でございましょうか?」
スカートを摘まんで恭しく、出来るだけ品良く挨拶をする。礼法の授業で、教師よりも品のある振る舞っていたスフレーリア様の見様見真似。
「そんなに畏まらなくてもいつも通り、砕けた態度で構わないよ」
「えっと、そ、そうでしょうか……」
「その気を張らないところが、シエラの良いところだからね。あまり礼法とか得意じゃないだろう」
良いところ、というよりもただの礼儀知らずと世間知らずのハイブリッドなだけ。意図して振る舞っているわけではない。きっと、授業中の失態も見られていたのだろう。
「うぅ、その通りですけど……はぁ、スフレーリア様に頼んだら、教えてくれるでしょうか」
空き教室にため息が膨らむ。
「スフレーリア、か」
シエラがその名前を出したことで、場の空気が僅かに張りつめた、気がした。逡巡するように王子がそれぞれに目配せをし、一つ頷いて重々しく口を開く。
「単刀直入に聞く。スフレーリアに脅されていないか?」
「……は?」
素っ頓狂な声が出てしまった口を慌てて押さえつける。間の抜けた声が木霊するのが、他の生徒……特に、シエラのことを嫌っている人たちの前ではなくて良かった。
「その、私の無知を晒すようでお恥ずかしいのですが、質問の意図が掴めません」
深刻な表情から出た意味の分からない言葉は、万年平均点には少し難しくて。
「そのままの意味だ。スフレーリアは君をずっと邪険に扱ってきただろう? だが急に二人で昼食なんて、何かあったんじゃないか、と心配でね」
御三方の意見はつまるところ、溝があった二人が急に一緒に食事、なんてシエラが権力の差で脅かされているのではと勘繰っているらしい。ようやく質問の意図を理解すると拍子抜け。
きっと、それは王子だけではなく、誰にだってそう映ることだろう
「えっと、私とスフレーリア様の間には不幸な行き違いがあっただけなのです。誤解というか、すれ違いがなくなったから、よくしてくださっているだけで、何も心配はありません」
確かに、以前は永遠に分かり合えることがないだろうと半ば諦めかけていた。けれど、真意を知った今ではなんと馬鹿な擦れ違いだったのかと笑い種にさえしてしまえる。自分で言うのは憚れるけれど、好いてくれていたのだから。
ただ、その行き違いの理由が理由なだけに、明かすわけにはいかない。
笑顔で言ったにも関わらず、シエラを纏う視線は猜疑の色を強める。
「……それは本当か?」
「はい、本当です」
躊躇いなく言いのけた。けれども、信じてもらえていないのか、王子達は顔を見合わせている。確かに、シエラのような下っ端貴族がスフレーリア様に気をかけてもらっているのは引っ掛かるかもしれないけれど事実。
「脅されているのならば恐れずに打ち明けて構わないんだよ。こう見えても、王子だから、君を守ることくらいなら出来る」
王子の言葉の余りある事の大きさに驚く。ただの木っ端貴族であるシエラの為にそこまでしてくれるのか、と。言葉を咀嚼した次には、何というか、大変失礼なのは百も承知なのだけれど、馬鹿馬鹿しいというか、見当違いのことを言ってことへの呆れがぽこぽこと、湧いてきた。
「心配には及びません。スフレーリア様はそんなお方じゃありませんから」
語尾がキツくなってしまったがそれでも構わない。というか、王子は仮にもスフレーリア様の婚約者なのだから、直接聞くなり、少しは気にかけるなりしてはどうなのだろうか。あの、スフレーリア様を娶れるということをもう少し、自覚してほしい。
「そう、か……けれど、何かあったら助けになるから、遠慮なく頼ってほしい」
とはいえ、善意からかけてくれている声。本当に脅されていたのならば、正しく救いの手なのだから、跳ね除けるわけにもいかない。返答に困り、縮こまる。
生まれる、僅かな真っ白の時間。ちょうど、狙ったかのように、誰も来ないはずの教室の扉が盛大に鳴き声をあげた。
「失礼いたしますわ」
一瞬の沈黙を塗りつぶしたのは銀色のよく通る声。計八つの眼球は全て、教室に入り込んできた、その人の元に。
「スフレーリア……」
「ノックも無しに入ってくるなんて、礼儀に欠けているんじゃないかな?」
呟く、王子の表情は俄に強張り、導師様がチクり、と言葉の針を飛ばす。普段、柔らかな優しい表情をしている導師様の棘のある言葉、シエラならそれを受けただけで、腰が引けてしまいそう。
「殿方が寄ってたかって、空き教室に婦女子を一人拉致したのが目に入ったものですから、助けに入らなければ、と思っただけです」
されど、相手は並ではない、公爵令嬢。軽々しく躱して、カウンターパンチまで見舞うのだからとんでもない。導師含め、全員が顔を顰める。やんごとなき身分の方たちはきっと、痴漢予備軍扱いされたのは生まれてこのかた初めてだろう。
ツカツカ、と。毅然とした態度で歩みを止めないスフレーリア様をポカンとして見つめていると、いつのまにかすぐ横に来ていて。グッと、腰に手を回される。
「きゃっ」
「私の大事なシエラさんに何かされるのかと、気が気ではありませんでしたもの」
ふわり、空き教室の無機質な匂いが一変、品のある、体温を孕んだ生花のような匂いに包まれる。殿方に囲まれて緊張していたのが、その匂いで別のものへと変わってしまう。心の臓が熱を持ち、暑くなった血が全身を巡る。
不快感は僅かにもなくて、心地いいくらい。
「……自分が、シエラを邪険に扱っていたのを忘れたのか?」
スフレーリア様の行動に、目を丸くしている王子の問い。その問いの答えは、もう知っている。
「忘れるわけがありません。だからこそ、責任を持ってこの娘を導きます。それが、私なりの償いであると確信しています」
公爵令嬢直々の指導。お金を払ってでも、されたいという生徒は後を絶たないだろうに。
「シエラさん」
「ひゃ、ひゃいっ」
凛とした声が、私の名前を、真っ直ぐに呼ぶものだからびくりと、反応。
「あなた、間の抜けた声が多すぎます。もう少し、貴族としての自覚を持ちなさい」
降ってきたのは、優しい言葉ではなく、厳しい指導。穏やかな両親の元、のびのびと育ったから、その言葉に縮こまる。でも、そこにはどうしてだか、温もりがあるような、気がした。
「自然体でいいと、僕たちが言ったんだ。あまりいじめるのは……」
「王子、あなたもです。自覚はありまして?」
すぐに王子がフォローに入ってくれるけれど、やぶ蛇とはまさにこのこと。矛先が変わったのを察したのか、ピクリ、王子の爽やかフェイスが曇る。吸い込まれるような人形のように綺麗な瞳に、圧力を込めてを向けられると、固まってしまうのは、この国を将来背負う人でも変わらないようで。
スフレーリア様は『自分のことは棚にあげさせていただきますけれど』と前置き。
「シエラさんの事を気にかけるのであれば、尚の事、指導するのが務めではありませんか? それを、自然体が魅力なんだと言って周りも憚らずに声をかけるから、この娘が孤立するのでしょう」
その言葉は、この場にいる殿方全員に突き刺さるもので、矢で射抜かれたような呻き声が上がる。けれども既に追撃に入っているようで……『そして、何より気に入らないのが』と言葉の剣を振りかざし。
「直接、私に聞けばいいでしょう。会いたいのかどうかは知りませんが、態々、私をダシに、シエラさんを囲むなんて、迂遠で、女々しいのではなくって?」
スパッと、気持ちのいい程の切れ味を誇る刃が、一息に三人を切り払った。古今東西、正論というものは舌戦において絶大な強さを誇る。
「それでは、ごきげんよう……ほら、あなたも」
スフレーリア様が恭しく礼をして、その場を後にしようとする。促されて、礼をしようとすると、背中に手を添えられる。
「足はあまり開かないように。ゆっくりと、髪を乱さないで、角度は決して頭頂部を見せることなんてないように」
手取り足取り、触れられる度に、鼻腔を華やかさがつっつく。しかし、それだけでは終わらなくて、わずかに混じるスフレーリア様自身の匂いが、銀糸に隠れたうなじから漂ってくる。一体、この世界の何人が、この人そのものの匂いを嗅いだことがあるのだろうか。
これまで体感したことが無いような跳ね方をする心臓をなんとか抑えつけながら、必死に指導に耳を傾ける。
「そう」
なんとか、形になって一礼。たどたどしく、ようやく形になっただけ。それを見た、スフレーリア様が、ゆっくりとその唇をシエラの耳元に寄せた。リップノイズが耳道を艶めかしく這いずる。何を言われるのだろうか、と身構える。
「よくできているわ」
ぞわぁ、と背中に甘い何かが走った。降ってきたのは、鞭ではなくて、甘い甘い飴。耳から入って、鼓膜で溶けて、全身へと回る、即効性の。
スフレーリア様の手が自然と、シエラの手を握り、空き教室を後にした。今のたった一言で、頭から全てが吹き飛んでしまった。気がつけば、廊下へと出ていて。パッと離される手。外気に触れた手のひらが、名残惜しく追いかけようとする。スフレーリア様の体温を。
「ねぇ、シエラさん」
先ほどまでの苛烈さが、鳴りを潜めた、静かな声。その温度差がさらに底なし沼へと引き込まれるようで。
「イヤじゃありませんでした?」
身体全体でゆっくりと振り返るスフレーリア様。決して、顔だけで振り向くなんて、そそっかしい真似はしない。
「えっと、何が、でしょうか」
らしくない、主語が抜けている、ふわふわとした言葉。
「全部よ。私があなたの指導をしたことや、王子達の間に割って入ったこと。そもそも、あなたを好いていることも」
そんな様子は少しも見せなかったというのに、内心、そんな風に思っていたことで、ようやく、同じ年であることを思い出す。振り回されてはいれど、イヤではない。
「イヤなんて、思っていません。指導してもらえるのは本当に助かりますし、お近づきになれて、嬉しいです」
それに、と付け加えて、手を握ってみる。
「こうやって、スフレーリア様の素顔が見られるのが私だけの特権なんだって思うと、嬉しいです……ってまた、私は失礼なことをっ」
そう言って、慌てて手を離すと、スフレーリア様はターコイズブルーの瞳を丸くしていて。数瞬の間ののち、くすっ、と微笑んだ。
「一つ目、ね」
「へっ?」
注意されたばかりだというのに、間の抜けた返事がこぼれてしまう。貴族らしくない、シエラにも問題はあるけれど、今回に限っては、意図の掴めないことを言ったスフレーリア様も悪いと思う。
「言ったでしょう。あなたをどうして好きになったのか、全部解き明かすつもりだって」
「はぁ……」
それが、どこに繋がるのだろうか。全然、話の筋が見えないシエラはすっかり迷子。
「だから、あなたの好きな好きなところの一つ目がわかったのよ」
言われて首を傾げる。今の会話のどこに、好かれる要素があったのか……粗相をしただけだというのに。
「あの、どういうところ、なんでしょう?」
自分で、聞くのは少し恥ずかしかったけれど、このままだと悶々として夜が眠れなくなりそうだった。スフレーリア様は、唇に人差し指を添えて、いっそ態とらしい程に考え込んだ後、ニコリ。
「秘密」
がくり、肩から力が抜けた。けれど、言葉はそこでは終わらなかった。
「シエラが私に落とされた後に、全部、丁寧に教えてあげる」
口の端が上がり、目が細くなる。意地悪な、けれど、目を離せないその表情に、他の全てを忘れてしまうほどに見惚れてしまって、すとん、と何かを踏み外しそうになった軽い音が頭の奥隅から響く。顔に集まっていく熱。
気付く。どんどん、とスフレーリア様に惹かれている。どうしようもないほど、強い引力で。
でも、簡単に堕ちるようだと思われるのは、シエラの中の数少ないオンナとしてのプライドが許せなくって。
「そ、そんなに簡単には落ちてあげませんから」
せめてもの抵抗を、してみた。けれど、それを聞いてもスフレーリア様は意地の悪い笑みを深めるばかり。
その抵抗が墓穴を掘っていることに気づいたのは、帰ってから。
そして、スフレーリア様に好きになった理由をこんこんと説明されるのは、もう少しだけ先のお話。
公爵令嬢は手折れない 比古胡桃 @ruukunn
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