第3話

 アイススケートリンクに笑い声があふれている。それはコーチがコミカルな動きで観客を笑わせているからだし。コーチに向けてとんだヤジにまがいの声援に答えながら演技しているからでもある。


 曲調はアップテンポな、いかにもなゲームミュージック。それに効果音を混ぜながらうまい具合に構成されている。ついこの前までネタに困っていたとは思えないほどの完成度と演技者のノリノリっぷりだ。


 本来の大会ならこんな演技は許されないだろうし点も伸びない。よくあるエキシビションのそれよりもより、マニアックでコミカルだ。


 そして、功樹はそのありえないくらいの会場の雰囲気にのまれかけていた。コーチの滑りは全盛期に比べればそれこそ大したことはない。あらも目立つし、ジャンプの迫力だってまったくない。でも、聞いたことがないくらいスケートリンクの空気は笑い声で振動している。そんな光景みたことがなかった。


 普段の大会はその場の全員が見入るように演技者をじっと固唾をのみながら見守る感じだ。始まりから終わりまでひとつの動作も見逃さないようにじっと見つめられる。


 でも今はどうだ。観客はよそ見はするし、話し声も絶えない。到底真剣に見ているようには見えない。でも。でもだ。


 功樹が見てきたどの演目より。観客が楽しそうにしている。派手なジャンプがなくても、技巧に溢れたステップがなくても、目まぐるしく変わるスピンがなくても。


 楽しそうにしている。


 それを見て、言い表せられない何かが心の奥底から湧いてくるのを感じる。あれほど嫌だったはずの。みじめだと信じてやまなかったその姿に。


「なんでだよ」


 そう自然と言葉が漏れた。


 それに答えるかのようにコーチと視線が合った。見てろよ。そう言っている気がした。


 コーチはジャンプのモーションに入った。ルッツと呼ばれる左足で踏み切るジャンプだがトゥと呼ばれるつま先に着いたギザギザを氷に刺して後ろ向きから1回転するジャンプだ。初心者は割と助走を長く使う。そして、コーチはなぜかその助走が長いものをやっている。


 もっとステップから流れるように飛べるのになぜ。そう思ってみていたら。急に体をひねって反転して、そのまま前進して両手と右足を後ろへ振りかぶった。


 フェイクだ。ルッツを飛ぶ姿勢を見せて、アクセルジャンプへと切り替えた。


 ばかげている。そんなの減点の対象にしかならない。ほんとうにただの悪ふざけ。その証拠にジャッジの何人かがため息を吐きながら採点している。


 でも。


 会場はこれまでにないくらいに沸いていた。歓声ではあるけれど。半分以上は笑い声だ。紳士のスポーツじゃなかったのか。こんなにコメディみたいなものが繰り広げられていいのか。功樹は湧いて出る感情をどうしていいか分からずに、ただ時間が過ぎるのを待った。


 コーチの演技が終わって拍手喝采が鳴りやんでもその場に立ち尽くした。次の人の演技が始まって、コーチより派手にジャンプを跳んでいるのを見ても心は震えなかった。それがなだかわからないままだ。


「よっ。なにしてんだ。ちゃんと雑用してくれないと俺が怒られるんだけどな」


 演技を終えたばかりのコーチは先ほどと同じように汗だくだ。こんな氷の近くにいても汗をかくくらい必死にやったというのか。あれが。


「なんで。笑ってられるんですか。あんなのフィギュアスケートじゃないですよ。少なくとも僕は認めない」


 認めなくない。そう続きそうになった言葉は必死に隠した。


「ははん。天才はやっぱ真面目なんだな。まあ、それがいいんだけども」


 からかっているのか、まともに取り合ってくれない。


「今はまだ分からなくてもいいさ。その方がいいこともある。でもひとつだけな」


 こっちは真剣だって言うのにへらへらしているコーチはその多きな手をぶしつけに功樹の頭にのせてくる。


「誰のために滑っているのか。それだけは忘れずにいろ」


 なんの話だ。


「自分のためでも両親のためでもいい。自分の中の芯だけは決めとけ。そのためだけに滑れ。じゃないと、この場所は自分を見失うほどには大きいし、孤独だ」


 名前を呼ばれてから音楽が鳴り始めるまでのほんのわずかな時間。全員が息をのむその時間はたしかに自分が何者なのかを見失ってしまうほどに孤独との戦いだ。でもそれはみんな一緒だし、当然のように乗り越えているはずだ。


「俺はな。滑るのが楽しいだけだって気付けたんだよ。だから、その楽しいを少しでも伝えられればって思ってるだけだ」


 意外な言葉にハッとする。楽しいって。そんなこと考えたこともなったからだ。技術と迫力で観客を圧倒する。そうすれば大会で勝てると思っていた。それは今でも変わらないし、実力がある選手とはみんなそうだとも思う。


「天才には俺のできなかったことが出来る。それは俺が保証するよ。だから、今はそのままでいい。その感情を押さえつけずに俺にぶつけろ。そしてたら俺はそれを空を駆ける力に変えてやるよ。それが俺が出来なかったことだし、してやりたいことだ」


 なんだよそれ。ずるいじゃないか。そう言ってやりたかったけど。言葉にはならない。泣いてなんかいない。


「ほら。雑用呼ばれてるぞ。天才」


 そう背中を押されてつんのめりんがら走り出す。


 かき回され続けたスケートリンクの空気の匂いはこれまでと違って温かい感じがした。

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空を駆ける 霜月かつろう @shimotuki_katuro

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