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 僕は鈴里勇樹。高校一年。入学してから約三ヶ月が経った。今月末には、高校生活初めての夏休みを迎える。季節は初夏だった。

 現在、僕は長い上り坂を、自転車のペダルを強く踏んで進んでいた。時々、額に滲む汗に穏やかな風が吹き、涼めてくれる。

 夏の陽は長い。夕暮れにはまだ早く、空は青い。太陽の陽射しは、昼から衰えを見せていなかった。

 僕は左を向いて、景色を眺めた。右手にはコンクリート質の壁が続いているが、左手の白いガードレールの先を眺めれば、海が見える。坂を上がり、徐々に高さが加わることで、さらに視界が広がり綺麗に見えた。遮る木々も少ない。この景色を眺めることで、坂を上る気力が沸いてくる。

 空の色が、綺麗に海に映っていた。海の中には太陽の姿もある。キラキラした光を、波打つ水面に乗せていた。こんな風景が大好きだ。自然と僕の口元は緩んでいた。

 改めて坂の上を見上げ、グッとペダルを踏み込む。早く行かなくてはならない。

 『総合記念病院』の文字が書かれた看板の横を通り過ぎた。ここまで来れば、あと僅かだ。

 足が限界に近付いてきた頃、病院名が彫られた白柱が見えた。坂は徐々に緩やかになる。僕は早々と入口をくぐる。


 総合記念病院はこの辺りでは一番大きな総合病院だ。駐車場、自転車置場も広く、手入れも行き届き綺麗にしてある。そんな心遣いもあってか、いつも沢山の人で溢れていた。

 自転車を置き、入口に向かう。自動ドアをくぐると、清潔感のある薬品臭が漂った。

「あら勇樹、もう帰る所よ」

 母親にばったり会う。もう用件は済んだようだ。

「お父さん、大丈夫そう?」母親に問う。

「ええ。今日の調子なら、明日には退院だって」

「そっか。僕も病室行ってくる」

「そうしなさい。じゃあお母さんは帰るから」

「うん、病室は?」

「三階、317号室」

「分かった。じゃあ、行ってくる」

 父親が過労による急性胃腸炎で入院してから一週間が経つ。最近は学校のテストに追われていたために、病院に顔を出すのは今日が初めてとなる。入院と聞かされたときには悪い病気でも隠されているのではないか、と心配になったけど、どうやら母親の話では明日が退院。過剰な心配だったようす。今日が最初で最後のお見舞いになりそうだ。

 母親から聞いた父親の病室へと向かうために、エレベーターへと乗り込んだ。三階へ到着すると僕は廊下を見渡し、317号室の札を探す。近い数字を頼りに歩くと、病室はすぐに見つけることができた。入口前の名札を見ると、確かに父親の名前が確認できる。少し広めの六人部屋だ。入口をくぐった。

「おお勇樹、今来たのか?」

 左側、一番手前のベットから父親が声を発した。老眼をかけて新聞を手にしている。自宅ならば缶ビールが手元に置いてある所だが、さすがに病院でそれはない。

「うん。自転車だから」

「お母さん、もう帰ったぞ」老眼を外しながら言った。

「ああ、下で会った」

 元気そうな父親を見てに安心した。顔色も良い。確かにこんな調子なら明日には退院できるだろう。

「調子、良さそうだね」

「ああ、何ともなくて良かった。仕事も長く休めないしな。勇樹は学校どうだ? テスト、あったんだろ?」

「まあ、いつも通り」

「そうか。勇樹も高校生、そろそろ本気で進路を考えないとな」

「……僕、進路変えないから」

「勇樹、自分の趣味で生計が立てられる人間なんて、そうはいない」

 始まったか……。僕は小さく溜息を吐く。

「まだ、わからないだろ」

「わかる」

「なんで」

「大人だからだ。夢を見るのは自由だが、まずは現実を見ろ」

 僕はもう一度溜息を吐いた。「せっかくお見舞いに来たんだから、そんな話するなよ」

「……ああ、そうだな」

「もういいよ。早く退院しろよな」

 父親が頷くと、僕は早々と病室を後にした。もやもやする気持ち。どうしてだろう、父親と将来の話をするといつもこうなる。もう高校生、子供じゃないのに……

 僕は各階にある休憩室へと身を入れた。父親の病室にはいたくないし、かといってせっかく長い坂を上って来たのだから、すぐに帰る気分でもないからだ。

 休憩室は学校の教室を半分にした位の大きさだ。室内には僕一人しかいない。僕は長机に沿って並べられたパイプ椅子に腰を下ろした。

 顔を伏せて目を閉じる。また溜息が出た。父親との会話を思い出したからだ。

 少しは言い返しても良かったかもしれない。……いや、後悔のようで違う。言い返す機会は今までいくらでもあった。

(駄目だなあ……僕は)

 勇樹、と言う名は名前負けだろうか。

 暫くそのまま考え込み、次に時計を見たときには六時半だった。日没が近い。

 僕はゆっくりと立ち上がる。喉が渇いたので、休憩室を出る前に自動販売機へと向かう。

 全て百円のタイプだ。

 小銭を取り出し投入口へと入れると、ボタンが赤く光る。僕の手は好物の炭酸飲料に伸びた。

 しかし、押す寸前で手を止めた。最近、母親に言われたばかりだ。癌になるとか、骨が溶けるとか……。そんなの都市伝説だし、信じていない。信じていないけど、今日はやめておこうと思った。本当に勇気がないと情けなく思う。

 すぐ下にリンゴジュースが目につく。これでいいだろう。100%と書いてあるし、身体に悪くなさそうだ。

 背後で音を聴いた。人が入って来たようす。何気なく振り返ると、車椅子に乗った女の子だった。ちょうど自分と同じ、高校生位に見える。彼女も自動販売機に用があるのだろう。女性の背後、休憩室の入口付近には中年の女性が立っている。母親だろうか。

 おっと、考えている場合ではない。僕は急リンゴジュースのボタンを押す。小さな効果音が鳴り、がらんと缶が転がり出てくる。普通の自動販売機の流れだ。だが今日は一つ違う。自分が購入したリンゴジュースのボタンには『売切』の文字が赤く光ったのだ。自分で最後だった様子。

 僕がジュースを掴み自動販売機から離れると、車椅子の女の子が近付いた。

 長くて綺麗な黒髪に、小さな顔。アーモンド形の瞳。純粋そうな雰囲気。今、あらためて横目で見ると……可愛い。なぜだか緊張する。

「……あ」

 自動販売機を見上げた女性が小さな声で言った。そして、僕を見た。彼女と目が合う。

「ん、え?」急に見られた僕は、慌てて答える。

「あ、いいえ」

 顔と似合う、細く可憐な声で言った。今、自分の顔は赤いかもしれない。

 彼女は車椅子の向きを変え、入口へと引き返して行く。どうしたのだろうか?

「どうしたの?」

 僕の代わりに母親が聞いた。

「ううん、何でもない」彼女は首を振る。

「リンゴジュース、いらないの?」

「う、うんっ。お母さん行こうっ」

 彼女は一瞬だけ僕を見ると、恥ずかしそうに休憩室から出て行った。

(……リンゴジュース)

 僕は手に握られている缶を見た。どうやら彼女はリンゴジュースが飲みたかったようだ。しかし、売切れだったために買えるはずもなく……

 なんだか、悪いことをしてしまった……。そもそも、どうして僕はリンゴジュースを買ってしまったのだろうか。別のものでも良かったじゃないか。

 僕は一階へと降りると出口へ向かった。もう一度、父親に顔を出そうとは思わなかった。本当に、後悔しか残らないお見舞いだ。

 外に出てみると、夕暮れになっている。そして、周囲は山であるから、病院を囲む茂りの奥から虫の歌も始まっていた。心地が良い。

(……可愛いかったな)

 ふと、先程の女の子を思い出す。さっきから何回もそう思っている気がする。だが、彼女からすれば僕は『リンゴジュースを売切れにした人』でしかない。最悪だ……。手に握られた缶は未開封のままだ。悪い気がして蓋を開けられなかった。

 僕は自転車の鍵を外し、両手で押して病院の門を目指した。

 陽はさらに傾いている。この時間は嫌いじゃない。昼間とはまた違った風景が顔を出す。あの長い坂を下りながら海を眺めれば、それはそれは綺麗だろう。

「あっ」

 風景の想像に気を取られていると、手に持っていた缶ジュースが落下した。コンクリート質である駐車場の地面を転がる。

 意外と遠くまで転がった缶を見る。僕は一度、自転車を停めて拾いに歩いた。

「――っ」驚いて足を止める。

 僕より先に、缶ジュースを拾った人がいるのだ。目を疑った。

「これ、あなたのですよね?」相手が言った。

 休憩室で見た、彼女……。どうしてここに? 母親を見送った帰りだろうか? いや、そんなことはどうでもいい。

「う、うんっ」遅れて返答した。

 緊張と動揺で動けない僕に、彼女は車椅子で近付いて来る。日常で、こんなドラマチックな展開があっていいのだろうか。これは、現実だろうか。しかし確かめるために頬へ平手打ちなどできない。現実だった場合、ただの馬鹿にしか見えない。

「はい、どうぞ」

 両手で差し出してくる。その仕草が可愛くて見惚れてしまい、やはり僕は動けない。

「あの、これ」彼女は首をかしげる。

 いつまでも静止しているわけにはいかない。僕は手を伸ばした。しかし、僕の手は缶を掴む前に止まる。

「あなたの、ですよね?」と彼女が言った。

「……あげる」

「え?」

「それ、あげる」

「私に?」

 頷いた。「さっき、売切れだったでしょ?」

「あ、はい……そうですけど。悪いです……」

 遠慮する彼女の言葉を最後まで聞かず、僕は自転車へと走って戻った。

「あのっ」

 背中で彼女の声を聞いた。だけど僕は全力でペダルを踏み自転車を走らせた。もう声など聞こえない距離だ。病院の門をくぐり、道に出ると自転車を下り坂に任せた。

「………」

 何故、あんなことしたんだろう。いつもの僕なら、勇気が出ないまま、当然のようにジュースを返してもらっていただろう。

 確かに、君に惹かれていた。でも、そんな君と話がしたい……とか、仲良くなりたい……とか、そんな感情じゃなかった気がする。

 もしかしたら、僕はわかっていたのかもしれない、この先のことが。

 僕はわかっていたのかもしれない。

 この運命は、必要だって……

 遠くを見る。やはり海は綺麗だ。営業時間の長い太陽が、いよいよ沈もうとしている。何回見ても飽きないであろう、この景色。

 そう、君と出会った日も、夕日がすごく綺麗だった

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