1話 濡れ鴉③

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 五年前のある日。とってもつまらない夜のこと。

 私は、町中の一角にある公園のべンチに座って、コンビニで買ってきたカップ酒を飲みながら、同じくコンビニで買った焼き鳥を肴にしながら、空を仰いでいた。

 一件目は居酒屋に行って、寿司屋に行って、イタリアンに行って、オーセンティックバーに行って……でも、どこもかしこも美味しいとは感じられなくて……

 べつに私は世間を代表するような美食家ではないけれど、昔から単純に美味しいものを食べることが好きだ。小さい頃、外食をするときにはファミレスではなく専門店に連れて行ってくれと駄々をこねたりして親を困らせたりしたものだ。

 現在はこうやって、仕事が休みの日には色々な飲食店なんかを回っている。

 じきに小雨が降り出した。通行人も、園内でくつろいでいた人々も足早に去っていく。

 しかし私はベンチに座ったまま、同じように酒をやっていた。つまんない夜に、急な雨。ますますつまんない。なんだか帰る気分になれなかった。

 そんな私のもとへ近寄ってきた男がいた。まだ若く、私と同じか、あるいは下だと思った。

「なにしてんるんだよ、雨ん中で。熱出すぜ」彼は私の隣に腰を掛けてそういった。

 こいつが冷やかしだろうがナンパだろうがなんでもよかったので、とりあえず、「かもねー」と雑に答える。「つーか、あんたこそでしょ」相手も傘をさしていないからだ。

「だな。でもいいんだ。こんなつまんない夜に、さらに急な雨ときた。ますますつまんねえよ。まだ帰る気分にはなれねえし、傘なんて買うのもめんどくせえや」

 私はふっと笑う。似たような奴がいるものだ。

「で? あんた、なにがつまんないって?」

 男はいった。「美味しいものがないんだ。飲食店を何件も回ったけど、なんにもない。しらけた。こんな雨ん中で食べるファーストフードとカップ酒のほうがごちそうに感じるくらいだ」

 男は、ファーストフードチェーンのハンバーガーと、私と同じような日本酒のカップ酒を持っていた。

「へえ、私もなんだ」と自分を指さす。

「君も?」相手はやや驚いたような顔をして、まじまじと私を見てきた。

「そ。なんか悲しくなるよね、美味しいものと巡り合えない夜って」

 彼は嬉しそうに笑ったあと、「こいつは愉快だ。こんなところで、気の合いそうな女性と出会えるなんてな。いいぞ、いいぞ、急に楽しい夜になった」

 なんだか変なやつに絡まれたな、と思って苦笑する。

 男に、乾杯、といわれたのでカップ酒をぶつけ合う。

「名前は?」と訊かれた。

「ん? 菊菜」

「よし、じゃあ菊菜。決めた。ヌレガラスにしようぜ」

「ヌレ……なんの話?」

「なんのって、店の名前だよ。いまの菊菜がまさにそれだ」

 濡れ烏、という言葉は知っている。それはたしか、水に濡れたカラスのように黒くて艶がある美しい髪のことをいう。もっとも現在は本当に濡れているわけだが。しかしそれがなんだというのだろう。

「店の名前って……あんた料理人?」

「ああ」と自信に満ちた頷きがある。

「じゃあ、えーと、あんたの店の名前ってこと? 飲食店、出すの?」

「俺の? なにいってんだ。俺たちの、だろ。俺と菊菜なら、すごい店ができるぞ」

「はあ? 馬鹿なの?」と呆れてしまったが、声を出して笑っていた。「出会ったばかりの他人同士だよ? なにいってんの。だいぶ酔ってるんじゃない?」

「だったら恋人になればいいじゃないか。夫婦でもいい。美男美女が経営する創作料理屋。しかも味がいい。繁盛間違いなしだ」

 いってることは馬鹿げているが、冗談をいっている風ではなかった。真剣なまなざしを向けているのだ。

 しかしむしろそれが可笑しくて、私は笑い続けながら、「はいはい。どうぞ勝手にがんばってね」と受け流す。

 だが彼は聞こえていないかのように、「旨い日本酒を一杯揃えてさ、料理はもちろんグランドメニューを作らずに、その日に仕入れた素材だけでやるんだ」と楽しそうに語っている。

 そんな様子を見守っていると、人間って不思議なもので、なんだか愛着がわいてきているような気もした。

 雨足がさらに強くなった。

「このままあじゃあ、ほんとに熱でも出しそうだな」空を仰いで彼がいった。それから私の右手首を掴んで、「ほらこいよ。俺の住んでるマンション、隣駅なんだ。歩いてだっていける。なにか作るから、それで飲みなおそう」

 どこまでも愉快な奴だと思った。「まったく、なにいってんの。あんたは男、私は女。しかもお互いびしょ濡れの酔っ払い。こんな姿でついて行くわけないでしょうが」

「だけど俺の料理を食べなきゃ、俺の実力がわからないだろ。そんなことじゃあ一緒に店なんてできないぜ」

「だからあんたさあ――」

 そういって私はまた笑ったが、彼に腕を引っ張られた勢いで立ち上がった。

 なんでだろう。ただ退屈していたのかな、なんとなく寂しかったのかな、もしかしたらこの段階ですでにあいつに惚れてたのかな……理由はいまだにわからないけど、彼に引っ張られる私の片腕には、逆らう力がまったくなかった。


 男の住んでいるらしいマンションは二十階まである立派な建造物だった。聞けば部屋は十二階らしく、一人暮らしなのに間取りは3LDKだというから、どこにそんな経済力があるのだろうと思ったものだ。

 その広い部屋に私を通すと、さっそく浴室に案内してくれた。シャワーだけでよかったのだが、彼はもう湯船にお湯を張る準備をしてくれている。

「君が着ても違和感がないような服を用意しておくよ」と彼がいった。「残念ながら下着はないんだ」

「そりゃそうだ。まあ下着はそんなに濡れてないし、服だけで大丈夫。ありがと」

 覗かないでよね、とお約束のような冗談をいってから浴室に入り、私はシャワーを浴びて、湯船に浸かり、身体を温める。両足を伸ばせる浴槽は快適で、いい値段がするシティホテルにでも宿泊している気分だ。

 そのとき急に浴室の戸が開いて、彼が顔を出した。

「なあ菊菜、苦手な食材はあるのか? アレルギーは? 味つけの好みとかもあれば知りたい。なにか作っておくよ」

 自然と訊かれすぎて私は、「んー? そうだなあ……」とまでは答えたが、すぐに胸を両手でおおって、深くお湯に浸かり声を張った。「なに堂々と覗いてんのよっ」

「覗きじゃない、質問しに来たんだろ。馬鹿だな、そもそも恥ずかしがる仲じゃないじゃないか」

「馬鹿はお前だっ。赤の他人だろっ。ほらあっち行けっ」

 しかし彼は呆れたように首を振り、「困るよ菊菜。質問に答えていない。俺は料理を作るとき、いつも本気なんだぜ」

 呆れたいのはこちらのほうだ。「苦手なものはないっ、アレルギーなしっ、味つけご自由にっ、以上っ、さっさと消えろっ」

「よしきた」と彼は拳を握り、「いいぞ菊菜。好き嫌いがないなんて完璧だ」といったあと、むしろもう少しは下心を出してほしいくらいあっさりと戸を閉めて去っていった。

 シティホテルどころかラブホテルにでも来たような気分になったが、気分を害されたわけでもなく、なぜだか笑えてくる。やっぱりあいつはおかしな奴だ。私は浴室内に反響する自分の笑い声をしばらく聞いていた。

 そのあと、お風呂を済ませてリビングに向かうと、「座ってよ」と広いオープンキッチンから彼がいう。「どれくらいお腹が減っているかわからないから、とりあえず二皿作ったけど、足りなければまた作る」

 私はけっこう大喰らいなので、まだいくらでも入りそうだったが、「いやいや、充分だって」と、平手を振る。

「日本酒、そこに一本出しておいたから、さきにやっておいて」

 そういわれたのでテーブルを見ると、用意されているボトルは百光だった。「げ、こんないい酒持ってんの? 飲んでいいわけ?」

「もちろん。ビールがよければ冷蔵庫にあるから自由に開けて。じゃあ俺もさっとシャワー浴びてくる」

 そういって彼は料理やフォークなどの食器もテーブルに並べたあと浴室のほうへ歩いて行った。

 やっぱりあいつは馬鹿な男らしく、出会ったばかりの私を信用しすぎだ。この隙に金目の物でも盗まれて逃走されるかもしれないとは考えないのだろうか。もちろんそんな気はないが、警戒はするべきだ。

 いや……出会ったばかりの男の部屋に誘われて、風呂まで使わせてもらってる女も似たようなものか。少しは警戒するべきだ。

 それよりも、用意された料理だが……

 彼は自分のことを料理人といっていたし、わざわざ部屋に招いてまで食べさせたいのだから下手くそではないのだろうと思ってはいたが……これは……

 私は遠慮なくフォークを握って料理に手をつける。まずはサラダ風の一品。

「……野菜は、山ウドとウイキョウ、か」この二つを魚介の煮凝りで和え、荒く削ったカラスミを振りかけてある。「これ……美味しい」塩味が舌に染みて、香りが鼻から抜ける。

 もう一皿は、「豆腐の味噌焼き……」豆腐に味噌を塗って炙ったものだ。「これも、美味しいな……」

 それに、盛りつけが綺麗。――いや、ちがう。私がシャワーを浴びていた短い時間内に作ったわけだし、仰々しい一皿ではない。むしろ素朴といっていい。でも……そう、料理が美人、とでもいえばいいのだろうか。

 カラフルな付け合わせを盛ったり、ソースで皿を汚したりすれば素人でも見た目だけは立派にできるけど、これはそうではない。人間側ではなく、料理人の技術で息吹を与えられた料理達こそが己の意志で皿を美しく、美味しく魅せようとしているかのような……

 私は立ち上がり、キッチンに入って見回した。調理器具が見事にそろっている。一般的な居酒屋よりも充実しているかもしれない。手入れもよくなされている。

 それから私は冷蔵庫を開けた。自由に開けもいいといわれたので構わないだろう。

「すごいな……」入っている魚介も肉も野菜も果物も、まるで大事な客の接待ディナー用に仕入れたような風だ。「普段からこんな食材で練習してるっての?」ほかにも、手作りされたソース、ドレッシング、オリジナルの塩や味噌などもあるようだ。それぞれに名前と使われている素材を記したシールが容器に貼ってある。

 私は一度、今食べていたテーブルの料理を見た。

 これだけの食材がありながら、見栄も張らず、あえてあの二つの料理を作るとは、にくいことをするものだ。

 それからしばらくあって、ようやく彼が浴室から戻ってきた。

 彼はバスタオルで髪を拭きながら、「すまない遅くなった。シャワーで流すだけのつもりが、ゆっくり入浴してしまったよ」

 私は再び椅子に腰をかけてお酒と料理をいただいていたのだが、顔をそむけて、「それはいいけど、まずは上着を着ろ」と上半身裸の彼にいう。

 素直に服を着た彼はテーブルの反対側に腰をかけて、「――それで、味はどうかな」と訊かれた。

 私は正直に、「馬鹿な奴だと思ってたよ、あんたのこと」と話す。さっきから何度も、馬鹿な奴だ、変な奴だ、おかしな奴だ、と考えたものだ。「でも違ったかも。ごめん」

「というと?」

「一見すると、和食としては何気ない料理なんだろうけど、すごく絶妙なバランスで、落ち着く味。すごく美味しい」

「それは嬉しいな」と彼は微笑んだ。「てっきり、もっとゴージャスな料理のほうが喜んでくれるかと思ったけど」

「そうかな。最初は素朴に見えたけど、しっかり味わってみれば充分ゴージャスだよ。ウドとウイキョウを和えてる煮凝り、これスッポンだよね。単なるサラダだと思ったら、カラスミのアクセントも加わってごちそうのような味がする。豆腐も、塗ってある味噌には枝豆を叩いたずんだを混ぜて、さらに葡萄の絞り汁と薄口醤油を少し加えてあるんでしょ。なんてゆーか、ドレスみたいな華やかさはなくっても、和服が持つ奥ゆかしい優雅さがある」

「へえ……」彼は感心したように何度か頷く。

「こんなにいいお酒ともよく合ってるよ。負けてない。高価だったり希少だったりするお酒を仕入れて誇らしげにしてる飲食店をたくさん見てきたけど、お酒を作ったのは本人じゃなくて酒蔵でしょ。それに見合う料理があってこそ、評価されるべきなんだ。どちらが欠けてもいけない」

 また彼はまた何度か頷いたあと、「もしかして菊菜も、料理をやるんじゃないのか」

「まあ食べること好きだし、趣味程度にね」

 すると何秒か考えるそぶりを見せてから、「なあ菊菜、なにか作ってみないか。いま」

「えー? やだよ。こんな美味しいもの食べさせられたあとに、しかもプロ相手にさ」

「楽しみだ。食材もキッチンも好きに使ってくれていいよ」

「あんた話聞いてた?」

 とはいえ、こうやって屋根のあるとこで、美味しい料理と美味しい酒をいただいてるし、シャワーも服も借りたし。素人料理でお礼ができるならいいかもしれない。いや、お風呂を覗かれたからドローな気もするのだが、まあとりあえずそれは置いておこうか。

 私は、「じゃあ作るけど、納豆ごはんでいいよね」と冗談をいってから立ちあがる。

「すまない。別のがいいな。納豆ごはんは昨夜と今朝に食べたんだ。先日、作りすぎてしまったから」

 冗談が通じてないので、「嘘に決まってるでしょうが」といいながらキッチンに入る。というか、納豆も自分で仕込んでいるらしい。

「期待しないでよ」といって冷蔵庫を開けた。「――ああ、そうだ」

 私は訊き忘れていたことを思い出した。

 説明しなくても彼は、お酒を盃に注ぎながら、「水乃刀也だよ」と教えてくれた。

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芳醇 ‐HOUJUN‐ ウニ軍艦 @meirieiji

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