五十一 翠令、姫宮に竹の宮の話を伝える

 翌朝、翠令は姫宮と梨の典侍に向かい、竹の宮での白狼と姫君の話を語った。


 姫宮は少し当惑気になさる。


「男君と女君のことは……私、前に翠令に悪いこと言っちゃったし、何も言えないんだけど……」


 それは、佳卓との仲について子供らしからぬ物言いをし、梨の典侍に窘められたことを指しておいでなのだろう。姫宮は他人からの諫言をきちんと聞き入れるお子でいらした。


「叔母上さまが少しでもお元気になられるといいなと私も心から願っているわ。いっぱいお辛い思いをされたんだもの。……白狼と仲良くなるなんて予想外だったけど……、佳卓の言うとおり二人が一緒にいられる時間が長く続けばいいわね。私も頑張らなきゃ」


「梨の典侍殿はいかが思われますか?」


 梨の典侍は微かに口を開き、やや放心したような顔をしている。帝の直宮であられた姫君が盗賊と親しくなるなど、後宮の最高女官には想像もしなかったことに違いない。


「典侍殿、どうかご心配なさいますな。白狼も身分の違いはわきまえておりますし、決して女君に無体なことをする男ではありません。佳卓様もその点は信頼していらっしゃいます」


 その言葉に典侍はふうと一息を入れ、袖を目許にやった。涙が零れているようだった。


「身分など……。かつて身分の高い豺虎けだものが何をしたかと思い起こせば、そんなものは人間の品性を保証などせぬものと、この典侍骨身にしみており申す」


「……」


「それよりも……。姫君に父君や兄君のように安心できる従者が見つかったことの方が嬉しい。私をはじめ誰も姫君をお救い申し上げることが出来ず、姫君はこの世の全ての人間を疑い恨んでおられた……」


「……」


「私が恨まれるのは仕方がないこと。されど、かように刺々しい心持で一生を過ごす姫君とて幸せではありますまい。姫君が人を信頼する気持ちを取り戻し、温もりある時間を過ごされるようになられたとのこと……この典侍、安堵する思いでいっぱいじゃ」


 典侍は顔を覆っていた袖からふと顔を上げた。その引き締まった顔に後宮を統括する最高女官の威厳が漂う。


「今、竹の宮にいる女房は内侍司を通じて全て交代させましょう。この典侍が信頼できるものを選りすぐって竹の宮に遣わします。そして、姫君が白狼殿との時間を大切に過ごせるようにできる限りのことをしたい」


 姫宮も「うん、そうよね」とおっしゃる。


「翠令、私も叔母上さまのためになりたいわ。翠令に少し言いづらかったんだけど……」


「……? どうぞ私のことなど構わずにお考えをお述べいただいて構わないのですよ?」


「うん……あのね、私は翠令がいたし、錦濤の街に人々が親切にしてくれたから両親がいないことなんて寂しいと思わなかったわ。本当よ」


 何をおっしゃりたいのだろうと翠令は訝しく思いながら、お返事差し上げる。


「有難いことでございます」


「ただね……。私の周囲に私の両親や私の生まれた時の頃を知っている人がいないと……。私がこの世に生まれた感じがあまりしなくて……」


「……」


「ええと、ほら……。古の物語に、翁が竹の中で赤ん坊を見つけたけど、その女の子は月の世界の人で月に帰っていったというお話があるでしょう? 私も月に呼び戻されるんじゃないかって、小さい頃不安だったの」


 翠令は母こそ亡くしたものの父が健在だし、代々翠令の家族を知っている人々が錦濤の街の近所にいる。だから、自分に連なる親族の話は自然と耳に入る。

 けれども姫宮は産まれた時から他人しか知らない。そしてその他人は姫宮のご両親を存じ上げない。

 確かに自分の親や親類について語る者が誰もいないと、自分の誕生の経緯を実感しづらいのかもしれない。


 ──姫宮は周囲が思う以上に、ご自分の境遇を寄る辺なくお思いだったのか……。


「でもね。御所に来て帝にお会いして、血の繋がった親戚と会えてほっとしたの。とても優しいお兄様でいらっしゃるし……」


 姫宮が清涼殿の帝をお訪ねなさるときは、翠令はついていかないことになっていた。最初にお目通りはしたが、翠令の身分で頻々に帝に近づくのは畏れ多く、梨の典侍だけがお供申し上げる。


 典侍が微笑んだ。


「宮様は帝に懐かれていらっしゃる。帝も宮様に会えるのを楽しみになさっておいでで……」


「うん。私も血の繋がった帝が大好き。そして、竹の宮の姫君は私ともっと血が近い方だわ。お父様の妹姫でいらっしゃるし、お父様の子どもの頃もよくご存じのはず。だから……お会いしたいの。お父様にお会いしたいのと同じように、叔母上様にもお会いしたいわ……」


「姫宮は……叔母君の竹の宮の姫君を慕っておいでなのですね……」


「うん。お元気になって頂きたいの。幸せになって頂いて、私もお元気な御姿を拝見したい。そのために、私も叔母上様のために出来ることをして差し上げたい」


 姫君は意気込まれた。


「ともかく私が円偉と仲良くしていれば、円偉も白狼のことを気にしなくなりそうなのよね?」


「ええ……。少なくとも佳卓様との政争と結びつけて考えることはなくなるでしょう。ただの噂であればいつかは消えることも充分ありえます」


「うん、頑張らなきゃ!」


 円偉は昭陽舎の合議で対立したからと言って、全く姫宮に会わなくなったわけではない。


 以前と変わらぬ頻度で昭陽舎を訪れる。それも道理ではあった。あれを機に訪問が減ったと、傍目に分かるほど露骨な振る舞いをする訳には円偉も行かないだろう。


 しかし、姫君との会話は天候の話など話題は当たり障りのないものに終始し、腹の底で何を考えているのか分からない。あくまで翠令の印象に過ぎないが、心なしか以前よりもずっと冷淡な目で姫宮を見ている気がする。


 ──円偉様にはわだかまりが残っていらっしゃるようだ


 翠令だけでなく、姫君も、そして同席する梨の典侍もそれについては同意見だ。

 しかし、それをどうすればよいのか誰にも分からない。


 円偉がはっきり立腹した態度を示すなどすれば、こちらもかえって切り出しやすいが、円偉が何も言おうとしないから姫宮からも話題にしづらい。また、だからといって、姫宮も翠令も真っ直ぐな気性でしかも世慣れていない年齢だ。円偉相手に、腹の探り合いなども出来そうになかった。


 それでも、用を済ませてさっさと御前を退出しようとする円偉を、姫宮が呼び止めてみられたことはある。

 

しかし……。


「ええと、円偉?」という姫宮のお声に対して「なんでございましょう」と返す声は明らかに煩わしげで、姫宮は「ううん……なんでも……」と口を噤むよりなかった。


 たまに訪れる左右の大臣に「円偉を怒らせたみたいだから仲直りしたいんだけど……」と姫宮が零しておみせになったこともある。しかし、表面上は何も起こっていない以上、どちらも「はて……。円偉殿は温厚な方です。お気になさることはないのでは」と申し上げるばかりだった


 姫宮が梨の典侍と翠令に愚痴を零される。


「でも……、やっぱり……円偉の機嫌は直っていないように思うのだけど……」


 二人も項垂れるばかりだ。


「腹に一物はおありのご様子じゃの……」


「されど……どうすれば……」


 昭陽舎としては手詰まりに感じられてきた頃、事態の打開に繋がりそうな話が佳卓からもたらされた。


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