バクロー商会の救援

 ジーシェ号の中は俄かに慌ただしくなった。

 数キロメートル先の雲の間に、確かに臙脂色の飛行船が見える。都合のいいことにかなり大型の船らしい。これなら燃料を分けてもらえるか、うまくいけば曳航してもらえるかもしれない。


 コーが窓から身を乗り出して赤い信号弾を撃った。いつぞや空賊らしき船に追われていたときにそいつらを信号弾一発で撃墜してからというもの、ジーシェ号にはこの類の設備が整えられていた。この緊急用の装備はいざというときに武器にもなる。

 続けざまに今度は青い光の信号弾を撃つ。このご時世、飛行船乗りの間では信号弾による通信というものも構築されてはいたが、理解しているのは一部の者だけだ。

 それでも色違いの信号弾を2発、というのは何かしら伝えたいことがあるのだという意図を相手にわからせるには十分だった。


「見て! こっちに旋回した! 来てくれるよ!」


 レンが食い入るように双眼鏡を眼に押し当てて興奮気味に叫ぶ。

 どうやら3日間に亘ったこの漂流の旅もようやく終わりが見えてきたらしい。

 近づくにつれて、臙脂色のガス袋に絡み合った蛇が円形を形作っている不思議なマークが描かれているのがはっきりと見て取れた。


「ああ、確か……バクロー商会だ」


 コーが目を細めた。短く刈り込んだ坊主頭を撫でながら、欠伸を漏らす。ここのところ眉間に寄りっぱなしだった皺も弛緩して、ようやく安堵の表情になっていた。


「バクロー? でかい会社か何かか?」

「そう。俺たちと同じ運送業者さ。かなり大手でな、海外への運輸なんかもやってる。たしかうちの近くだとチョーガ市にも支店があった筈だ」

「もしかすると彼らもチョウカイ市へ支援物資を運んでるのかもしれないな」

「可能性はあるな。まあともかく、こちらに気付いてくれて助かった」

「……ねえ、バクローって悪いところじゃないよね」


 コーとシーナの取り留めのない会話に、レンの固い声が割って入った。


「悪い? 何が?」

「だから、何か悪いことをしてるような会社じゃないかって……」

「よくわからんな。運送業者としてはさっきも言ったがかなりの大手だぜ。悪事なんぞはたらかなくても十分稼いでると思うが」

「何か気になるのか?」


 シーナが尋ねると、レンは少し考えて首を振った。


「ううん、何でもない」



「――そういうわけで、燃料を分けてもらうか、もしくは曳航してもらえないか。近くの街ならどこでもいい」


 コーが横づけされたバクロー商会の船に向かってメガホンで怒鳴った。

 向こうで聞いていた4、5人のうち、最も身なりの良い男が頷いて怒鳴り返してきた。錆びた歯車のような赤茶けた髪を伸ばし、後ろで一括りに縛っている。どうやらそれがこの船のキャプテンらしかった。


「そりゃ災難だったねえ。わかった。そういうことなら石炭を分けてやるよ。重油だとまた漏れてもいけないしね。おい、何か袋に詰めてやれ!」

「すまないな。助かるよ。あんたたち、バクロー商会か?この仕事が終わったら燃料代を支払いに行く」

「なに、大した出費じゃないし、代金は忘れてくれて構わないよ。だけどそう、この船はバクロー商会のアルセナー号、俺は船長のサカだ。雇われだけどね」


 そう言ってサカは20メートルほど向こうのゴンドラでからからと笑った。

 なんとも豪快で親切な男だった。どうして悪いことをしてるとか思ったんだろう。

 レンは自分の中で浮かんだ考えにひとしきり首を捻った。どうしてか自分でもよくわからない。ただ、この飛行船を見た時、不意にそんな思いが頭をよぎったのだ。

 慌てて頭を振ってその考えを追い出す。

 ともかく、この会社が何者であれ、僕たちを窮地から救ってくれることには違いない。


 しばらくして、サカの部下がロープの端に重しがわりに結び付けた手のひらサイズの歯車をジーシェへ放ってよこした。

 一度は失敗して下へと落ちて行ったが、ロープを手繰り寄せて引き上げ、もう一度投げる。今度はコーがうまくキャッチした。そのロープを引くと、アルセナー号のゴンドラの窓枠に乗った重たそうな布袋まで繋がっているのがわかった。


「いいかい、重いからそちらの端をしっかり結び付けなよ」


 コーとレンは、受け取ったロープの端を荷降ろし用のウィンチに巻き付けた。蒸気の圧力が効いていないので今のところただの滑車でしかないが、あの程度の石炭の重みを受け止めるだけの頑丈さはある。


 ジーシェ号の側の準備が整ったのを確認すると、サカの合図と共に部下が石炭の袋を窓の外に投げた。

 袋はそのまま落下し、ロープが伸びきったところでジーシェのウィンチに軽く荷重がかかった衝撃があった。船の下を見ると、きちんと袋がぶら下がって風に揺れている。

 レンとシーナがウィンチを手動で巻き上げると、やがてジーシェ号にとっての久しぶりの食事が扉のところで待ち構えていたコーの手の中にしっかりと納まった。


「いや本当に助かった。サカ船長、感謝する」

「なあに、いいっていいって。それよりどこかで機会があったら、バクロー商会をよろしくね」


 サカが豪快に笑うと、それを合図にしたかのようにアルセナー号は進み始めた。


「あ、やっぱり北へ行くんだ。ほら、もしかしたら救援物資かもよ」

「そうだな。さて、我々もようやく動けるぞ。二人とも手伝ってくれ。ボイラーを沸かすのにもう少しやることがあるからな」

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