第3話 Bring me to life
漂流したジーシェ
「ねえ、もう何も食べ物ないの? ほんとにからっぽ?」
「ないよ。今朝のが最後だ。こういうことになるとは思ってもみなかったからな。いつも通りの量しか積んでなかったんだから」
「お腹すいたなあ」
「文句言ってないでしっかり見張れよ。このまま遭難じゃシャレにならんぞ」
レンはため息を深くついて、もじゃもじゃと縮れた黒髪を掻き回した。それに応じるように腹がひとつ呻きを上げる。もう丸一日何も食べていない。
運送用飛行船ジーシェ号は、まさに今、漂流していた。
船主のコーに言わせればまだ遭難したわけじゃないらしいが、これはどう考えても遭難だ。風が吹くままに流され、広い
「やっぱりセージさんの倉庫でしっかり点検しとけばよかったんだよ。いくら忙しそうにしてるからって……」
レンが双眼鏡を片手に口を尖らせると、コーが少しむっとした顔になった。
「仕方ないだろ。セージのところも人手不足が酷かったし。荷積みを全部自分らでやらされたんだから。いっぱいいっぱいで点検まで気が回らなかったんだよ」
ジーシェが今いるのは、広い平野の上空だった。どちらを向いても山が見えない。山が見えなければ当然その山頂にあるはずの街も見えない。見渡す限り平地で、それはつまりそこに滞留し続けているハロスしか目に入るものがない、ということだ。
人類が愚かな大戦によりまき散らした毒性の霧は、今も平地を覆い尽くしている。黄色味がかった霧を逃れて人間が山の上に街を築いてから何十年もの間、分解されることなくそこに留まっていた。
本当ならば今頃はとうに目的地に着いている筈だった。
いや、時間的にはいい加減配達を終えてジョーネン市へと戻っている頃だろう。問題は燃料タンクの亀裂だった。
コーたちの飛行船ジーシェ号は、石炭と重油の両方を蒸気エンジンの燃料にしている。それは物流の不安定なこの世界で、どちらかしか手に入らない場合に備えての設計だった。
そして実際、最近の石炭の値上がりのため、ここしばらくは重油のみで飛行していたのだ。
燃料タンクがほとんど空になっているのに気付いたのはシーナだった。出発したときにはまだ半分以上残っていた筈のタンクは、コーたちが見落としていた亀裂から地上へと滴り続け、とうとうこの広い平野のど真ん中ですっかり吐き出しつくした、というわけだ。
そのシーナはと言えば、先ごろ手に入れた顕微鏡を一心不乱に覗き込んでいる。生物学者でもあるシーナはこういう状況でも暇を感じることはないらしい。各地でサンプリングした植物の種や葉の断面などを観察してはノートに何事か書き込んでいた。
もしかすると空腹を感じることもないのかもしれないな、とぼんやりとレンはその白衣姿を眺めながら思った。
一方のコーとレンはと言えば、やることも食糧もなく、ただただ推力を得られずに流されるままのジーシェを救ってくれる船を探して、双眼鏡とにらめっこするばかりだ。
唯一救いなのは、蒸気エンジン用の水タンクには亀裂が無かったことだ。お陰で渇きでそのまま3人ともあの世いき、という事態だけは免れている。
「しかしセージもなあ……いくら人手不足で忙しいからって、燃料が漏れてるのに気付いてくれてもいいだろうに。ジーシェが離陸するところ見てれば流石に気付くだろうになあ」
反対側の窓から外を眺めていたコーがぼやいた。
セージというのは普段コーたちが荷受けすることの多い、ツバクロ市にある大きな倉庫の主だ。
ジーシェ号が荷を積んで離陸したところを見届ける前に、さっさと倉庫へ戻っていった後ろ姿が恨めしく思い出された。
「お腹減り過ぎて痛くなってきたよ……このままじゃ飢え死にしちゃう」
「どうしようもなくなったら荷を解けばいいだけだろ」
再び文句を垂れ流したレンに対して、顕微鏡を覗いたままのシーナが久しぶりに口を開いた。
「あの中身、全部食糧なんだろ?」
「ああ、そうらしいな。なんでも政府からの支援物資だとか」
「政府ねえ。普段何にも仕事しないからそんなものがあることすら忘れてたわ」
シーナは含み笑いを漏らすと、またノートに向かってスケッチを再開した。
今回ジーシェが受けた荷は、先日大きな地震の被害を受けたチョウカイ市への政府からの支援物資だと聞いている。中身はほとんどが食糧だ。つまり、本当に飢え死にしそうになったらそれを開けて食べればなんとかなるのだ。
とはいえコーは今のところそれを許してはいなかった。
このご時世、信用は何物にも代えがたい。粘れるぎりぎりのところまでは荷に手を付けずに粘りたいのだろう。その考えはレンもよくわかっている。
「チョウカイ市ってさ、確か貧しい人たちがかなり多いんだよね、たしか」
レンはふと話題を変えた。食糧のことばかり考えていると余計に腹が減る。コーが、そうだよ、と気のない返事を返した。
「どういうわけかな。全国屈指のスラム街みたいなのが出来上がっちまってるらしい。どうしてあんな寒い街でそんなことになっているのかはわからんが」
「そこに今回の地震でしょ。街の人たちも大変だろうね」
「そうだな。あるのかないのかもわからんような政府でも、流石にまずいと思ったんだろう。俺たち以外にも何隻も支援物資を運んでるみたいだし」
「なあ、あんたたち、ほんとにちゃんと見てるのか?」
だしぬけにシーナが割って入った。
ロクに見張りも手伝わないこの端正な顔の女科学者の台詞に少しムッとしたレンが言い返そうとすると、シーナはそれを遮るようにして付け加えた。
「ほら、あれ。飛行船だろう。信号弾を打たなくていいのか?」
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