山岳蒸気都市と終末運送業
麻根重次
プロローグ Hear my train a comin'
4年前、はじまりの日
「レン、大丈夫? ねえ、起きて」
肩を強く揺さぶられる衝撃が頭に伝わり、瞬時に激痛に変わった。
思わず漏れそうになる呻き声を懸命に殺しながら、レンはゆっくりと目を開ける。目の前には痩せこけた少女の顔があった。
「頭、怪我してる。大丈夫かな、結構血が出てるよ」
心配そうに見つめるアキの目が潤んでいた。すぐ傍で上がっている炎がそれに反射して煌めき、レンはその少女の瞳が描き出した芸術のような美しさにほんの一瞬見惚れた。
身体を起こそうとすると、再び側頭部が強い痛みの信号を発してくる。どうやら墜落の衝撃で打ち付けたらしい。思わず手をやると、ぬるり、とした手触りと共に手には赤い液体がべったりと付着した。指先には血液と一緒に縮れた黒い髪が何本か絡まり、自分のものではないかのような不快感を覚える。
なんとか上半身を起こした。アキはまだレンを心配そうに見つめていたが、不意に後ろで大きな音がしてはっとしたように振り返った。
炎上した飛行船の残骸が、熱によって変形した音だっただろうか。そちらには人が動く気配はない。レンは少しほっとして、一言、なんとか大丈夫、とアキに告げた。
震えるようなか細い声だったがアキにも聞き取れたようだ。アキは立ち上がると、レンを引き起こそうと手を差し伸べてくれた。
「早く逃げよう。あいつらが来ないうちに」
「他の子は? もう逃げたの?」
レンが尋ねると、アキは目を伏せて首を振った。
「みんな動かないの。ダメかも。だからあたしたちだけでも逃げないと」
レンは頷くとアキの手を握り、立ち上がった。そのままアキが山頂へ向けて走り出す。レンはその細い手に導かれるように、裸足のままで山の斜面を駆け上がった。
一歩踏み出すごとにごつごつとした岩が足の裏に食い込む。やがて足の感覚は無くなった。痛いとすら思わない。そんなことより、あの人買いの大人たちに見つかることの方が何倍も恐ろしかった。
振り返ると墜落した飛行船が、すっかり日の暮れた暗闇の中で赤々と炎を上げている。その明かりに照らされて、何人かの男たちが周囲を走り回っているのが見えた。
どうやら生き残った奴らもいたらしい。やがて人買いたちは、レンやアキが押し込まれていた部屋が位置していたはずの、船尾の方へとやってきた。瓦礫をどかしながら口汚く悪態をついているのがレンにもよく聞こえる。
――どうだ?
――ダメだ、くそったれ、こいつも死んでる。
――全部お陀仏かよ?最悪だぜ、折角大枚叩いて仕入れたってのに。
「レン、ダメだよ止まったら。早くしないと」
「ごめん、アキ。僕、ちょっと――」
その時、不意に怒号が響いた。
「おい、あそこだ! ふたり生きてる! 逃げやがるぞ!」
見つかった――!
「急いで! レン、街まで走るの!」
「わかってるよ!」
レンとアキは死にもの狂いで斜面を駆け登った。下の方からは怒鳴り声と何人もの足音が聞こえる。ガスランプの灯りが微かに揺れながら、レンたちの足元に届いていた。
足がハイマツの株を踏みつけ鋭い痛みが襲う。それでもレンは足を動かすのを止めなかった。
ほんの少し前まで二人は人買いの飛行船に押し込められていた。だけど運命が不意に気まぐれを起こし、脱出のチャンスが降ってきたのだ。今逃げきらなかったら今度こそ一生囚われの身だ。
斜面を登りだしてからどれくらいたっただろうか。
少しずつ周囲の空気が変わってきた。
微かに排煙の臭いが混ざり始め、むっとする蒸気の雲が肌に感じられる。自分自身の荒い呼吸音の向こうに、蒸気機関が吹き上げるしゅうしゅうという音と行き交う街の人々の喧騒が聞こえてきた。
更に走ると、やがて街はずれに位置する建物の灯りが目に飛び込んできた。
金属と木材が組み合わさった住宅らしきその建物は、煙突から煙を噴き上げ、まるで灯台のようにすぐ下に広がる無人の斜面を照らしている。そこに向かって最後の急坂を駆け上がると建物の脇を通り抜け、二人はそのまま街中の路地へと駆け込んだ。
足元に敷かれた石畳が感覚を失った素足の裏に心地いい。アキは追手を撒くためか、右へ左へと人の群れを避けながら次々に曲がり角を折れた。山の斜面に広がる街は、角をひとつ曲がるたびに平らになり、登り坂になり、次は下り坂になり、と次々とその表情を変える。
駆け抜ける少年と少女の姿を見た街の住人たちが訝し気に眉を顰めた。
人通りの少ない裏路地へ駆け込んだ二人は、荒い息をつきながら壁際にへたり込んだ。もう走れない。喉がカラカラに乾き、その不快感にレンは思わずえずいた。なんとか唾液で喉を湿らせる。
果たして逃げ切ったのだろうか。しばらく耳を聳ててみるが、人買いの男たちの声は聞こえないように思えた。
「よ、よかった。にげ、きったの、かも」
「うん。アキの、お、おかげだよ。ありが、とう」
二人をは肩を上下させ、犬のように喘ぐ互いの姿を見て、少し微笑みあった。
あの船倉に囚われていたのは、レンやアキと同じ10歳前後の子供たちばかり5人だった筈だ。連中の騒いでいた様子からすると、他の3人は墜落の衝撃で死んでしまったのだろう。
飛行船が墜落した原因はよくわからなかった。
レンたちのいた部屋は完全にロックされていて、人買いたちが騒いでいる様子は伝わってきたが細かい話の内容までは聞き取れなった。
だが少なくともガス袋が炎上したのは間違いないだろう。何かしらの事故が起きたに違いない。
事故があったこと、墜落から生還したこと、落ちたのが街の近くだったこと、男たちが様子を見に来る前に脱出できたこと。
全てが奇跡的な確率の上に成り立っている。
レンは生まれて初めて、自分は今日幸運な少年だった、と思った。
ようやく落ち着いてきた息を整えながら、レンは改めて周囲の状況を観察した。
どうやら酒場か何かの裏路地らしい。壁に耳を付けると、壁面を蛇のように這いまわっているパイプを通る蒸気の音に加えて、酔客たちの喚き声が聞こえてきた。
路地に人の気配はない。隠れてやり過ごすにはうってつけの場所に思えた。
「これからどうしようか」
レンが呟いた。
「誰か大人に助けてもらう?」
「うん、それがいいと思う、けど……あたしたちみたいな親無しをよく思ってない大人も多いから。気を付けないとまたどこかに売られちゃうかも」
「とりあえずどこか寝られそうな場所を探そうか」
「うん。レンが一緒ならあたしどこでも平気」
アキが少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
その時路地に、ぱん、という破裂音が響いた。
何の音だろう?顔を見合わせ、アキが音の正体を探ろうとして立ち上がった時だった。
もう一度ぱん、という音。
そしてアキが目を見開いたまま、膝からゆっくり崩れ落ちた。
「バカ野郎! 威嚇だって言っただろうが! 当てるんじゃねえ!」
「いや、いまのはあのバカが急に立ち上がるから――」
路地の奥から聞こえてきた男たちの言い争う声は、レンの耳には届いていなかった。
嘘だ。こんなのダメだ。ここまで一緒に逃げてきたのに――。
アキの鳩尾のあたり、着古して茶色く汚れたウールのシャツに、赤い染みがみるみると広がっていく。
「アキ! アキ! だめだよ死んじゃ! 立ってよ! 一緒に逃げようよ!」
半狂乱になって泣き叫ぶレンに向かって、アキの唇が微かに言葉を形作り、震えて動かなくなった。
に・げ・て。
尚もアキに縋りつくレンの足元の石畳が、三度鳴り響いた破裂音と共にはぜた。
「おい、小僧! お前も死にたくなかったら大人しく――」
レンの耳に届いたのはそこまでだった。
振り返りもせずに、レンは人買いたちが待ち構えるのとは逆に駆け出していた。銃声がなおも響き渡る。怒鳴り声が追って来る。しかし大通りへ飛び出したレンに銃弾が命中することはなかった。
疾駆する少年を避けて不快そうにする者。
何発か轟いた破裂音を気にする者。
ただすれ違う者。
街の中を蠢く群衆は、一人の少年の行く末など気にも留めていない。
涙で滲む視界に飛び込んできたのは、色とりどりの飛行船だった。
どうやら街の発着場らしい。
停泊している船はどれもゆらゆらと風に揺れている。皆今夜はこの街に泊まるつもりなのだろう。どれも船主が不在と見えて、発着場に人の気配は無かった。
後ろの方で、人が走り回る足音が聞こえた気がした。
慌てて近くにあった緑色の飛行船の影に身を潜める。どうしよう。このままだとまた見つかるかもしれない。流石にガスだらけのこんな場所で銃を撃つとは思えないが、それでも何をしでかすかわからない。
レンはすぐ目の前の飛行船の貨物の積み下ろし口らしい扉が僅かに開いているのに気が付いた。
鍵をかけ忘れたのだろうか。
そっと中の様子をうかがう。人の気配は無かった。
静かに扉を開く。
そこには大量の布の袋が積まれていた。
輸送船なのだろうか。だとすれば間違いなく今夜はもう飛ばないだろう。
レンは意を決して飛行船の中へと入り込んだ。
袋はどうやら粉か何かが詰まっているらしい。積み上げられた荷物と壁の隙間に身体を押し込むと、うまい具合に外からは見えなくなった。
これで見つかることはないだろう。
ほっと胸をなで下ろしたのと同時に、アキの顔が目の前に浮かんできた。
買われた子供たちの中で一番年長だったアキは、船の中でもずっとみんなを励まし続けてくれた。誰もが泣き叫び、絶望に打ちひしがれていた中で、たった一人涙を見せようとしなかったアキ。
レンを助けて、逃がしてくれたアキ。
レンにできた初めての友達だったアキ。
やがて訪れた浅い眠りの中で、レンは何度も何度もぐったりしたアキの身体を抱えてその名を呼び続けた。
*
「おい、お前、生きてるか?」
肩を強く揺さぶられる衝撃が頭に伝わり、ゆったりと鈍痛に変わった。
思わず漏れそうになる呻き声を懸命に殺しながら、レンはゆっくりと目を開ける。目の前には坊主頭の強面の顔があった。
「頭、怪我してるのか。まあこれでも飲めよ」
差し出された手に握られたマグカップから、温かな湯気が立ち上っていた。
呆然とするレンに、男はマグカップを手渡すと言った。
「この街に残りたいってんじゃなかったら、詳しい話は空の上でもいいかい。何しろ昼までにこいつを届けなけりゃいけないんでな」
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