霧の中

 ジーシェはハロスの中をゆっくりと沈んでいった。

 街で酔っ払いどもに描かせた当てにならない地図によれば、クーロンなるスカベンジャーがアツの飛行船らしきものを見かけたのはこのすぐ下の平地の筈だった。

 近隣はかつての住宅街になっていたというから、あまり高い建物に引っかかる心配はない。それでも時折、数十メートルはある鉄塔が立っている場合もあるので、ジーシェが降りられるのはその高さまでだ。

 そこから先はロープを下ろし、それによりコーとシーナが地上に降りる予定になっていた。


 見通しの効かない霧の中で、レンは慎重に船を降下させていく。高度は500メートルを切り尚も下がり続けている。

 ガスマスクと防護服に身を包んだコーとシーナが、幾分声が聞き取りづらいのだろう、顔を寄せ合って打ち合わせをしていた。コーの方は降下用のロープを既にハーネスに取り付けてある。そのロープの先は、搭乗口のすぐ上に固定されている巻き上げ用ウィンチに固定されていた。


「……オッケー、そろそろ降りられるよ」


 レンがマスク越しに二人に少し大きな声で呼びかけると、コーが黙って頷き、搭乗口に立った。ウィンチを使っての降下は滅多にやらないこともあり、少し躊躇っているようだ。

 が、やがてコーは意を決したようにゴンドラの扉を開いた。

 

 足元からハロスが流れ込んでくる。

 空気より重いこの厄介な霧は、まるで粘度をもった液体のように、ジーシェの床や壁にまとわりつきながら少しずつ侵入してきた。

 あまり長いこと扉を開けているとやがてゴンドラ内がハロスで一杯になってしまう。

 コーはすぐにロープを掴んで地上へと飛び降りた。


 軽く負荷がかけてあるウィンチが働き、ぎゅうぎゅうと音をたてながらロープが繰り出される。数十秒ほどしてロープの動きが止まった。

 しばらく待っているとやがてロープを二度引っ張る合図があった。レンがウィンチを操作するとエンジンからパイプを伝って流れ込んできた蒸気の圧力が加わり、巻き上げ機構が動き始めた。程なくしてロープの先端のカラビナが見えてきた。


 レンがシーナのハーネスにそのカラビナを取り付けてやると、シーナは何度か引っ張って強度を確認した後、すぐさま降下を始めた。

 思い切りのいいことだ、とレンは感心した。

 そういう性格なのだろう。先の見えない数十メートルの降下をものともせずに、シーナは素早くハロスの中へ消えていった。


 再び合図があるのを待って、レンはもう一度ロープを巻き上げると、扉を閉めて毒の霧の侵入を止めた。それから昇降舵を上昇に合わせると、エンジンの出力を上げて再びハロスの届かない上空へと舞い上がった。



 降り立った先は、かつて店舗として使われていたらしい建物のすぐ脇にあるアスファルト敷きの広場だった。とはいえ、アスファルトはボロボロに崩れ、そこかしこで土の地面が剥き出しになっている。二人は酔っ払いに描かせた地図の二枚目を取り出すと、改めて目的地を確認した。


「とりあえず、近くの道路へ出よう。それから看板か何か、目印になるものを探さないと」


 コーが言うと、シーナも頷き、二人は連れ立って広場を横切った。

 ここはかつて、自動車という乗り物を停めておくための発着場だったらしい。今では見かけることはないが、それでも時折スカベンジャーたちが鉄の素材として引き上げてくるのを見かけることがある。

 だいたいそうやって引き上げられたものは解体され、溶かされて建物の壁や歯車に生まれかわるのだが、たまにコレクションとしてドアや鏡をそのまま保管している物好きもいるらしかった。


 あたり一面の黄色味がかった霧の中に、看板が見えてくる。

 赤い背景の中で、飲み物のビンを片手に持った若い女がにこやかにこちらを見ているのが辛うじて見てとれた。どうやら宣伝のためのものらしい。あちこちが腐食したその看板はもはや女の魅力の欠片も伝えられていない。ましてや何の飲み物の宣伝なのかなど知る由もなかった。


「これ、多分この『赤い女の看板』ってやつだろう。とすりゃここから道沿いに北へ向かえばいい。コンパス出してくれ」

「ああ。北は――こっちだな」


 コンパスを防護服のポケットから取り出して覗き込んだシーナが指差すと、コーは手にした地図を回しながら方角を合わせた。


「じゃあ向こうへ、2ブロックだ。それから右へ曲がる」


 マスクを通したくぐもった声が告げる。二人はそちらへと歩き出した。


 あたりには生き物の気配はまるでない。

 雑草の一本すら生えていない、死んだ世界だ。

 道路沿いにはかつて植えられていた街路樹の成れの果てが、朽ちた丸太となってあちこちに倒れていた。

 

 ハロスにも濃淡があるようで、風が吹くと時々濃い霧の塊が流れて来て二人をすっぽりと覆う。そうなったときの視界はせいぜい数メートルといったところだろう。

 一方で霧が薄くなると、数百メートル向こうまで見通せることもあった。


 二人は黙って歩き、途中の十字路を右へ曲がった。それからしばらく行き、次は左へ折れる。朽ち果てたアスファルトの残骸に時折足を取られながらも地図の示す通りに歩いて行くと、やがて目的の場所にたどり着いたらしい。


「ここだ。こっちに看板が出てる。『南部総合公園』。この中だな」

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