第20話・★

『回想・猫娘』


 コンビニでのちょっとした騒ぎの後、香りを心配した仁平は家まで送ってくれた。

 帰り際、なにかあったときは必ず自分に連絡するようにと、丁寧に連絡先まで置いて仕事に戻っていった。

 香りは仁平の優しさに安堵の息を吐き、連絡先をスマホに登録すると、いつも通りおひとり様で読書を始めた。


 翌日、香りはいつも通り、出勤前にコンビニへ立ち寄る。しかし、そこに昨日助けてくれた男性店員の姿はなかった。

 仕方なくお昼のサンドイッチだけを買い、図書館へ向かった。

「おはようございます」

「おはよう。神条さん、今日返却されてた本、いつもよりちょっと多いからよろしくね」

「はい」

 いつも通り、返却されてきた本をチェックしてから消毒を済ませ、棚に戻していく。

 仕事中、香りは例の彼になにかお礼をしなければと一人悶々と考え込んでいた。

「どうしようかな……」

 つい本を消毒する手が止まっていると、不意にペチッと可愛らしい音がした。

「こら! なにボーッとしてるの? 今は仕事中よ」

 音の正体は、のばらが香りのおでこを弾いた音だった。

 香りは目をぱちくりさせて我に返る。

「あ……すみません」

「冗談。手伝うよ」のばらは本を手に取りながら、香りに訊ねる。

「それで? なに考えてたの? なにか悩みごと?」

「実は……」

 香りは、簡潔に昨日の出来事を話した。のばらはもともと大きな瞳をさらに大きく開き、

「なにそれ!? めっちゃ危なかったじゃん!」

「まぁ、特になにもされていないので。ただ、コンビニには迷惑をかけてしまいましたし、その店員さんにもお礼をしないとと思って……でも、こんな経験したことないし、お礼はどうしようかと」

 香りは思案げに首を傾けた。そんな香りを見て、のばらはニヤリと笑う。

「ふうん……ねえ、もしかしてその人、男?」

「……はい? まあ、そうですが」

 のばらの問いに、香りは曖昧に頷く。すると、のばらの口角はさらに上がった。

「はっはーん。それで? その人、イケメン?」

「えっと……」

 香りは店員の顔を思い出す。

「どうなのよ?」

 少し明るめの髪は男の人にしてはやや長めで、切れ長だけど比較的大きな瞳はいつも気だるげで伏し目がち。

 あまりこちらを見ることもなく、いつも視線は下を向いている。睫毛が長く背は高いが、まだ大人になりきっていないあどけない顔立ち。

「……大学生くらいの歳の子ですね。とはいっても、学生ではなさそうだけど」

「意外。歳下かぁ」

 のばらはなぜか楽しそうだ。

「……本でも持っていってみようと思います。中原中也とか宮沢賢治なら、嫌いな人はいないから間違いないだろうし」

 香りの呟きに、のばらは一瞬固まった。

「……は? ちょ、ちょっとお待ちなさいよ。本? 助けてもらったお礼が? ……いやぁ、ないない。ないわよ、せめてお菓子とかでしょ。神条さん、自分基準で考えちゃダメよ。世の中のみんなが本好きとは限らないのよ?」

 すぐさまのばらに全否定され、香りは目を点にした。

「……え、そうですか? いい案だと思ったんだけどな……」

「そうですか? じゃないよ! あなた、本当に恋愛経験ないの? さすがに謙遜だと思ったのに」

「だから……ないって言ったじゃないですか。それこそみんながみんな恋人いると思わないでくださいよ」

 香りはムッとして口を膨らませる。

「ソーリーソーリー。……とりあえず、そうね。まずは気持ちかな。ありがとうございましたっていう気持ちの品は、お菓子とかケーキがいいと思う。あんまり高過ぎても貰いづらいだろうし、男の人はそもそも甘いもの嫌いだったりもするから、無難なものがいいんじゃないかな」

「……なるほど」

 思いがけずのばらにアドバイスをもらい、香りは素直に頷いた。

「……分かりました。じゃあ、無難なお菓子にしようと思います」

「う、うん、そうしなー」

 その後香りは仕事中ずっと、贈るお菓子をなににするか考えていた。考え込む香りの背中を、のばらは心配そうにみつめてぼやく。

「……本当に大丈夫かしら……」 


 六時過ぎのコンビニを覗くと、昨日と同じ店員の顔があった。香りはほっと胸を撫で下ろし、店内に入る。

 そして、たった今目の前でレジを打ってもらったその人に、大量のお菓子の詰まったレジ袋を渡した。

「昨日はありがとうございました」

 男性店員は訝しげに香りを見て、ようやく思い出したのか「あぁ」と口を開いた。香りは、店員に両手をぐいと突き出した。

「お礼はお菓子が無難だと同僚から聞いて。つまらないものですが。……あ、その、決してお兄さんが働いてるお店の品がつまらないものっていうわけではなく」

 香りが慌てて弁明していると、男性店員はその袋を見て一言。

「……別に、いらない」

 二人はしばし、無言で見つめ合う。

「……えっ」

 素っ気なく言われ、香りは固まった。

「いらない?」

「いらない」

 まさか断られるとは思わなかった。こういう場合の対処も、のばらに聞いておくべきだっただろうか。香りは後悔しながらも、この状況をどうするべきなのか必死に頭を捻る。

 すると、不意に手が軽くなった。

 気まずい沈黙に面倒くさくなったのか、男性店員は香りが持っていた袋を受け取った。

「……やっぱもらう。…………けど、べつに俺はなにもしてないから、もうこういうのはいい」

 その手を下ろすことも忘れ、香りは、

「……カムパネルラ」

「は?」

 男性店員は眉をひそめ、香りを見る。

「なんだか、カムパネルラみたいです」

「……意味がわからない」

 男性店員はため息のような息をつく。

 香りは構わず爛々とした瞳で、

「銀河鉄道の夜です。知りませんか? 主人公ジョバンニの親友のカムパネルラは頭のいい優等生で、しかもとても優しくて、だけど優しいが故に命を落としてしまうんです。でも、その優しさにザネリもジョバンニも救われて……」

 黙り込んだ男性店員にハッと我に返り、香りは慌てて口を噤んだ。

「……あ、すみません。私の一番大好きな本で、つい。……あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」

「……黒中」

「黒中さん。お名前は?」

「…………凪砂」

 若干間を開けて、その男性店員――黒中凪砂は名乗ってくれた。

「黒中凪砂さん、昨日は本当にありがとうございました。……それからこれ、この本は図書館のなので、もし興味があったら読んでみてください。つまらなければ私に返してもらえれば、返却しておきますから」

 香りはバッグにあった文庫本を凪砂に強引に渡すと、ぺこりと頭を下げてコンビニを出た。

 香りがいなくなると、奥で二人の様子を見ていた同僚が凪砂の元へ寄ってきた。

「ちょっとなあにー? 今の人、昨日の人ですよね? なんか馴れ馴れしくなかったですかぁ?」

「…………カム……」

「まさか、先輩に惚れちゃったとか? っていうか、ちょっと変わった人ですよねー。凪砂先輩、ああいう人ってストーカーの気質ありそうだから、気をつけた方がいいですよー?」

「カムパネルラ……?」

 凪砂は女性店員の話も聞かず、いつまでも銀河系が表紙になっているその本を眺めていた。

「あっ、山梨やまなしさーん! ちょっとこっち手伝ってくれますー?」

 奥で店長が女性店員――山梨月埜つきのを呼ぶ。

「あーもう! なんなんですか! 店長!」

 月埜は面倒くさそうにため息をつきながら、渋々奥に戻っていった――。

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