第16話 観光と犯行と
声の音量を落として、言いたくないことを言う。我が署の経理がどう名目を付けてやりくりしたのか、ちょっと心配なのだ。
「そんなこと、僕らが気にしたって意味ないって。それよりも兄さん、列車が少し遅れ気味だったけれども、その影響は?」
「そうだな」
懐中時計を文字通り懐から取り出し、確認する。大会連覇の記念に、師から贈られた大事な時計である。
「一緒に昼飯を食ってから、挨拶にと思っていたが、どうやら昼食の時間が取れそうにない。ハクリ一人で食べていてくれるか」
「僕も挨拶に着いていくよ」
「いや、だめだ。便宜的に挨拶と言っていたが、辞令書が交付される、正式かつ儀式的な場だからな。いくら同じ刑事とは言え、さすがに弟を連れては行けない。もちろん、別に文句は言われないだろうが、兄にべったりの弟もしくは弟を甘やかし放題の兄という風に見られるのは必定だ。そんな噂を立てられて、嘗められたくはあるまい?」
「そりゃあまあ、論ずるを待たないけど……」
不承不承、頷くハクリ。ボクケイは弟の頭を撫でてやった。
「聞き分けがよくて助かる。で、宿に入るのに付き添うくらいの時間はあるから、一緒に行こう。そのあと、おまえは昼食や近場の見物で時間を潰しておいてくれるか」
「さっきまで、着いた早々、観光気分はよくないとか言ってた気がするけど」
「細かいことに拘るな。柔軟さが必要だぞ」
「ちぇ、分かったよ。時間はどのくらい掛かりそうなのさ? だいたいの時刻が分かるようなら、こっちから出向いて、合流するのが効率的でいいと思うんだけど」
「観光するのに効率的、だな」
ボクケイは目安の時刻を割り出し、待ち合わせの時間を決めた。
「一人前の刑事のおまえに、敢えて言うこともないと思っていたが、やっぱり言ってしまうな。変なのに引っ掛かったり絡まれたりしても、冷静な対応を心掛けるんだぞ。あと、ここの警察関係者と揉め事はくれぐれも起こさないように。縄張りがあるに違いないからな」
「大丈夫だって。じゃ、あとで」
今夜、ハクリが泊まる宿での手続きを終えて、兄弟は別れた。
* *
ハクリは巨大な看板絵を見上げていた。角に立つ建物の壁一面をカンバスに見立て、化粧品だか香水だかの宣伝のための絵で、若い女性の胸から上が描かれている。大きな胸を強調した切り込み入りのドレス、手首や髪を飾るアクセサリーの数々、透明感のある唇。
(ははあ。うちの街でも着飾ってる女性はいたけれども、こんなにも色々付けているのは初めて見た。個人的にはなるべく簡潔に、素肌に近い方が好みだがなあ。ま、ああいうのも綺麗と言っちゃ綺麗だし、悪くはない)
心の内とは言えなかなか偉そうに批評したハクリ。見上げているのがしんどくなって、目線を戻す。
(さて、どこかにいい暇つぶしはないかな。視察がてら、ちょっと危なそうな所を覗いてやってもいいんだけど、地元の警察と揉めるなと釘を刺されたし。となると映画かな。ここならうちの街よりも、新しい作品をやっていそう)
自然体の案内図がどこかにないかと、ハクリは視線をさまよわせる。大通りを西向きに見通していると、反対側から声がした。最初に短く鋭い悲鳴が上がったかと思うと、
「誰か! 捕まえて! 泥棒!」
と、女性の声がはっきりと聞こえる。
声のした方に振り返るや、その“泥棒”がどいつを差し示しているのかすぐに理解できた。細かい格子柄のハンチングを被り、焦げ茶色のジャケットを羽織ったノーネクタイの紳士然とした男が、その外見とは裏腹に恐らく全速力で駆けてくる。ジャケットのサイズがやや大きいのか、ぱたぱたとはためいて、やや走りにくそうではあるものの、それでも速い。女性の声に反応した二、三人が手を伸ばすも、うなぎのようにすり抜ける。
ハクリは接近してくる男が女物のハンドバッグを掴んでいることを視認した上で、素知らぬふりをした。面倒ごとは御免だという風を装って、道を空ける。ハンドバッグを持っている方の左側に避け、男の通過を密かに待ち構えた。
そうして男が真横に来た瞬間、左腕を袖ごとがっしりと掴む。相手の走る勢いも利して、手首を捻ってやりながら組み伏せようとした。
(? 何だこの硬さ)
掴んだ男の手首から伝わる感触が、角張っていて体温が伝わって来ない。まるで金属の長細い四角柱を持ったような……。
「ちっ」
相手は舌打ちしながらも、組み伏せられることなく、くるりと一回転して地面に立っていた。関節が三百六十度回ったとしか思えない動きに、ハクリは目を見張り、ついで握った手首に注意を送る。
(こいつは!)
その腕の正体を見極めると同時に、男からの反撃に遭う。左の足刀が前髪をかすめるも、すんでのところで上体を反らして逃れる。手首を掴んだままなのを活かして、肘関節を極める動きに移行――したいところだが、現況はいつもと違うことを思い出し、慌ててやめる。
(この男の左腕は、恐らくほとんどが義手。関節を極めても無意味だ)
習い性となるのも場合によりけりだなと、冷や汗を拭うハクリ。
(まさか下の方も義足ってことはないだろ、走り方や速さから言っても)
そう判断し、相手の足元にスライディング、両足とも刈って倒してやろうと試みた。だが、男は“紳士”らしからぬ身軽さで跳躍してかわし、さらに左腕一本で逆立ちするような体勢に入る。
「おっ。お?」
思わず声が出たハクリ。横たわった自分に、男が体重を掛けてくるのは分かったが、その重みが予想以上にある。
(やばい。義手の中に刃物のような凶器でも仕込まれていたら、突き刺さる? 冗談じゃない!)
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