第9話
かつて京には大学寮、各国には国学という教育機関が設置されていたのだが、今は中央の大学寮しか残っていない。
よって伊勢守が国司館で開いている教室は公的なものではなく、私塾という形で先生も伊勢守一人だけ。週に一日、先生の勤務がない日に開講されていた。
漢学だけでなく、詩歌や音楽、算術といった基本的な教養を身につけるべく、今や十数名と増えた学友と共に学んでいる。
「元々は正高の兄上にだけ教えていたのよ。父上が昔
月姫が筆を指先で遊びながら、からからと笑ってそう説明した。
「文章生?」
「よく分かんない。きでんどうがどうとか言ってたけど」
「ああ、紀伝道。先生は史記や漢書を学んでらしたんだね」
「だからそれ、たくさんやらされてるわけだ」
「やらされてるって……月姫、勉学は嫌い?」
少し心配になって聞いてみた。
月姫が一緒に参加する事になったのは僕が原因だ。
今となっては、やめるのも彼女の自由だった。
「そんな事ないわよ。あっ! まさか、顕成まで私に裁縫やれって言うんじゃないわよね?」
「え、裁縫? そんな事思った事もないよ」
「じゃあいいけど。最近さあ、母上にそろそろ教室はやめて裁縫を習いなさいと言われてるの」
「そっか」
裁縫は貴族女性が身につけるべきと言われている教養の一つだった。
その他は筝の琴と琵琶、仮名の読み書き。
裁縫以外は講義の中で僕たちと一緒に学んでいる。
月姫はどれもよくできていて、世の姫君と比べると、かなり優秀な方なんじゃないかと思う。
月姫の母君が教室をやめて裁縫をと言うのも分かる気がする。
「月姫は裁縫をやりたくないの? それとも教室をやめたくないの?」
彼女は少し考えてから答えた。
「うーん。ここに来れなくなるのが嫌」
「じゃあ教室はやめずに他の日に裁縫を習うというのはどう? それだったら母君も納得するんじゃない? 月姫は結構器用だから裁縫も難しくないと思うよ」
勘のいい彼女は僕の目をじっと見る。
「顕成、まさか裁縫やったことあるの?」
僕は少し恥ずかしくなって、目を逸らして頷く。
「お祖母様の手伝いで少し……」
実は少し、どころじゃない。今は自分の装束くらい一人で仕立て上げられる位だったが、それは隠しておいた。
月姫は跳ぶように近付いて僕の袖を掴む。
「すごい! あなたって本当に何でもできるのね! 私、顕成と結婚するわ!」
結婚。
突然とんでもない事を口にされ、きっと僕は真っ赤になった。
さっと目で周りを確認する。
他の子達は講義が終わってすぐに外へ遊びに出ていて誰も居なかった。
「つ、月姫! 君、何を言っているのか分かってるの?」
「だって、結婚したら妻が夫の装束を縫わなければいけないんでしょ。顕成と結婚するんだったら、裁縫できなくてもいいって事じゃない」
「そ、そんな理由で簡単に言わないで。やっぱり君は裁縫の方が嫌なんじゃないか」
彼女は思い付きで深く考えずに言っているだけだ。
そう把握し、自分の手で熱を持った頬を冷ますように仰ぐ。
「そうよ、裁縫なんてやりたくない。でもそれだと顕成の負担が大きいから、私が出仕して働くわ。顕成は女が外で働くのはみっともない、だなんて言わないわよね?」
「……もう知らない」
気まぐれな発言にこれ以上惑わされたくない。
ぱっと袖を上げて彼女の手を離し、逃げるようにその場を去った。
先日、光祐に月姫との仲を揶揄われてから、変な気分でいたところだった。
これまで彼女をそんな目で見たことはない。
初めて出会った日の月姫は男の子の格好をしていたし、その後も度々そんな格好で現れて一緒に外で走り回って遊んだものだった。
普段は簡単な単袴姿だし、たいてい少し伸ばした髪を一つ結びにしている――僕たちと同じ髪型だった。
だからか特に月姫が女の子だと意識した事はほとんどない。
ただ、彼女と一緒にいるとほっとする。それは気心が知れているから、というだけじゃない。
月姫はなんと言うか……ちょうど良い。
言葉遣いや行動は時々乱暴だし少し怒りっぽいけど根は優しい人だ。
そして率直で、すごくさっぱりしている。
僕の事をどこまで聞いて知っているのか分からないけど、伊勢に来る前の事や父親や母親は誰なのかとか一切聞いてこない。
それは気遣いからというよりも、単に気にしていないからじゃないかと思う。
だからと言って人に無関心なわけでもなく――その距離感がとてもちょうどいいと感じる。
そうだ、いつか誰かと結婚するのなら、月姫みたいな人がいい。
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