第4話

 乗っていた馬が急にふらつき始め、しばらくすると止まってしまった。

 その弾みで、僕と月姫は投げ出される。

 幸いにも、下は落ち葉がたくさん敷き詰められていて、衝撃は少なかった。

 月姫はすぐに立ち上がって僕の手を引いた。

「ごめん、ごめんね……私、乗れるなんて て言っておいて、こんな目に合わせて」

と、僕の着物を叩いて葉っぱや土を払う。

 自分も枯れ葉まみれになっているのに。

「本当はうちでちょっとしか乗ったこと

ないの……」

 あ……。

 月姫の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出た。

 

 何だか僕まで切なくなってくる。

 胸元にいつも入れている懐紙を取り出して、彼女の涙をそっと押さえた。

 そしてその着物に付いた枯れ葉を、同じようにポンポンと叩いて落とした。

 僕がしっかりしていれば、落馬なんてしなかったのかも知れない。

「あの、どっか行っちゃった」

 えっと周りを見回すと、確か馬がいなくなっている。

 月姫はまた泣きそうになっていた。

 悪い事が重なるな――


 その時、

――塞翁が馬という、宋の国の古い言葉がある。

と誰かの声が頭の中で響いた。

――どんな意味なんですか?

 これは僕?

――昔、老人の馬がどこかへ逃げて行ってしまった。悪い事がおきたなと周りは慰めたが、老人のところに馬が他の駿馬を連れて戻ってきた。

――じゃあ、良かったね。

――いや、まだ続きがある。その老人の子がその駿馬に乗って落馬して足を折ってしまった。

――また悪い事が起きた。

――しかし、その後戦争が起こり、足を怪我したその息子は兵役を免除されて命が助かった。つまりだね、人生、悪い事も良い事もある。もし悪い事があってもまた良い事があるから、そこで嘆かないでよい、というような意味なんだよ。


 僕の記憶……?

 ふと、目を遠くに向けると、木々の間から海が見えた。

――だって、私も海に行ってみたいの! 本物を見た事がないんだもの。

 これは半刻程前の月姫の声。

 

「まさに、塞翁が馬」

 ふいに僕の口から言葉が漏れた。

「え?」

 月姫が聞き返す。

「宋の国に伝わる古い言葉。良い事もあれば悪いこともあり、悪い事もあれば良いこともあるって事」

 僕は頭に浮かんだ誰かの言葉を真似た。

「じゃあ、悪い事があったから良い事があるかな?」


 良い事は本当に起こった。

 海はそこから近かったし、馬も戻ってきた。

 そして、声が出たのだ。


 悪い事は、国司館に帰った後、月姫が伊勢守に厩のお爺さんを騙し、勝手に外に出た事を怒られた位だ。


 仕事を終えた尹盛が僕を迎えに来た。

「今日はここの子供達と楽しく遊べたそうですね」

 僕は笑って話そうとしたけれど、また声が出ない。

 尹盛は優しく笑って、

「無理しなくていいのですよ。ゆっくりで。また遊びに来ましょう」

と僕の頭を撫でた。


 その後、時々月姫達と遊ぶようになった。

 養祖父の邸から国司館までは歩いてすぐに行けるような距離ではないので、尹盛が仕事で国府と斎宮寮を往復する時だけだ。

 月姫は――たいていいつも男の子の格好をして外で遊びたがった。

 彼女曰く、女房に「女の子は外で遊んではいけません」と怒られるので、男の子のふりをしてやるのだそうだ。

 やりたがる遊びは弓矢や石投げ、蹴鞠や毬杖、探検ごっこ――

 反対に、あまり外で遊んだ記憶のない僕は、ただ月姫の後を追いかけて真似をして遊んだ。

 そして、不思議な事に、月姫と一緒だと自然に声が出るのだ。

 彼女は僕に話す事を強制しない――どころか、非常におしゃべりで一方的に話す事が多く、僕にはそれが楽だった。

 しかし、そんな遊んでいるだけの日々はいつしか終わりを告げる。

 月姫の父君の伊勢守が子供達を集めて学問を教えていて、その中へ僕も入る事になった。

 しかし、読む事と書く事はできるのに、依然として話せない僕。

「月姫の前では話してたよ」

 正高さんが伊勢守に告げる。

「月子の? そうかなるほど」

 そう伊勢守は納得したように何度も頷いた。

 それから数日後――月姫は僕の隣に文机を並べて一緒に学ぶ事になった。

 伊勢守――先生の思惑通り、僕は月姫がいると自分の意見を言う事ができた。

 やがて誰の前でも普通に声を出す事ができるようになり、僕の世界は開けていった。


 僕の変化を、養祖父母は泣いて喜んだ。

「弓子に報告しなくては。これで京に帰れますね、若君」

「そのためには後ろ盾を探さないと」

 京に帰る?

 僕は頭から血の気が失われるのを感じた。

「顕成君、どうしたの?」

 帰リタクナイ――

 僕は倒れてしまった。


 以降、帰京の話はされなくなった。

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