第2話
天照大神が御鎮座する神宮のある国。
都から五日かけて牛車に揺られ、その神宮より手前の
斎宮には、帝の代わりに神宮に仕えるため都から派遣された斎王様の宮殿と、斎宮寮という役所がある。
中将内侍の父親はその斎宮寮の
僕はその邸で数年間暮らす事になる。
邸の南側には海があり、波のさざめく音が聞こえ潮の香りがした。
「まあ、なんてお可愛らしい! あなたが弓子の若君なのですね。」
中将内侍によく似た顔の女性が満面の笑みで迎えた。
「ええと、お名前は確か葵君……」
「母上、顕成君と呼ぶようにと姉さんが」
中将内侍の弟、
「そうだったわね。顕成君、あなたの事は弓子から聞いていますよ。実の子のように大切なお方だと。であれば私たち夫婦の孫のようなもの。弓子が一緒に来れなくて心細いかも知れないけれど、私たちを祖父母だと思って甘えてもらってよいのですからね」
そう言って僕の両手をとる。
しかし、僕の心は靄がかかっていて、ただぼうっと養祖母になる人を見つめるだけだった。
そこで暮らす日々が始まり、穏やかで、緩やかな時が流れた。
邸はこじんまりとした大きさで、庭もそう大きくななかったが、美しい池泉があり州浜には玉石を敷くなどきれいに手入れされていた。
食べるもの全てが美味しく、いつの間にか食事が僕の毎日の楽しみとなった。
養祖父は
養祖母の方はいつも針仕事をしていた。早速、僕の新しい水干と袴もこしらえてくれた。
僕は布を広げたり折るのを手伝ったり、邸の外に出て散歩するなどして過ごした。
ある日、斎宮寮へ着物を納めに行くという養祖母に僕も付いて行く事になった。
斎宮寮にはちょうど
伊勢守は普段はここから北へ馬で一刻半ほど走った先にある伊勢国府にいるらしい。
国守のような受領国司というと、民から税を無理に取り立て、私腹を肥やすだけのような長官が多いという悪い印象があるが、今の伊勢守は民の声をよく聞き、相談にのってくれるような人だそうだ。
養祖父母は今の国守は当たりだとよく褒めていた。
「若君の行く末を思うとこのままでは不憫で」
養祖母は僕のことを相談していた。
「利発そうな若君ですね」
伊勢守は優しそうな目で僕を眺める。
「ええ、若君の乳母である娘に聞くと、非常に賢い子だったそうです。特に教えてもいないのに、三つの頃には既に読み書きができたとか」
「三歳で? では今は相当なものでしょう」
養祖母は目を閉じて首を横に振った。
「今は話してくれないので分からないのです。しかし書物を与えると興味を持って眺めていますので、忘れてはいないようです」
「ええと、彼の名は?」
「顕成と……顕成君と呼んでおります」
「顕成君、こちらへ」
伊勢守が僕を近くへ呼び寄せた。
「歳は十歳頃かな?」
僕はこくりと頷く。
「なるほど、そうだな――
養祖母が心配そうな顔で僕を見て、
「あ、あの、顕成君は声が……」
と説明しようとしたが、伊勢守は僕に紙と筆を渡した。
僕は受け取った筆で、
『有朋自遠方來 不亦樂乎
人不知而不慍 不亦君子乎』
と書いて渡した。
養祖母はまあ、と感嘆の声を漏らした。
「簡単すぎたかな。では、これは如何に?」
伊勢守はもう一枚の紙に何かを書いて僕に渡した。
そこには、
『霜草蒼蒼蟲切切
村南村北行人絶』
と書いてあったので、僕は続きを書いた。
『獨出門前望野田
月出蕎麥花如雪』
「なるほど、白楽天もご存知か」
その後もいくつか伊勢守がお題を出して僕が答えを書くというやりとりが続いた。
「奥方、この歳でこれほど学を自分のものにできている子は珍しい。ご落胤と聞いたがどなたのお子なのですか?」
「六条宮様と聞いております」
「なるほど、
「しかし、若君は療養のために主人が連れて来たばかりなのです。栄養のあるものを食べさせて体はかなり回復しましたが、まだ心の方が……」
伊勢守は僕をチラッと見た。
「心の問題か――なかなか難しいな。友達と遊ぶ時も同じ感じなのですか?」
「友達――ですか。そう言えば、ほかの子供と遊んでいる姿を見た事がありません。幼い頃は乳兄妹の姫宮様と遊んでいたようですが……」
「なるほど。国府には私の子を含め、同じ年頃の子供達がいますよ。ひとまずは一緒に遊ばせてみてはどうでしょう?」
「伊勢守様の御子達とですか?」
「尹盛がここから通う時でよいですよ。試しに一度、連れて来て下さい」
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