8月 ひまわり育つ


 あともう少しで八月も終わる、つまり学校が再開する。

 そんな時に私はある衝撃的な事実に気づいてしまった。


「な、ない……!」


 やっと手をつけ始めた夏休みの宿題。英語の先生から渡された課題プリントの束がどこにも見当たらない。部屋の中まるごとひっくり返しても見当たらない。まさかまさか、失くしてしまったなんて考えたくもないわ……。

 せめて学校の、自分の机に忘れていますように。

 そんな願いを込めながら制服に着替えた私は、予定より一週間早く学校へ行くことになったのだった。

 自分の教室に行くためには、まず自教室の扉を開く鍵を職員室からとって来ないといけない。下手に、教室に行きたい理由とか聞かれたら嫌だなぁ。宿題を教室に忘れたからなんて馬鹿正直に言ったら、まだ宿題を終わらせてないのかなんて言われてしまいそうだもの……。

 職員室へと続く廊下を歩きながらため息をついていると、遠くの方から黄色い何かが近づいてくるのがわかった。

 サルシス君……? じゃないよね。だって彼の髪は黄色じゃなくて、輝くゴールドだし。

 黄色い影の正体は近づいていくとすぐにわかった。向日葵の花だ。だけど肝心の、腕いっぱいにその花を抱えた人の正体はわからない。


「ええっと、大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」

「ああ、大丈夫ですよ。……あれ? その声は、五津木さん?」


 向日葵の花がちょっと横にずれて顔を出したのは、担任の伊藤先生だった。さっきまでの外に出ていたのだろうかという顔の赤さで、白い紐で麦わら帽子を首から引っかけている。そういえば、伊藤先生は園芸部の顧問だっけ? この向日葵、学校で育ててるのかな。


「こんにちは、五津木さん。今日はどうしたんですか、学校の図書館かな?」

「あ、いえ。その、今更なんですけど、教室に忘れものをしちゃってたのに気づいて。それを取りに学校まで来たんです」

「そうだったんですね。……あ、でも、今は職員室には教室の鍵は無いんだ」

「え、どうしてですか?」


 まさかの事態に私が思わず慌てると、伊藤先生も慌てたように首をぶんぶんと横に振った。先生と一緒になって向日葵の花もふるふると揺れる。


「教室が使えないとか、そういうことじゃなくてね。先客がいるんです。僕が職員室にいるときに鍵を取りに来たんですよ」

「先客、ですか?」

「うん。練絹君が来ていたんです」


 先生からその名前を出された瞬間、ちょっとだけ私は息をするのを忘れてしまったと思う。あまりにも予想外だったから。

 私はまだ、彼をちゃんと名前で呼ぼうか呼ぶまいか悩んでいる。あの時、本当に名前で呼んでもいいって言ってくれてたよね? それともあれって、夏の暑さが見せた私の妄想?

 ぐるぐると考えることに突入してしまった私がノーリアクションなせいで、伊藤先生はさらに慌ててしまったらしい。必死に、彼のフォローをし始めた。


「練絹君はとっても良い子ですよ。礼儀正しいし、挨拶もきちんとしてくれますし。……だけど、彼は独特の雰囲気がありますから、クラスでもちょっと特別視されているでしょう? ちょっぴり気になっているんです。五津木さん、できたらでいいんですけど、クラスメイトとして練絹君をフォローできるときがあれば――」

「え、あれ、はい! ごめんなさい、ボーッとしてただけなんです! だから、その、八十君が、苦手だから黙ってしまったわけじゃあ……」


 八十君とついつい声に出して呼んでしまった。そのせいで余計に返事がしどろもどろになってしまったけれど、きょとんとした伊藤先生は安心したようにお地蔵様のような柔らかい笑顔を見せた。


「よかった。先生はいらない心配をしてしまったみたいですね。……練絹君は、先生に対して苦手意識を持っているみたいですから。どうにも僕も声をかけづらくなってしまって。情けないですね」

「え、八十君が伊藤先生を?」


 八十君が伊藤先生を、というか誰かを嫌う姿なんて想像ができなかった。博愛というわけでも、無関心というわけでもないはずなんだけど。彼は遠い高みもしくは冷たい地の底から、静かに私達を見ているようなイメージがある。


「先生、というものが苦手なんでしょうね。他の先生方に対しても、練絹君は必要以上に距離をとっているみたいでしたから」

「そうだったんですね」

「うん。だけど、僕、練絹君に渡したいものがあるんです。……あとで僕も行くから、それまで五津木さんも練絹君と教室にいてもらってもいいですか。五津木さんが居たほうが、僕と二人きりになるよりも落ち着くでしょうし」

「えっと、別に急いでいるわけじゃないので、いいですよ」

「よかった。それじゃあ、またあとで」


 腕いっぱいの向日葵を抱え直した伊藤先生は、腕の中の花を傷つけないようにか静かな動作で廊下を歩いて行ってしまった。

 私も職員室に向けていた足を方向転換させて、自分の教室へと向かう。……ただ忘れ物を取りに来たのに、どうしてこんなにドキドキしなきゃいけないんだろう。

 誰に向けてなのかわからない文句を言いつつ教室の前に立つと、扉は既に半分開いていた。そこからのぞいた教室はがらんとしていて、窓際にぽつんと座っている練絹くんは、窓の外の雲と同じになって風景に溶けてしまっていた。……人の目を引くはずなのに、ハッとすると彼はいつも姿が溶けて消えてしまう。


「――八十君」

「……こんにちは、五津木さん。お久しぶりです」


 唐突に名前を呼んだ私に驚いた様子も見せず、窓の外へ向けていた赤い視線がこちらへと向いた。太陽よりも眩しい赤なのに、熱が少しも無い冷たい宝石のような瞳だ。


「こんにちは、八十君。今日はどうして教室に? 先客がいるって聞いてびっくりしちゃった」

「……無いとはわかっていたのですが、確かめたくなったのです。つばめの巣が無いか」

「つ、つばめの、巣?」


 思ってもみない言葉に驚いてしまった。

 つばめの巣作りって、春先にたまにニュースになるよね。……夏なのに、つばめの巣?

 私が首をかしげていると、八十君が机の上に置いていた一冊の本を持ち上げた。タイトルは「親指姫」。


「この作品にはつばめが登場します。図鑑では知っていましたが、実際の姿を見たことがありません。とても、見てみたいと思いました。ですから意味の無いことと知りつつも、教室の窓にある軒を確認してみたくなりました」

「そっか。でも、つばめって春に来る鳥じゃあないの?」

「巣作りは春ですが、子育てを経てまた土地を去るのは秋あたり……と図鑑にあった気がします。確か辞書にも」


 そう言ったかと思うと、八十君は椅子から立ち上がって教室後ろの自分のロッカーへと向かった。そして中から授業で使う紙の辞書を取り出す。


「つばめという項目に、春の季語とあります。しかしつばめの子は夏の季語になっています。また説明文に夏鳥と明記されています。他にも「燕去り月」という言葉があり、これは陰暦の八月……つまり今の九月ぐらいを指します」

「へぇ~」


 ぺらぺらと薄いページを八十君は指でめくって、その項目を私にも見えるように差し出してくれた。そこには流暢に説明してくれたことと同じ内容が記載されている。

 つまりつばめって、今も空を飛んでいるのかもしれないのね。


「八十君は「親指姫」を見て、つばめが見たくなったんだよね? お話のつばめって、確か親指姫を連れて花の国へ連れて行ってくれるんだったっけ?」

「はい。親指姫、物語のラストでは「マイア」という名前になる少女を運びます」

「え?」


 幼い頃に読んだおぼろ気な記憶を引っ張り出しながら質問すると、聞きなれない名前が八十君の口から飛び出してきた。あまりにも違和感があって、聞き返してしまう。


「親指姫って、マイアっていう名前だったっけ? 親指姫っていうことしか覚えてなかったけど」

「簡易版では省略されているかもしれません。花の国の住人に、変な名前だからマイアにした方が良いと言われるんです」

「へ、変な名前? まぁ、確かに実際にそういう名前がだったら変とは思うかもしれないけど……。それを親指姫はあっさりと受け入れちゃうの?」

「そこまでは、私の読んだ本には描写されていませんでした。その後、本当にマイアと名乗るようになったのかはわかりません」


 親指姫という名前をおかしなものだと言われて、本当に変えてしまったのなら。それは私が幼い頃にドキドキして読んだ「親指姫」とは別人なような気がする。

 その時ふと、夏の部活活動日にヒヨリ先輩に言われたことを思い出した。シンデレラではなく本名になった主人公は、もはや私にとってあの親しんだ少女ではなくなってしまったこと。


「……親指姫って、どうやって名付けられたんだっけ?」

「あまりにも小さいのでそのように呼ばれるようになった、と書いてあります」


 「親指姫」の冒頭のページをめくってそう伝えてくれる八十君の横から、私も同じページを覗きこむ。ページにはチューリップの花から出てくる小さな女の子の挿し絵があった。

 親指姫も、あだ名なのかしら。そして花の王子様と結ばれてマイアになるの? マイアって誰という意識になってしまう。

 あの日言われたヒヨリ先輩の言葉が脳内に響く。……八十君は、どういう風に思うんだろう?


「八十君は名前が変わったことについてどう思う? 私は、親しみが持てなくなっちゃうなぁって」

「親指姫の名前が変わったことについて、ですか?」

「親指姫に限らなくてもいいけど、主人公の名前が変わっちゃう事について」

「そうですか」


 ぱたんと本を閉じたかと思うと、八十君は口を閉じてまるで美しい人形のような表情になる。思わず魅せられて凝視しているうちに、再び八十君の口が開かれた。


「現実に即して言えば、名前が変わることは何も変なことではありません。必ずではありませんが結婚すれば変わります。かつては幼名というものもありました。出世魚は成長具合によって名前が変わります。節目の意味を持つのではないですか」

「そう考えれば、別に名前が変わるのはおかしなことではない?」

「名前とはただの音の塊ではなく、識別するためのものであり、以前の識別コードにふさわしくなくなった時に名前は変わるのでしょう」


 ……つまり、親指姫という名前に存在が収まりきらなくなったからマイアという名前に変わったっていうことかな? シンデレラもお姫様になって、灰かぶりという名前がふさわしくなくなっちゃうし。

 名前がふさわしくなくなるって、でも、なんだかーー


「なんだか、さびしいね。名前がふさわしくなくなるなんて」


 思わず自分の気持ちが、言葉として溢れ出た。八十君がぱちりと一度だけ瞬きをする。

 でも、灰かぶりなんていうのは義姉達が蔑んだ上での呼び方だし。私がさびしいと思っても、シンデレラにとってはそうじゃないのかな。本名は妖精がつけたんだし。じゃあ、親指姫は? 親指姫も嫌だったのかな。それを私がさびしいと思うのは、勝手なのかな。


「童話は、文字だけを追います。だから読者にとっての人物の全体像は文字だけです。ですから名前という人物の文字が奪われただけで、その人物の全てが奪われたように読者は感じるのかもしれません」

「実際に目の前にいる人の名前が変わったとしたら、別に寂しくないのかな」


 私も、ボブ子っていうあだ名がある。本名の歩子ほすこを捨てる気は無いけど、ボブ子っていうあだ名も気に入ってる。でも大人になったら、自然とボブ子なんて呼ぶ人はいなくなるかもしれない。

 名前が変わるってそういう、自然なことなのかな。


「私のさびしいって気持ちは、成長がさびしいと思うのと同じことなのかもね。卒業式とかってさびしいものだし」

「成長がさびしい、ですか。私には考えつかない回答です。成長とは良いものではないのですか? より良いものへとなっていくのですから」

「うーん、でも幼い頃のことを思い出して、懐かしくなって、さびしいって思ったりしない? あの日にもう一度帰ってみたいなって」

「あの日に、ですか」


 小学生の頃は受験勉強しなくて良かったのにとか。もっと気楽に遊べたのにとか。あの時に別れたきりの友達とか。そういうとるに足りないようなことが、名前とともにどこかへ行ってしまうような心地なのかも。

 私の思いついたままの発言に、八十君は黙り込んでしまう。どうやら考え中らしい。……たいして考えもせず言ったんだけどな。

 八十君はさっきよりも長い時間黙り込んでしまう。遠くから蝉の声がだんだん大きく聞こえ始めた時に、やっと八十君は逆に私に質問をした。


「私の名前が、八十でなくなったとしたら。そうしたら五津木さんは私をどのように呼ぶのでしょう?」

「え? えっと、新しい名前をちゃんと呼ぶよ。初めは慣れなくて、思わず八十君って呼んじゃうかもしれないけどね」

「そうですか。……私は、八十と五津木さんに呼ばれたいみたいです」


 納得した、というように八十君はこくりと一つ頷いた。それに対して、私はなんにも理解できていない。

 もうちょっと聞きたいと思ったけれど、その前に教室の扉がコンコンと合図するようにノックされた。振り替えると、開いたままの扉から伊藤先生が教室へと入ってきた。


「お話し中ごめんね。練絹君に渡したいものがあって」

「はい。なんでしょうか、先生」


 伊藤先生に呼ばれた瞬間、いつもよりも姿勢正しく直立した状態となって八十君は先生の方へ方向転換した。明らかに固すぎる八十君の姿に、伊藤先生は困ったように笑った。


「用事はすぐ済ませますね。……この向日葵を渡したくて。園芸部の皆も持ち帰っているから、練絹君にもお裾分けです。五津木さんもよかったらどうぞ」


 伊藤先生は無駄な葉を落とした二輪の向日葵のうちの一つを私に渡してくれた。もう一つの向日葵も八十君の手に渡ったけど、それをまじまじと見つめた彼はまっすぐと伊藤先生に視線を返して疑問を口に出す。


「先生がこれを私にくださる意図はなんでしょうか? 私はどのように振る舞えばよろしいですか?」

「ええっと、深い意味は無いんですよ。ただ、いつも必要最低限だけを僕に伝える君が、さっき向日葵のことを僕に聞いてくれたでしょう? それが嬉しくて舞い上がってしまって……プレゼントしたくなっちゃって」


 八十君の赤い瞳でじぃっと見られると、大抵の人はどぎまぎしてしまう。それは伊藤先生もそうだったみたいで、だんだんと声がしぼんでいって最後にはちょっぴり落ち込んだように肩を落としていた。

 八十君は伊藤先生の返事に微動だにしなかったけど、手の中の向日葵を指でそっと撫でてから、ペコリと頭を下げた。


「向日葵は、いただきます。ありがとうございました」

「うん! かわいがってあげてね! それじゃあ用事も済んだし、先生はもう行きますね」


 八十君がお礼を言った瞬間に、パッと綻んだ顔を見せた伊藤先生はニコニコ笑って教室を出ていった。

 その姿が消えるまで姿勢正しく見送っていた八十君は、伊藤先生が見えなくなってから私に向き直った。


「……思わぬ形で手にいれました」

「向日葵、気になってたの?」

「親指姫の、花の国にもあったかもしれないと思いました。あそこは夏の国とありましたから。……こんな綺麗な花の中に住めるんですね」


 手の中の向日葵から一瞬たりとも目を離さず、瞬きすらしない八十君。あの日に、太陽を見つめ続けた彼の姿と重なる。

 ……こうやって、八十君との思い出もどんどん増えていくのかな。


「八十君、春になったらつばめの巣を探しに行かない?」

「それは、とても良い提案です。ぜひ探しましょう」


 八十君は無表情だったけど、その声はとても弾んでいるように聞こえた。あくまでいつもの彼に比べれば、だけど。




 ーー




 その日の晩。夢を見た。

 昼間に八十君と名前についての話をしたからかもしれない。私が一番最初に、ボブ子と呼ばれるようになった日のこと。

 とても私は幼かった。舌ったらずで、自分の名前がちょっとたどたどしくて、だからその子に「ボブ子?」なんて聞き間違いされたのだ。

 私はそのあだ名を気に入って、いろんな人にボブ子ですって自己紹介するようになった。ボブ子と呼んでくれたあの子のこと、とてもやさしくて大好きだった。

 ……大好きなのに。でも名前も顔も、夢の中でさえ思い出せない。


 どうして、忘れてしまったんだっけ?


 そんな疑問すら、朝になる頃には忘れてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る