夜に会うのはあの日の君

 さて、すずなり林檎の森も夜になりました。お昼は色々ありましたが、仕立屋はぐっすり眠っています。眠る前に機織りを仕上げましたので、明日には織った布をどんなふうに使うか考えなくてはいけません。永遠花は予想通りの柔らかく上等な品になってくれました。盛装でも礼服でもなんでも使えそうです。機嫌よく、仕立屋は眠りについていました。ついていたのですが…

 りりーん……りりーん……

 幽かな音色に、仕立屋は目が覚めました。楽しい気持ちで瞼を閉じたはずなのに、なぜだか、胸が騒いで仕方がないのです。着替えもせずに外に行きますと、風もないのにすずなり林檎が揺れています。おまけに、木の下に佇む人影が見えます。

「だれかいるの?」

仕立屋は静かに近づきます。一歩、二歩、三歩。近づくにつれて、見慣れた形であり、決してあるはずのないものであると気がつきます。

「あなた」

 少女のような姿です。仕立屋とは違う、さらりと長い茶髪がゆれています。大きな銀の瞳は昔と変わらずにまっすぐ仕立屋を見つめますが、背から伸びているのは、銀雀の翼ではなく、不死胡蝶の羽根です。

「ああそうか、森の掃除を忘れていた」

 朝に夢の領主が森に残した鱗粉が夢を呼んでしまったのだと気が付きました。気が付いても、動けません。妻の姿をした夢は、首を傾げています。

「あなた、ぎゅうってしてくれないの?」

「ぎゅうって、していいの?」

「あなたいがいに、だれがしてくれるの?」

 夢に罪はありません。夢は本物でも偽物でもありません。仕立屋は欲がなかったわけではありません。恐ろしくて貰わなかったのです。傷つけずに、傷つけられずにいる自信がなかったのです。それでも仕立屋は再び現れた夢を抱きしめて、家へと連れていきます。

「君はね、もっと恨みを言っていいんだよ。だって守り切れなかった。君の綺麗な銀の翼がもがれていくのを、僕は止められなかった」

「だって、あなたはたまごをまもっていたもの。わたしがそうしてとたのんだもの」

 そうです。まだ息子が卵から孵る前で、すべて放り出そうとした仕立屋を、彼女は止めたのでした。

「うん、覚えてる。ねえ、君は覚えてる? あの子が生まれる前に、君に手編みの服を送ったの。喜んでくれたよね。貴方は三界一の仕立屋になれるわって。だから僕、仕立屋を次の仕事に選んだんだよ」

 何枚も何枚も、夢が逃げぬように褪せぬ様に、妻に見せたかった、妻の為に仕立てた品々で包みます。もちろん、苦しくなるようにはしません。閉じ込めるようにはしません。夢に溺れてはいけないことは、朝よりも重々承知していますから。

「僕達のあの子もね、卵から孵って、とても大きくなったんだよ。君によく似た銀の瞳で、跳ね回って、強くなりたいって言ってるんだって。今日、親切な青い鳥に教えてもらったの」

 永遠花の布を頭に被せると、まるで婚礼の装束のようです。実は本当の婚礼の時も、装束は全て仕立ててあげたかったのですが、時間も技術もまだ仕立屋にはなかったので、できなかったのです。

「……ねえ、いいのかな。君のいない未来を生きても僕はいいのかな。あの子に、明るい景色を見せてもらってもいいのかな」

 失われた夢は、微笑みます。

「わたしのぶんも、いきて。つむいでみせて」

 それは嘘でも幻でもない、彼女が最期に残した言葉でした。

「だから、きょうはもう、おわかれね」

 失くしてしまったものを確かに渡した夢は、微笑みながら解けていきます。指先から、羽根の端から、あの懐かしく恐ろしい霧があふれてきます。僅かに残った七色の鱗粉は気流に乗って渦巻いています。仕立屋は、そっと夢の在った場所をなぞりました。ゆっくりと、忘れぬように、一度だけです。それから、何もかもが彼方に消えてしまうまで、仕立屋は黙ってそこに座っていました。

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