銀雀の仕立屋さん
嵯峨野吉家
朝に来るのは夢の蝶
真っ白な蝶が、真っ赤な木の実にとまりました。小さな果実はその重さに少し傾いて、鈴に似た音色を朝の森に響かせます。りりん。りりりん。澄んだ音色に乗って、蝶は飛び立ちます。きらきらと虹色に輝く鱗粉を撒きながら、三角屋根の小さな家の窓に飛び込みました。そこにはたくさんの織物が広げられています。つるつるしているもの。ふかふかしているもの。厚いもの。薄いもの。透けるもの。模様も色も、大きさも手触りもばらばらです。
「
織布の博覧会の真ん中でにこりと微笑むひとは、まだ少年のように見えました。小さな体に大きな襟のゆったりとした服を着て、ふわふわの黒い巻き毛は柔らかなリボンで結んで、まんまるの金の瞳は好奇心に満ちていて、背中から伸びる銀の翼は楽し気に揺れています。
「
すると、くるくると蝶が舞っていた辺りに、一人の青年が現れました。濃い紫の髪に赤い瞳の、晴天の森よりは月夜の宮殿が似合う長身の紳士です。指先にとまった蝶はとろけて彼の爪を彩りました。
「お久しぶりです。可愛らしい仕立屋さん。さて、私の新しい衣装はどちらに?」
「こちらですよ」
夢の領主の手を取って、後ろの戸を開けます。
「ご注文の、夢の領域に出向かれる際の衣装です」
まず目に入るのは、紫がかった藍色の式服です。淡い色の薄布を幾重にも重ねて、深い色味にしています。光が当たれば星の様に瞬いて、夜空を切り取ったようです。衣装に合わせた靴はつやつやと赤く、蜜のような香りが辺りを漂います。
「ちょうど、太陽技師が星の片付けをしていたところでしたので、星屑を分けてもらって染料に使いました。靴は外のすずなり林檎を原料に。面白い音がしますよ」
うんと踵の高い靴を履いて歩けば、かつんっと堅い音がしそうですのに、試しに歩いてみれば、りりん、りりんと鈴に似た音色です。軽やかな音が夢の領主の足音になりました。
「これはいいですね。あちらによく馴染む、優しい音と香りです」
さっそく新しい衣装を纏った夢の領主は、嬉しそうに靴を鳴らしました。舞踏靴にも使えそうです。
「よかった! 僕は夢の領域に行ったことがありませんから、少しだけ不安だったんです」
仕立屋は安堵の溜息を小さく漏らして、それから夢の領主に問いかけました。
「領主様、夢の領域はどんなところなんですか?」
「時のない場所です。常世でも珍しい場所でしょうね。虚ろなもの、形のないものが、色づいて折り重なって地面のようになり、失われたもの、無くされたものが雲のようにたゆたう場所です。領主である私でも、夜の間にしか行けません。熱で崩してしまうから」
そう言いながら、夢の領主は長い指を伸ばすと、何もない場所をなぞりました。鮮やかな爪が宙を裂くと、色づいた霧が流れてきます。懐かしいような、恐ろしくなるような、不思議な霧です。
「けれど、こんな風に夢の領域のものを呼び出すことはできます。良い仕事のお礼です。お代とは別に、何かお好きな夢を一つ差し上げます。生命に配っていたものと違って、目覚めても傍らにある夢ですよ」
輪郭が溶けあう霧の中、熟れた林檎のように赤く艶やかな唇を吊り上げて、夢の領主は笑います。
「亡くしてしまった大切なひとは居ませんか? 夢ならばまた語り合えます。過ぎ去ってしまったものはありませんか? 夢ならば、また元通りになります」
仕立屋はそう聞くと、まるい黄金の瞳を少し陰らせて、俯きました。
「……亡くしてしまった妻が居ます。けれど、夢に縋ったら彼女に怒られてしまいます。息子の幼い時間は過ぎ去って、遠くで働いているのは寂しいですが、僕がそちらに夢中になっていては、あの子の帰る場所が無くなってしまいます」
ゆるゆると首を横に振り、仕立屋は微笑みました。
「花をください。時のない場所で咲く花は、きっと糸にしても柔らかで、上等な品になりますから。次のご注文の時にも使えます」
「欲の無いひとですね」
夢の領主は肩をすくめると、霧を手繰って、花を呼び出しました。時のない場所に咲く花は褪せることも移ろうこともないけれど、それ以上育つこともない、薫り高い
「私に限らず、他の方の仕立てにも使ってください。それでは、また会いましょう。家族思いの銀雀さん」
晴れた森に鈴の靴音を響かせて、夢の領主は店を後にしました。仕立屋は見送ると、奥の部屋から溢れそうな永遠花を片付け始めました。
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