婚約者が変態でした。

五月堂メイ

第1話


 「お願い、リヴィアさん。」


 大きな青い瞳を潤ませて、胸元で指を組みお願いと懇願する様は儚げで男の庇護欲を存分に掻き立てる。しかし生憎、リヴィアは女なので彼女の懇願も、庇護欲を掻き立てる姿も舌打ちをしたいくらい忌々しいものでしかない。


 「…何故、貴女にそんな事をお願いされなければいけないのかしら?」


 内心の忌々しさを押し殺して、リヴィアは努めて冷静に聞き返した。彼女の『お願い』はあまりにも不躾で非常識極まりない。それでもリヴィアは激高しそうになる自身を抑える為に、目の前の彼女を頭の中でだけタコ殴りにしていた。


 「ウィル様は優しいから、ご自分から言い出すのは出来ないと思って…」


 『ウィル様』とリヴィアにしか許されていない愛称で自分の婚約者の名を呼ばれるのは不愉快でしかない。だが、それを表に出す事はしない。


 「…たとえそうだとしても、殿本人が私に言うべき事ですわ。」


 婚約者の名前プラス敬称を強調しながら、言外に「貴女には関係ない」と伝える。


 「の為に、リヴィアさんから言って欲しいの。」


 リヴィアの言った事をさらりと無視した上に、恥ずかしげもなく厚顔無恥な頼みをしてくる。


 (いくら話をしても無駄ね。)


 同じ言語を話ているとは思えない程、言葉が通じない。いや、言葉自体はちゃんと理解出来ている。互いに相手の言葉の裏を意図的に読まないようにしていると言った方が正しい。


 相手からすれば、


 『ウィル様の気持ちはもうわかりきってるじゃない。いつまで惨めにそのポジションにいるつもり?捨てられる前に潔く自分からその場を退きなさいよ。』


 と言ったところだろう。一方、リヴィアからすれば、


 『これは、私とウィルフレッド殿下。ひいてはシャンペール公爵家と王家の問題。まったく全然関係のない貴女が口出ししていい問題ではないのよ。』


 と牽制する。


 表面上は冷静に穏便に。しかし、交わされる言葉の裏はどこまでも悪意に満ち満ちている。二人共、一歩も譲らずに睨み合う。


 放課後の教室に険悪な空気が漂う中、突如としてドアが開かれる音が響く。


 リヴィアがそちらの方に顔を向けると、教室に入って来たのは今話題になっているウィルフレッド本人だった。


 「…ウィルフレッド殿下。」


 先に気付いたのは窓を背にして立っていたリヴィアだ。思わずウィルフレッドの名を呟くと、それに反応した彼女が後ろを振り返り、一瞬でウィルフレッドにその身を寄せた。


 「ウィル様!」


 金色の髪を靡かせて、ウィルフレッドの胸元に飛び込む彼女。そんな彼女を優しく抱きとめる一応リヴィアの婚約者のウィルフレッド。


 青い瞳にいつの間にか涙を浮かべて、銀髪に碧の瞳、中性的だが男らしいウィルフレッドの胸元に体を寄せた。彼も彼女の肩を抱いている。その様はまるで一枚の絵のようで、そうあるのが当たり前のように錯覚させられてしまう。


 「ウィル様、怖かったです。」


 はらはらと涙を流して、そうウィルフレッドに訴える彼女を見て、リヴィアはやられた!と己の迂闊さを呪った。これでは、リヴィアが彼女を呼び出していじめていたように見えてしまう。いや、事実ウィルフレッドにはそう見えただろう。


 「…リヴィア、こう言う事はあまりよくないと思うが…」


 感情のままに激高するのではなく、あくまで淡々と注意と言うていを装ったのはよしとしても、腕に押し付けられている彼女のぽよんぽよんの胸の感触に若干口元が緩んでいるのは隠せていない。


 そんなウィルフレッドを見て、リヴィアは自分の中の何かが急速に冷めていく感覚がした。


 派閥争いにウンザリした国王陛下がある特殊な事情から中立の立場にいるシャンペール公爵家の娘を息子の婚約者に選んだだけだ。そこにリヴィアとウィルフレッドの意思は介入していない。それでもリヴィアは王太子であるウィルフレッドを支える為に様々な努力をしてきた。ウィルフレッドもリヴィアの努力を認めて、リヴィアを婚約者として丁重に扱ってくれていた。


 けれど、それも彼女…プリシラ・アリアドナ伯爵令嬢が現れてからは変わった。


 婚約者であるリヴィアを遠ざけて、ほぼ毎日プリシラを傍に置くウィルフレッドにリヴィアがどれだけ惨めな思いをしていたかなんて、考えてもいないのだろう。


 恋愛感情はないけれど、王太子として聡明なウィルフレッドを尊敬していたし、そんな彼をしっかりお支えしようと思うくらいには情はあった。


 だが、今の彼はおっぱいに籠絡された一人の愚かな男にしか見えない。


 (殿方は理性と下半身は別人格と聞きましたけど…ウィルフレッド殿下も所詮は本能に抗えなかった馬鹿な男と言う事かしらね。)


 格下であるシャンペール家から婚約の解消を申し出るのは不敬ではないかと、いろいろリヴィアは考えていたが最早どうでもいい気がしてならない。


 「ウィルフレッド殿下。」


 リヴィアが長々と思惑の海を漂っている間にも、「ウィル様ぁ~、とっても怖かったですぅ~」と空涙を見せるプリシラを「私が話をするから。」とウィルフレッドが慰める三文芝居を続けていた二人の間に割って入った。


 「婚約を解消しましょう。」


 もう、ウィルフレッドを支えたいとは欠片も思えない。もともと恋愛感情はないのだから、尊敬の念や情がなくなってしまえば婚約は苦痛になる。だから、リヴィアはすっぱりと切り捨てる事にした。


 「ちょっ…ちょっと待ってくれ、リヴィア。何故そうなるんだ?」


 「もう私の中にウィル…いえ、殿への尊敬の念もお支えしたいと言う情もまったく全然一欠片もなくなってしまったからですわ。」


 「し、しかし、この問題は私達が話し合って決められるものでは…」


 「そうですわね。屋敷に帰宅次第、早急に父に話をして婚約解消の手続きを致しますわ。」


 「だから、待ってくれ。」


 リヴィアの方へ歩み寄り、肩に手を置こうとしたウィルフレッド。


 「言い訳は結構ですわっ!」


 無防備に近寄って来たウィルフレッドの両肩をリヴィアはムンズと掴むと、若干前傾姿勢になった彼に彼女自身の右膝を見事にウィルフレッドの鳩尾に突き刺した。ウィルフレッドは声も上げられずに両手で鳩尾を抑えて、その場に蹲った。


 「あんなぼよぼよの脂肪の塊に籠絡された下半身男の殿下の言い分など聞く気になりませんわ。」


 汚物を見る目でウィルフレッドを見下ろしたリヴィアはぐるりと彼を避けるように迂回して教室のドアにたどり着くと一度向き直ると優雅に一礼した。


 「ご機嫌よう、王太子殿下。お会いするのはこれが最後になるかもしれませんわね。」


 プリシラの事は完全に黙殺して、ウィルフレッドにだけ挨拶をするとリヴィアは殊更優雅な仕草で歩き去る。

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