第19話 希望が見いだせない

 信号で一度止まるタイミングで、マネージャーは深い息を吐いた。

「君、藤宮家の跡取りって言わなかったっけ?」

「跡取りはいとこですね。俺は華道に使う道具すら持ったことがないので」

「記者たちのおもちゃになるのは覚悟した方がいい」

「あの家に生まれたからには、色目で見られるのは覚悟の上です。俺は高校時代に会った人と付き合っていて、同棲しています」

「男の人?」

「はい。俺から好きだと言って、同棲を頼みました」

 マネージャーは頭を抱えてしまった。売れてきた矢先に恋人の影だ。

「週刊誌には載る。確実に」

「悪いことをしているわけじゃないです。すみません、気をつけてはいたんですが」

「彼らはどこにでもいるよ。隠れて何かしたって、家族だって口を滑らせたりするんだ。他人ならなおさら情報を売る」

 心配なのは恋人の存在だ。

 電話をかけてみるが留守電に繋がり、出る気配がない。

 焦りが生じ、額に汗が滲んできた。





 チェーン店のカフェに入り、人目を避けようと正文は一番奥のソファー席に座った。

 何も飲む気にはならなかったが、窓夏は適当にアイスコーヒーとサンドイッチを注文する。

 あまり食べる気分になれなかった。

「話ってなんでしょうか」

 店員が去るタイミングで話を切り出した。

 楽しげな話ではないと雰囲気で察しているが、どうか想像通りの内容ではないと祈るだけだ。

「いつから付き合っているんですか?」

「その前に、どうして僕だって分かったんですか? マンションへ出入りする人はたくさんいるのに」

「すみません。いろいろ調べさせていただきました。それにあなたはテレビにも出演していましたし、顔はすぐに分かりました」

 テレビと聞いて何の話かと思ったが、春にキリンの子供の紹介で出演した。

「付き合ったのは同棲のタイミングです。中学時代は友達でした。僕の働く職場で偶然再会して、」

「本当に偶然ですか?」

 どういう意味か、とたずねる前に、正文は口を開く。

「なんとなく察してはいるんでしょうが、あなたにお願いがあってきました」

「はい」

「兄さんに、藤宮家に戻るように言ってもらえませんか?」

 マイルドかつ、遠回しな言い方だ。

「彼は華道の道に進む気はないみたいですが、才能は私より充分すぎるほどあります。……悔しいですが。独特のセンスは、祖父と同等かそれ以上です。絵を描かせても物を作らせてもこちらが脱帽しっぱなしなんです。彼はチェス部なんて、将来なんの役にも立たないようなクラブで遊んでいたようですが」

 才能は芸能界で発揮されている。だがそれで充分だと言える立場でもなかった。

「汚点は、男性と付き合っていることです。後世に繋いでいかなければならない立場で、何をしているのか」

 窓夏はテーブルの下で拳を作った。力を入れすぎて、小刻みに震えが起こっている。

「本当に好きで付き合っていたとしても遊びだとしても、兄さんのことを考えてほしいんです」

「この話は秋尋さんにしたんですか?」

「兄さんに言っても嫌だとしか言いません。彼の母も藤宮家についてはなんとも思っていないので、無理でしょう。となると、あなたしかいないんです」

 正文は深々と頭を下げた。

「やめて下さい。そんなことをされる理由がありません」

「どうかお願いします。藤宮家の未来がかかっているんです」

 汚点と言いつつ、お願いの姿勢も崩さない。

 どの道も塞がれ、先が見えない戦いだった。

「彼が好きなら、別れて下さい」

 脅迫ともとれる願いに、困惑するしかなかった。

 しぼり出したのは「考えさせてほしい」という曖昧すぎる言葉だった。

 同棲生活を始めて、十年越しに恋が実り、待っていたものは明かりすら照らしていない足場の悪い砂利道だ。

 いずれぶつかるだろうと思っていたが、壁は高くて厚みもあって破れそうにない。

 窓夏は返事をしなかった。じっと耐えて無言を貫き通した。

 先に立ち上がったのは正文だ。

「いい返事を期待しています」

 正文は一礼し、伝票を掴んだ。

 呆然としたままドアベルの音を聞き、水滴が流れ落ちたグラスを掴む。

 一気に飲み干して喫茶店を出た。

 曲がり角で、方向を変えたとき、目の前に男性が現れた。

「すみません、倉木窓夏さんでお間違えないでしょうか」

 質問ではなく、答えを分かった聞き方だった。

 心臓がおかしく音を鳴らす。

 似たような風貌の人物を見たことがある。大きなショルダーバックを肩にかけ、携帯端末を持ちながら辺りを見回す姿。窓夏はとっさに身を隠した。

 春に子キリンの取材を受けたときだ。あのときも似た格好をした人がやってきた。

 しらばっくれることも名乗ることもできず、窓夏は黙って立っていた。

「藤宮秋尋さんと同棲していますよね?」

「……………………」

「こちらを見ていただきたいんですが」

 そう言って取り出したのは、秋尋と窓夏が映っている数枚の写真だった。

 遊園地へ行ったときのも、買い物をしているとき、ふたりでマンションへ入っていく写真もある。それに、キリン舎で掃除をする写真もだ。

「同棲しているということでよろしいですか?」

 現実逃避と助けを求めて、携帯端末を見た。

 端末には複数にわたって着信履歴がある。どれも秋尋からだ。

「すみません」

 逃げるしかないと足が勝手に動いた。

 後ろで記者が話しかけてくる。

 窓夏は目を合わせず、マンションの中へ入った。

 最前の方法が分からない以上、無理に納得させるしかない。

 鍵を閉めるとどっと疲労感が押し寄せてきて、ドアを背にへたり込んだ。

──写真撮られた。遊園地とか、買い物してるときの。

 震える指先で秋尋にメールを送り、壁を手にして自室のドアを開けた。

 そのままベッドに身体を沈め、目を瞑る。

 いつかはくると思っていた。相手は芸能人だ。けれどあまりに早すぎる。用心するより浮かれた気持ちが先行していた結果だ。

 友達とルームシェアでは通用しそうにない。

──今日、戻れそうにない。ごめん。

──窓夏は普通に生活していてくれ。

 実家の件、記者の件と、一気に押し寄せた。

 ひとりになると意外と冷静になれ、先ほど見せられた写真を思い出していた。

 後ろ姿だったがキリン舎で掃除をする姿は、一般の人は立ち入り禁止区域で記者は入れないし写真も撮れないはずだ。

 もし、身内にいるとしたら──?

 記者と対面したときとは違う緊張感に包まれた。

 職場の人間は身内といえど、他人だ。お互いのプライベートを知っているわけではないし、あくまで仕事上の付き合いしかない。

 キリン舎内部で盗撮されたのであれば、誰だろうか。

 担当者はほかにもいるが、あの忙しさで撮るのは不可能だ。手足は常に動かしているし、動物相手に余裕は見せられない。

 疑わしき人物が思い浮かんだ。

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