第18話 いつかはいずれやってくる

 実家で話をしてきた、と電話が入ったのは、一か月前のことだ。

 ダンボールを抱えて部屋でばらし、ぬいぐるみたちを壁に沿って並べていく。何を考えているか分からないナマケモノと目が合い、ぽんぽん撫でた。

 ものはそれほど多くなく、引っ越しがいい機会だと不必要なものは捨てた。余計に荷物は少なくなった。

 時計を見ると、もうすぐ夕方に差しかかる時間だ。

 近所のスーパーへ買い出しに向かい、足りないものをかごへ入れていく。

 今日は秋尋が三日ぶりに帰ってくる日だ。撮影で地方へ行って、よくやく戻ってくる。

 彼の好きな寿司を買い、まだかと待ちわびていると、ようやくインターホンが鳴った。

「おかえり!」

「ただいま」

 秋尋は初めは面食らった顔をしていたが、すぐに顔の緊張がほぐれる。

「引っ越しのお祝いは寿司だよな」

「だよね。そばより寿司。おめでたい感じだし」

 結局は食べたいだけだが子供じみた理由を並べて笑い、ふたりでほとんど平らげた。

 ソファーで温かい緑茶を堪能しつつ、秋尋は実家の話に触れる。

「おじいさんだけど、とりあえず生きてる。本人は仕事をする気はあっても、回りの支えがあってどうにかなっているレベル」

「そっか。お母さんは?」

「元気にしていたよ。今度、窓夏を連れてこいってさ」

 あやうく器を落としそうになった。

「なんか言ってた?」

 窓夏は恐る恐る聞く。

「応援してるってさ。あとおじいさんには言えなかった。意識もうろう状態だったし、言ったらぽっくり逝きそうで。……そんな顔するなよ。しぶとい人だ。まだ生きるさ」

 秋尋は目を擦り、茶器をテーブルに置く。

「眠そうだね。仕事帰りだもんね。シャワー浴びて寝よ?」

「そうだな。寝るかはなんとも言えないけど」

 秋尋はソファーから起きると、さっさと風呂場へ行ってしまった。

 残った器を片づけ、自室のベッドを整えた。

 今日はどちらで寝るのだろうか。おそらく一緒に寝るだろうが、彼の部屋で待つとなるとあざとい気がしてならない。

「なにしてんだ?」

「あっくんの部屋に行こうか悩んでた」

 シャツから覗く二の腕は、真っ白で筋がくっきりと浮かんでいる。

 磁石のように引き寄せられて、腕を広げた彼の胸元に顔をつけた。

「ずっとこうしたかった」

 頬を包まれる。お互いどちらかともなく目を瞑り、唇が合わさる。

 十年ぶりのキスだ。足下から震えが起こり、膝が立っていられなくなる。

 ベッドに倒れると、下半身を押しつけられ、小刻みに揺すられた。

 限界だと身体も心も悲鳴を上げている。本能のままに下着ごと脱ぎ、隙間もないほど密着した。

 すぐに欲を吐き出した。どちらかのものか分からない体液が混じり、太股を濡らす。

「もっとしよう。十年分」

「うん。キスもしてくれる?」

「ああ、する」

 重なる秋尋の目には涙がたまり、窓夏の顔に落ちた。

 もったいなくて舐めてみたら、しょっぱい塩の味がした。

 秋尋は唇を噛みしめ、窓夏の胸に顔を落とす。

 嗚咽を漏らし、必死で泣くのを耐えた。

「泣いていいよ。がんばったね。家族とか、仕事とか」

「ごめん」

 何の謝罪か分からなかったが、子供みたいに泣きじゃくる彼をほうってはおけなくて、頭を撫でながら背中をさすった。

「一緒に家庭を作っていこうね」

「うん」

 窓夏も目の奥に痛みが起こり、声も出さずにひっそりと泣いた。

 十年越しの願いと思いは、涙となって溢れた。




 子供の成長はめまぐるしく、大きくなったヒロは無邪気に駆け寄ってきた。

名前を公募する話も出たが、ヒロでなじんでいる子キリンを考え、名前は窓夏が決めた名前そのままだ。

 母キリンは外で餌を食べている。最初は飼育員に警戒をしていたが、最近は気にせずご飯を食べることが多くなった。信頼されているようで、こういうときにやりがいを感じる。

 掃除も餌やりも終えて、この日も滞りなく時間が過ぎた。

──今日、遅くなる。ご飯は先に食べてていい。

 同棲相手からのメールが届いていた。

 このところ撮影で忙しく、家を空けることが多くなった。決まった時間に帰れる窓夏とは違い、日付が過ぎてから帰ることが多い。

 それでもメールや電話をかかさなかった。十年別れていたときを考えると、微々たる時間だ。

 そんな話をしたら「熟年夫婦みたいだな」と秋尋は言う。

『将来は縁側でお茶をすすったりスイカを食べたりしたいね』

『いいなそれ。庭で家庭菜園とかやりたい』

『柚子も育てつつほかの野菜や果物も育てるのもありかもね』

『柚子をここまで育ててちょっと自信ついたんだよ。いけるかも』

 根拠があまりない自信だったが、将来を約束できる関係に幸せを噛みしめた。

「すみません」

 声をかけられ、マンションに入る直前に立ち止まる。

 見たことのない男性が立っていた。上背があり、目鼻顔立ちがどことなく秋尋に似ている。

 訝しみながら彼を見ていると、

「藤宮正文と申します。倉木窓夏さんでよろしいですか?」

 窓夏ははっとして彼を凝視する。

 藤宮。秋尋と同じ名字で、近しい人間なのは間違いない。

「秋尋兄さんのいとこにあたります」

「弟さんがいるって聞いていました」

「ちょっと話があるんですが、お時間は大丈夫ですか? よろしければ夕飯はご馳走します」

 今宵は秋尋の帰りが遅い。窓夏は名残惜しそうにマンションを見て、小さく頷いた。




 珍しく弟からメールが来た。内容は「今日は仕事? 何時になる?」という内容だった。

 面白みがないのはいつものことで、ギャグを飛ばすタイプでもない。だが時間を聞く彼に、違和感を感じた。

「どうしたの? 眉間にしわ寄ってるけど」

「ああいや……なんでもないです」

 マネージャーを交わしつつ、一言だけ「夜には帰る」と曖昧に送った。

「そこのコンビニでちょっと駐めてもらえる? 買いたいものがあってさ」

 マネージャーは運転手に声をかける。

 車はコンビニの駐車場で駐まった。

 マネージャーと一緒に車から出ると、男性が話しかけてきた。

 男性の風貌に、マネージャーはさっと秋尋の前に立ちはだかる。

 ファンという雰囲気でもない。仕事関係者の可能性も考え、軽く会釈をした。

「すみません、週刊誌の記者の者ですが」

「はい、何のご用でしょう」

 マネージャーはよそ行きの笑顔を作る。記者であればむげにできない。

 芸能界に入ってから、口を酸っぱくして教えられたことでもある。

「モデルのアキさんですよね?」

「そうです」

「男性と同棲していると小耳に挟んだんですが、本当ですか?」

 マネージャーとも打ち合わせは何もしていなかった。

 それどころか、同棲相手がいるとも話していない。

 聞き方からして、嘘は通用しそうになかった。

「おっしゃる通りです」

 マネージャーは渋い顔をする。

「それはお友達? それとも、」

「すみません、質問があるなら、事務所へメールをいただけますか?」

 マネージャーは質問を遮る。

「高校時代からの特別な相手だと聞いているんですが」

「質問ありがとうございます。のちにそちらの会社へ送らせていただきますね」

 背中を押され、車に乗り込んだ。

 すぐにドアが閉められ、マネージャーはイライラした口調で出してと伝える。

 走り出してからしばらくして、マネージャーは重い口を開いた。

「どういうことだ?」

「さっきの質問なら、そのままの意味です」

「そのままっていうと?」

「少なくとも、友達じゃないです」

 車の中が、緊張で空気が薄くなった気がした。

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