第644話 哀しき熱帯魚

銀座に某マジックバーがあって


1年ほど月島に住んでいた頃、よくお邪魔していた


オーナーさん以下、若手が数人いて


それぞれのテーブルで数名の客を相手に、得意のマジックで楽しませてくれる


各自、自分の持ちネタを数種披露すると一旦奥の部屋に引っ込む


再度ネタを仕込み終えると、時計の逆回りに隣のテーブルへと参上し、マジックを披露する


こちらのテーブルには、左隣りから仕込み終えた新しいマジシャンがやってくる、というシステム


店は入れ替え制


マジシャンが一回転すると客は出なければならないので、1日に同じマジックを2度見ることはない


・・・とは言っても、初見では「うわー!すげー!」と感嘆したマジックも、


通い詰めれば次第にカラクリが分かってくる


こんなマジックがあった


5cm四方の紙に、鉛筆で魚の絵を描く


魚の絵といっても一筆書きの簡単な魚だ


それを、水の張ったロックグラスの真上にかざし、火を付ける


紙は一瞬で燃え尽き、ロックグラスを見ると


綺麗な模様のビッグサイズの熱帯魚が泳いでいる・・・というもの


ある日、どうしても紙の魚→熱帯魚を見破りたく


熱帯魚マジシャン(以降、熱帯魚さん)が俺のテーブルを離れた後も、


いま手元で披露してくれている別マジシャンそっちのけで、目の隅に彼を追い続けた


数分後、右隣のテーブルでグラスに熱帯魚が出現、歓声が上がる


次のテーブルは俺の正面位置なので、熱帯魚さんの背中越しではあったが


魚が出現したのだろう、歓声と拍手が起こる


さて。


俺のテーブルで披露してから4カ所目のテーブル


熱帯魚さんは、俺からだと左半身を向いている


水を張ったロックグラスをテーブルにセットする


紙に魚の絵を描く


左手に紙の魚、右手にライターを持つ


グラスの真上に紙をかざし着火


その瞬間・・・見えた。


軽く振った左袖から熱帯魚が落ちるのを。


そして紙は一瞬にして燃え、グラスには熱帯魚が泳いで・・・ない?!


あれ??


熱帯魚は微動だにせず、腹を上に向けて浮かんでいる


一瞬、なにを見せられているのか理解できない客


焦った熱帯魚さんは、グラスの側面をコンコン指先で叩く


10叩きほどした時、突如熱帯魚が意識を回復


慌てて尾ひれを動かし体をひねり、反転して泳ぎだした


・・・まるで紙から実体化した魚が


マジシャンの魔法の指先10叩きで命が吹き込まれたかのような、神の所業となった


紙だけに。


固唾を呑んで、ことの成り行きを見ていた客は


今までにない歓声を以ってマジシャンを讃えている


神回とはこういう瞬間をいうのだろうか


過労死寸前の魚が、蘇生しただけのことなのに。

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