恋愛エチュード
ジュン
第1話
「御影石君はどう思う」
通夜子は僕に訊いた。
「この絵は何を表しているの」
通夜子の描いた絵は赤や青や黄やその他いろいろな色と線で描かれた絵だ。絵といってもオブジェクトはなく、つまり人物とか花瓶みたいな静物は描かれていない。猫とか樹木とか花とか、そういうものも描かれていない。具体的な対象物が描かれていないから抽象画ということになる。
「何を表してるかですって。何も表してないわ」
通夜子は自身の描いた絵を見ながらそう言った。
「何も表してないの」
僕はそう訊いた。
「そう。何も表してないの」
僕は思った。彼女の描いたものが何も表していないということはないだろうと。彼女の描いた絵は、普通の人には大して魅力的に見えないだろう。「美術作品」として。けれど、僕には何か訴えるものがある。通夜子の描く絵は、美しいとは言えないけれど、僕は彼女の描く絵がいつも気になるのだ。饒舌な文学を嫌厭する僕の嗜好というものは、むしろ小学生の作文の方が得ることが多いのと似ていて、通夜子の描く絵はその拙さゆえに僕は一層惹かれるのだ。それは文学に例えなくてもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が僕は好きではないのと同じことかもしれない。あまりにも完璧な作品は見る人を疲れさせる。レオナルドの絵画は鑑賞者を緊張させる。僕に言わせれば、それは一種のトラウマ体験であり「強すぎる」のだ。
「御影石君はどんな絵を描いたの」
通夜子は僕に尋ねた。
「自画像を描いたよ」
僕はそう答えた。
「自画像を描くなんて自己愛が強いのね。ナルシシストなのかしら」
通夜子はそう言った。僕は彼女の言ったことに別段反論はない。確かに僕はナルシシストだ。自認している。ところで、人はなぜナルシシストになったりするのか。僕は他者の愛を渇望しながらもそれを得ることができない。高校には入学したが不登校に、翌年に中退した。僕は中学までは明るい元気な子どもだった。だが、高校に入学して直にうつ病になった。何がうつ病の原因なのか。僕の家族の話になるが、僕の両親は毎日喧嘩していてお互い口汚く罵るのだった。子どもであった僕への直接の虐待はなかったが、安心して暮らせる環境ではなかったのだ。僕は親の問題を無視するため勉強を頑張った。校内では成績優秀で地元の進学校に合格したが、ほどなくうつ病を発症した。そんな時にうつ病のリハビリを兼ねて「芸術療法」というものを知り、興味本位で始めてみたのだが、最初のうちは大して面白いとも思わなかったが、続けてみると結構面白いと思うようになった。そんな芸術療法の場で出会ったのが通夜子だった。
通夜子の両親は離婚している。そのことが彼女にトラウマを負わせ彼女は登校を拒否した。高校は全日制を中退して通信制高校に入学し、なんとか卒業した。彼女は絵に関して幼少期の頃から興味を持っていたのだという。とりわけ具象画より抽象画が好きだった。なぜ彼女は抽象画に惹かれるのか。抽象画というものは具象画より人間の無意識の深層心理を表現するのに長けた表現の技法だからだと思う。僕は以前、通夜子に「好きな画家は誰」と訊いたことがある。彼女は「カンディンスキー」と答えた。なるほど、カンディンスキーは抽象絵画の巨匠だ。
繰り返しになるが、彼女が抽象絵画に惹かれるのは抽象画が具体的なオブジェクトを持たない以上、捉えることが難しい自己の無意識の葛藤を抽象画は具象画よりはるかに鮮烈に表現することができるからではないか。
不意に彼女が話しかけた。
「御影石君、この後ちょっとカフェでお茶しない」
「いいけど。なんで」
「ちょっと相談したいことがあるの」
「そう。わかった」
僕たちはたまに行くアトリエの近くのカフェ「モリエール」に行った。店内に入ると夏ということもあって冷房が効いている。涼しい。僕は、いつも通りコーヒーを注文した。彼女はカフェラテを頼んだ。
「で、相談って何」
「実は私、絵の個展を開こうと思うの」
僕は少し驚いた。
「個展」
「そう」
彼女は続けて言った。
「画家でもないのに個展なんて大袈裟だと思うかもしれないけど、描いた絵を見ているといろいろと思うことが出てくるのよね」
僕は尋ねた。
「いろいろっていうのは」
「例えば、私が絵を描き始めたのは自分の心の傷を表現する治療を兼ねていたのよね。自分の描く絵は心の傷を表したものだから、誰かに見てもらい感情を分かち合いたい欲求が出てきたの。この人はどういう気持ちでこの絵を描いたのだろうか―そういうことを思ってくれる人を持ちたいのよ」
「その気持ちはよくわかる」
僕はそう言った。僕自身、同じような気持ちがあるからだ。絵に限らず文芸でも音楽でもあるいは舞台でも、何かを表現したい動機は自分の感情を他者と共有したい欲求があるからだ。そういう欲求がない人はあまり芸術に関心がないだろう。通夜子は今まで描いてきた絵を観客と共有することで自分のことをわかってもらい共感してもらいたい、そう思っているのだろう。僕は訊いた。
「どこで個展を開くの」
彼女はカフェラテに口をつけた後、間をおいて話し始めた。
「画廊で『さらばだーな・だれ』ってあるんだけど知ってる」
「知ってるよ。浜松町にある老舗画廊だろう」
「そうなの」
「そこで個展を開くのかい」
「私、あの画廊のファンなの」
「そうか。相談っていうのは個展を開きたいって話のこと」
「個展を開きたいんだけど、私の絵って抽象画ばかりでしょう。具象画も展示したいと思うの。それで―」
僕は彼女の言いたいことに感づいた。
「僕にモデルになってほしい」
少しの間をおいて彼女は言った。
「そうなの」
「ヌードとか」
「お願いできないかしら」
僕は少し考えた。
「いいよ」
「ありがとう」
彼女はうれしそうな表情を浮かべた。
僕は疑問に思ったことがあった。
「油絵かい」
「ううん。違うの」
「じゃあ、素描か」
「そう」
彼女は続けて言った。
「私、思うんだけどヌードって素描つまりクロッキーそれが一番魅力を感じるの。精緻な油絵の絵よりも」
「同感だ」
僕は思った。確かにヌード絵画は精緻な油絵より素描の方が魅力がある。持論になるが、芸術は美の核心―ダイナミズム―一瞬一瞬に現れる「真実」を捉える仕事だろう。これは、じっくり描くよりも速く描く素描の方が本質的だろう。僕も通夜子に同意見だ。
「来週の日曜日は空いてる」
「空いてるよ」
「じゃあ、来週の日曜日にモデルになって」
「どこで描くの」
「私のアパート。場所は知ってるわね」
「うん。前に一度お邪魔したことがあったから」
「じゃあ、そこで」
「わかった」
「会う時間とか詳しいことはまた連絡するわ」
僕たちは、モリエールを出た。
約束通り、僕は通夜子のアパートに来た。ノックすると、ドアを開けて彼女が顔を出した。
「上がって」
「お邪魔します」
通夜子の部屋には彼女の描いた絵が置かれていた。僕はその絵を見て改めて彼女の絵に惹かれている自分というものを感じていた。
「前に来た時より絵の数が増えてるね」
「御影石君が前に来た時以降も描き続けていたから」
通夜子は何か自信に満ちた表情をした。表情だけではない。彼女の全身から「明快さ」のような冴えた印象を受けた。
「私、アンディ・ウォーホルって好きじゃないの」
唐突に彼女はそう言った。
「アンディ・ウォーホルか。僕もあんまり好きじゃないな」
僕はそう言った。それから彼女に訊いた。
「どうして突然アンディ・ウォーホルの話をしたの」
「この本知ってる」
彼女は、また唐突に一冊の文庫本を僕に見せた。
「『ドラクロワの堕落論』―初めて見た」
僕はそう返事した。それから彼女に訊いた。
「興味深い本だな。これって本当にあの画家のドラクロワが書いてるの」
「知りたい」
彼女は無邪気な顔で僕を見た。
「知りたい」
「じゃあ、この本貸してあげるから。自分で読んで確かめなさい」
本文を読まなくても著者紹介を読めば事足ることではないか。僕はそう思ってしまった。口には出さなかったが。
「借りていいの」
「貸してあげる」
「ありがとう」
僕は本を鞄にしまった。
「さて」
通夜子は今日の本題に取り掛かることを告げる勢いのある「さて」の文句を口にした。
「ヌードの素描だよね」
「そう」
彼女は少し間をおいて僕に尋ねた。
「緊張する」
「全然」
僕は続けて言った。
「君の方こそ緊張してるんじゃないかい」
「全然」
彼女はそう答えた。それから続けて話し始めた。
「私、ヌード―裸―って全然いやらしいものに見えないの。だって人間って人前では服を着てるけど一人でいる時は必ずしもそうじゃない。それに生まれた時は、みんな裸だったんだから」
「そうだね」
僕はそう答えた。
「ただし」
「ただし、何」
「御影石君、途中で興奮してきて勃起したりしないでよ」
「しないよ」
「わからないじゃない。ペニスはあなたの意志に従うかどうか」
「たぶんしないと思います」
僕は服を脱ぎ始めた。通夜子は僕を気遣ってか自身のためか、それともヌードデッサンの「流儀」に従ったのか、部屋を少し暗くした。レースカーテンに重ねて遮光カーテンが完全に閉じられ外を歩く人の視線を遮断する。部屋が一つの密室となるわけだが、エロスを持ち出してはいけない。いや、芸術とエロスは切っても切れない関係にある。エロスのない絵画、とりわけヌード絵画など面白くない。ではあるが、エロスは認めてもポルノは認めない。これは芸術の一般論や「通説」として主張するものではなくて、僕の「いま、ここで」の信念だ。通夜子もそのことはわかっている。二人は子どもではない。おとなであるが、おとなはエロスをポルノに向けることもできるし向けないこともできる。持論を言えば、ヌード絵画は人の「真実」を描き出す試みだが、その「真実」は単純に「美しい」ということではなく人間の美と醜の混沌を前提として、そのうえで真実の「全体」というものをつかめればなお良い。
彼女は描き始めた。二十分を三コマ、十分を三コマ、五分を三コマ、そして、三分を五コマ、計百二十分―二時間―だ。各々のコマの間に短いオフを挟む。
「ありがとう」
すべて描き終えた後、彼女は礼を言った。僕は服を着る。
「御影石君、次回アトリエで会った時に貸した本の感想を聞かせてほしいの」
「わかった」
僕はそう返事した。そして考えた。借りた本の内容はどんなものか―
「読んできてくれた」
アトリエで会った時、通夜子はさっそく僕にそう尋ねた。
「読んだよ」
「どうだった」
「ドラクロワが書いた本じゃなかった」
「ドラクロワはペンネームなの」
「そうみたい。ネットで調べたら本当の名前は」
「そんなことどうだっていいから本の内容の感想を聞かせて」
「―」
「どうしたの」
「―」
「実は読んでないとか」
「読んだよ」
「どうして黙っているの」
「いろいろ言いたいことはあるけど、僕が一番考えさせられたところはアンディ・ウォーホルの部分だ」
彼女は訊いた。
「どう思ったの」
「こんなことが書いてあった。『ポップアートの旗手として知られるアンディ・ウォーホルを私は「芸術家」として高く評価できない。退廃的だ』と」
「ドラクロワの批評をあなたはどう思うの」
「僕はアンディ・ウォーホルを否定する気はないけど『芸術家として高く評価できない』っていうドラクロワさんの批評はわかる気がする」
僕はそう答えた。そして続けて言った。
「ただ、アンディ・ウォーホルの『大量生産方式』の作品が無価値だとは思わない」
彼女は訊いた。
「どんなところに価値があると思うの」
「尊いものでも『かけがえがある』ということさ」
「尊いものでも、かけがえがある……」
通夜子は僕の言葉をリフレインした。
「そう」
沈黙の時が流れる。
「僕の両親がアンディ・ウォーホルの作品だったら、僕は何度でも両親を『両親』と取り換えるだろう。そして比べてみるだろう。どこが変わったかと」
彼女は黙って僕を見ている。
「何度取り換えてみても結局本当の両親、初項の両親と変わらないものが残されるだろう。けれど、もしそれをやれるなら、やってみたい気持ちになったよ」
彼女は泣いた。
「そうね」
「ああ」
「アンディ・ウォーホルの絵は私の苦しみと重なるの。どんなに自分の親に絶望して理想の親を描いてもそれは実の親と違わないものだもの。違っていたら理想の親でも愛せないわ。だって私の親は私の理想の親ではなかったから、理想の親が与えられてもそれは私の親ではないんだから。だから絶望の親を何回も繰り返し描くしかないのよ」
「―」
哀しみの時が流れる。二人ともに。
僕は言った。
「僕は本当はアンディ・ウォーホルの作品が好きなのかもしれない」
彼女は言った。
「私も本当はアンディ・ウォーホルの絵が好きなのかもしれないわ」
彼女は笑顔を取り戻した。
「今度は御影石君の好きな本、私に貸してくれる」
彼女はそう言った。
「わかった。次回持ってくるよ」
僕はそう答えた。
「御影石君、エロ本はいいから」
「持ってこないから」
「御影石君もエロ本とか読むの」
「読むよ。中学生みたいなこと言わないで」
「そうよね」
僕も彼女も笑った。そして僕は彼女のアパートを出た。帰り道に、彼女に貸す本のことを考えていた。
「僕の好きな本を持ってきたんだけど」
「どんな本かしら」
「『茶碗無視の作り方』っていう本だよ」
「『茶碗無視の作り方』―それどんな内容なの」
彼女は興味ありげに僕に尋ねた。
「自分の愛すべき人、彼女とか妻を粗末にして平然としているような男には、手料理なんか作らなくていいっていう内容の本なんだ。茶碗に盛る料理はその男の分は無視していいって著者は主張するんだ。コンビニ弁当かカップ麺を食べなさいって言ってる」
彼女は言った。
「皮肉が効いてるわね」
僕は言った。
「働くことが尊いことはわかってる。けれど、働いてさえいればその他の責務は免除されて、とにかく働いてさえいればいいという風潮がいまだに根強くはびこっている。でも、フェミニストでエッセイストの著者は、『茶碗無視の作り方』で、そういう思考を痛烈に批判する。いわゆるワーカホリックの問題だ。昨今の流行りのワークライフバランスを考えようよっていう主張をしているんだ」
僕はそう解説した。
「面白そうな本だわ」
彼女はそう言った。
「貸すから読んでみて」
僕はそう言った。それから続けて言った。
「ストレスから仕事、社会生活ができなくなっても、衣食住のような家事、基礎生活は本人の『やる気』があればマイペースでできるだろう。働けない人はすぐに『働きたい』『社会復帰したい』『自立したい』って考えがちだけど、実際は難しかったりする。ハードルが高い仕事よりも、家事のような基礎生活を自分でできるようにすることの方が、長い目で見て自立への近道になると思う。これは世の常だけど、とかく産業社会は『世の中すべて仕事教』の信者になることを要求してくる。それだけがすべてじゃないよということをこの本の著者は主張する」
彼女は訊いた。
「なんていう人が書いたの」
「伊縄白子さん。料理研究家でもある人なんだ」
「そうなのね」
「読んでみて」
「ぜひ読ませて」
僕は言った。
「実はもう一冊紹介したい本があるんだ」
「何かしら」
「『人間合格』という本」
「『人間合格』―太宰治の『人間失格』なら知ってるけど。どんな本」
彼女は僕に尋ねた。
「人間賛歌の詩集」
「詩集」
「そう」
「どんな詩」
彼女はそう訊いた。
「僕の好きな詩に『一輪の花』がある」
一輪の花
なんて美しい行為なのか
その人は部屋に飾る一輪の花を
庭の木から折ることをためらう
とめどない花のいのちに
その人のこころは動揺する
ただ一輪の花に
いのちの尊さを見出す
美しい花
美しいその人のこころ
通夜子は言った。
「すてきだわ」
僕は言った。
「『美しい』とは『命』に対する畏敬。その心のことだろう。僕はそう思う」
彼女は言った。
「二冊の本、貸してくれる。次回返すから」
通夜子は別の話を僕に話しかけた。
「御影石君、人はなぜ人を愛したり憎んだりするのかしら」
僕は考えた。そして答えた。
「人は人をなぜ愛するか―人間というものは愛されること以上に他者を愛したい存在なのだと思う」
僕は続けて言った。
「人は人をなぜ憎むのか―人間というものは憎しみを感じる相手は、実は自分の愛する人と同じ人だったりするものだよ」
僕はさらに続けて言った。
「人が本当に愛することから遠いのは、相手に無関心で思い浮かべることもない人だろう」
「そうか……」
彼女は神妙な面持ちだ。
「御影石君の『幸福論』はわかったわ」
彼女は続けて言った。
「本当の幸せって『あなたなしには生きられない』っていう関係じゃなくて、自分の立場や価値観や弱みをさらけ出す勇気と相手への信頼、それから時には相手に譲歩する柔軟性、それが愛すること、幸せの条件なのね。親密な関係の条件なんだわ」
「そうだね」
しばらく沈黙の時が流れた。
「ところで八月六日は御影石君の誕生日だったわね」
「そう」
「誕生日のお祝いさせて」
「ありがとう。うれしいな」
僕は言った。
「さて、アトリエだし絵を描こうか」
「御影石君、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
今日、八月六日は僕の誕生日だ。
「いくつになったの」
「二十二歳」
「そうか。私より一つ下なんだ」
彼女は続けて言った。
「御影石君にプレゼントがあるの」
「そうなの。なんだろう」
「前にヌードモデルをやってくれたじゃない。そのお礼も兼ねて」
彼女は封筒を差し出した。
「謝礼ならいらないよ」
「お金じゃないわ」
「―」
僕は尋ねた。
「何が入ってるの」
「開けてみて」
僕は封筒を開けた。中には―チケット―が入っていた。
「『花の絵画展』―」
彼女は言った。
「今、『さらばだーな・だれ』で『花の絵画展』をやってるの。私、自分の個展の打ち合わせで『だれ』に行った時、今月いっぱい、花の絵だけを集めた『花の絵画展』をやってることを知ったの」
「へえ」
「打ち合わせついでに見てきたんだけど、良かったわ。御影石君にもぜひ見てほしいなと思って」
「ありがとう」
彼女は笑顔だ。
「行ってみようかな」
「ぜひ行ってみて」
「さてと、ワインを開けますか」
彼女は僕に訊いた。
「御影石君、お酒は飲めるわよね」
「飲めるよ。そんなに強くはないけど」
「お互い酔うまで飲もう」
「酔うまで……」
「そう。酔って―私のからだ―抱いて―」
「やっぱり僕ワインはいいです」
「冗談よ。なに動揺してるの。二十二歳にもなって。今言ったことは冗談」
彼女は笑っている。
僕は苦笑いした。
「乾杯」
「ああ、おいしいわ」
彼女は僕に訊いた。
「ところで、御影石君って女性経験あるの」
「―あるよ」
「本当」
「本当だよ」
「何回。いつしたの」
「―一回。いつしたかは内緒」
「そんなの経験に入らないわよ。その程度は童貞と同程度」
「つまんないよ。そのギャグ」
「あら、つまらなかった。ごめんなさい。さあ飲もう。ワイン一本空けよう」
僕は思った。通夜子は完全に酔っていると。そう思っていたら、彼女は急に真顔になった。彼女は訊いた。
「御影石君、誕生日って今まではどんなふうに過ごしてた」
「特に何もしなかった」
「お祝いとかしないの」
「うん」
「そう」
僕は言った。
「僕の誕生日って八月六日だろう―」
「―ヒロシマよね」
「そうなんだ。だから―」
僕は視線を落とした。
彼女もわかっている。
「『お祝い』っていうのに抵抗を感じるわよね」
「うん」
彼女は黙った。
僕も黙った。
二人とも黙った。
沈黙の風が吹いている。
気づいたら―朝だった。
沈黙の風が二人をいつの間にか寝かしつけたようだ。
「おはよう」
アトリエに入ると彼女が挨拶した。
「おはよう」
僕は続けて言った。
「この前の誕生日に『だれ』の『花の絵画展』のチケットをくれたでしょ。行って見てきたよ」
「本当。で、どうだった」
通夜子はうれしいような、驚いたような表情で僕に感想を求めた。
「良かったよ。見てきて正解だった」
僕はそう答えた。本当に良かったのだ。
「画家志望の作品だから『名画』って呼べる絵はなかったけど、僕にはむしろそっちの方が愛着がわくというか楽しめたよ」
僕はそう感想を述べた。
「チケット、ありがとう」
「さてと、絵を描こうかな」
彼女は訊いた。
「何を描くの。自画像」
「違う」
「違うの。自画像じゃないの」
「うん。自画像はもういい」
「ふうん。じゃあ、何描くの」
僕は意味深な笑みを浮かべて言った。
「抽象画」
彼女はそれを聞いて驚いた様子だ。
「御影石君が抽象画を描くなんて初めてじゃない」
「初めてだよ」
彼女は訊いた。
「どうして抽象画を描こうと思うの。私に影響されたとか」
「さあね」
僕はさらりとそう答えた。
僕は描き始めた。カンヴァスにイメージのわくまま、筆で絵具を乗せていく。「なるほど」―やってみるとなかなか面白いものだ。自分の心の奥底の無意識とか深層心理などというものを表現する行為は何か例えて言えば、洗濯や汚れた食器を洗ってすすぐのと同じで、自分がクリアーになっていくのが感じられる。クリーンではなくクリアーだ。つまり『きれい』ではなく『明瞭』になっていくのがわかる。一時間弱で一つ描き上げた。
僕は通夜子に訊いた。
「どう思う」
「わあ。なんかすごい―伝わってくる」
通夜子は目を見開いて感想を言ってくれた。
通夜子は訊いた。
「この絵は何を表しているの」
僕は言った。
「何も表してないよ」
「何も表してないの」
「そう。何も表してない」
通夜子はうつむいた。
「まるで、私の絵みたい」
通夜子はうつむいたままだ。
「御影石君、私のこと好きなの」
「―」
僕はうつむいた。彼女は黙っている。
僕は正面を向いた。
「好きだ」
「―」
通夜子は黙っている。
彼女はまっすぐに僕の目を見た。
「私も好き」
しばらくして彼女は話し始めた。
「御影石君、『だれ』の『花の絵画展』に行ってくれてうれしいわ。あのね、私がそのチケットをあげたのは訳があるの。御影石君が貸してくれた本、二冊とも良かったけど、『人間合格』という詩集、御影石君がその本を紹介してくれた時に御影石君は、『一輪の花』が好きだって言ったでしょう。私、詩集を最後まで読んでみて御影石君と同じ『一輪の花』が強く心に残ったの。感動したの。だから、御影石君の誕生日に花をモチーフにしたものを贈ろうと思ったの。それで『だれ』のチケットを贈ったの。『花そのもの』を贈るのはためらったの。なぜかわかるでしょう」
「通夜子」
「名前で呼んでくれた」
彼女は泣いた。大粒の涙が頬を伝う。
「私も花より美しい人になれたと思う」
「ああ」
「本当に」
「本当さ」
通夜子は言った。
「セックスして」
「―」
「私を抱いて」
「―」
僕は通夜子とセックスした。彼女のからだを抱く。僕はやさしくキスし愛撫し彼女の吐息を飲み込む。甘美なキャラメルが溶けていく。懐かしいラムネの酸っぱさもする。山間部から渓谷へと下っていく。彼女は段々と息が深くなっていく。ポルノチックなセックスと違ってセックスの本性はこんなにも穏やかなものかと思い知る。同時に納得する。腑に落ちた。彼女と舌を絡ませ合い、乳首を舐め彼女の髪を撫で、空いた方の手で彼女のもう一方の乳房に触れる。彼女は陶酔した表情を見せる。彼女の陰核を愛撫する。陰核は段々と硬くなり勃起する。僕は「谷間の百合」にもキスする。洞窟はほどなく浸水し海水からは潮の香りがする。彼女は勃起した陰茎にキスする。いやらしさは一厘もない。あるのは「真実」だけだ。僕は救われた。彼女はやさしく「入れて」と言った。僕は勃起した陰茎をゆっくりと挿入する。彼女は「はあ―」と声を洩らす。僕は段々と激しく動く。彼女の潮の香りが強まっていく。膣がきつく締まってくる。「ああ―」。僕は果てた。彼女の痙攣する膣から推察するに、彼女も同時にオーガズムに達したみたいだ。僕は、彼女をやさしく抱きしめた。そうすると、通夜子に対する愛情が僕のなかで確かなものとなっていることが、はっきりと感じられた。
「どうですか」
「そうですね。特に変わらないです」
「そうですか」
今日は三週間に一度の通院の日だ。僕は心療内科に通院している。
岸田心療クリニックの岸田先生が僕の主治医だ。僕がクリニックに通院を始めたのはうつ病の発症の時からだから、もう七年になる。僕はSSRIと呼ばれる抗うつ薬と睡眠薬を処方してもらっている。
先生は言った。
「『特に変わらない』と言ったけど、なんか今までと違う印象を受けるなあ」
「そうですか。特に変わったことはないんですけどね」
僕は涼しい顔でそう答えた。
けれど、内心ドキッとした。「変わったこと」は「あった」のだから。診察は五分ほどで終わった。いつもそれくらいだ。
僕は通夜子と愛し合ってから自分の有り様―が変化していることを感じていた。人は愛し合うと、オキシトシンというホルモンが出て心が安らぐのだと何かの本で読んだ。この安らぎはオキシトシンの仕業か―などと素人なりに考えた。とにかく身体が軽いのだ。頭の重たい感じ、うつ病の辛さが、全くなくなったわけではないのだが、軽快している。落ち着いて自分の周囲を見てみると、何か「春のめざめ」のようなものが感じ取れる。今、季節は夏だが「春のめざめ」なのだ。道端に転がっている石がキラキラ光って、まるで笑っているようだ。真夏のこの暑い風は、僕を情に厚い、熱い人間にしてくれて、きっとそれは冬になってもなくならない太陽のようなものに感じられる。道路に犬のフンが放置されていたりするが、それさえも愉快に思えてしまう。心が浮き立っている。
僕はずっと愛というものに臆病だった。愛を求めながら同時に愛を恐れ遠ざけてきた。愛が、愛することが怖かった。だから、いつも独りだった。しかし、そのことは隠して他の人たちにはわからないようにふるまって生きてきた。たぶん「他の人たち」には、僕が本当は愛を知らない孤独な人間だということが、ばれていたと思うが。
「愛って何」
僕は自身に問いかけた。
「わからないなあ」
いつもその答えが返ってきた。いつもそうだった。
「愛が欲しい」
「愛が欲しい」
「愛を教えてほしい」
まるで僕はピエロだ。白黒のピエロだった。色彩のない孤独なピエロだった。「楽しいふりをする」ピエロだった。しかしだ―
僕は通夜子と愛し合ってフルカラーのピエロになれた。フルカラーは言い過ぎか。十二色のピエロになれたのだった。
「『愛』はこういうものか」
「『愛』はこういうものか」
「『愛』とはこういうものなのか」
僕は通夜子に感謝する。僕は今まで生きてきて人に感謝したことがなかった。いつも不安や怒りや不満や悲しみでいっぱいで、感謝するような温かい気持ちになれたことがなかった。もちろん感謝する演技は数えきれないほどしてきたが。嘘の感謝だ。けれど、僕は感謝することを知った。それがどういうことかわかった。通夜子に教わった。彼女だけは失いたくない。そう思った。
「おはよう」
アトリエに入ると通夜子が明るい声で挨拶した。
「おはよう」
僕も元気よく挨拶した。
「ねえ、御影石君」
彼女は目を輝かせて僕に話しかけた。
「私ね『あの日』―『あの時』から自分が変身している感じがするの」
「へえ」
僕は内心「僕もなんだ」と思いながら彼女の言葉を聴こうとした。
「なんか、世界が変わって見えるっていうか、まわりがキラキラしているの」
彼女はそう言った後、僕に訊いた。
「御影石君はどう」
僕は少し間をおいて言った。
「僕も同じなんだ」
「そうなんだ」
「うん」
彼女は言った。
「私、生まれて初めて本当に人を愛するということを知った気がする」
「僕も同じだ」
久々にモリエールに来た。僕はコーヒー、通夜子はカフェラテを頼んだ。
「何見てるの」
通夜子は訊いた。
「天井」
「天井……」
「そう」
「天井がどうかしたの」
僕は言った。
「天井に照明が付いてるだろう」
「ええ」
「その照明を見てるのさ」
「照明を……」
「うん」
「照明がなんなの」
彼女は不可解そうに尋ねた。
「ここの照明って等間隔じゃなくてバラバラに不均等に設置されてるだろう」
通夜子は天井を見て言った。
「そうね。言われてみれば」
僕は言った。
「まるで星空みたいだろう。プラネタリウムだ。どの照明をシリウス星に選ぶか―考えていたんだ」
彼女は言った。
「シリウスは見つからないわよ。だって今は夏だもの。ベガにしときなさい」
「そっか」
僕は笑った。彼女も笑顔だ。
そうこう言っていると、コーヒーとカフェラテが来た。
「御影石君、『だれ』の個展のことなんだけど」
「どんな進展具合なの」
「順調よ」
「そうか。良かった」
「『だれ』の店主の木下さんが個展の日程を調整してくれたの。十月中の二週間でどうかって」
「どうするの」
「『わかりました』そう答えたわ」
「了承したんだ」
「ええ」
彼女は続けて言った。
「ただ、木下さんは言ったの。『あなたの絵には欠点が一つありますよ』って。私、それが気になって」
「ふうん。『欠点』か。何だろうな」
通夜子は言った。
「絵がうまいとか下手とか、そういう意味の欠点じゃないと思うの。だって私、画家ではないんだから。欠点って何かしら」
「―わかんないな」
一時間ほどモリエールで涼んで、僕たちは店を出た。僕は通夜子と別れて家に帰る途中も彼女の、いや木下さんの言う「欠点」とは何か―そのことを考えていた。
「彼女の絵の欠点……」
十月に入った。いよいよ通夜子の個展が開かれる。僕は『だれ』に行ってきた。彼女の絵を改めて鑑賞した。抽象画は相変わらず魅力的だ。他方、僕のヌード絵画はどうか。僕は見ていて少し照れた。僕は、僕のヌード絵画を見ていて、うまく言えないけど何か寂しい印象を受けた。「なぜだろう」。僕はそう思った。じっと、絵を見ていて僕はハッとした。「ひょっとして木下さんの言う通夜子の絵の『欠点』というのは―」
「木下さん、こんにちは。ヌードデッサンのモデルの御影石と申します」
僕は挨拶した。
「そうですか。あなたがモデルですか」
「あの、木下さん、通夜子の絵の『欠点』というのは、もしかしてこういうことですか」
僕は自分の考えを伝えた。
「よくわかりましたね」
木下さんはそう言った。
「やっぱりそうか」
「御影石君、来てくれてありがとう」
通夜子が姿を現した。
「個展開けておめでとう」
「ありがとう」
僕は言った。
「君の絵の『欠点』がわかったよ」
「わかったの」
「ああ」
「何。教えて」
「君の描いたヌードデッサンを見て何か寂しさを感じないかい」
「寂しさ……そう言われれば……」
「なぜだと思う」
「―」
「心が通わないからじゃないかな」
「心が通わない……」
「そう。なぜ見る人にそんな印象を与えてしまうのだろう」
僕は続けて言った。
「『大事なことを相手に伝えたい時には相手の目を見て話しなさい』って学校の先生に言われた経験はないかい」
「―そうか―」
通夜子は理解したようだ。自分の絵の欠点を。
「私の人物画は、鑑賞者と視線が合わないのね」
「その通り」
彼女は言った。
「それはつまり、私がモデルに対して臆病で心を閉ざしているということなんだわ」
「そう」
僕は続けて言った。
「つまり、君の絵はモデルの視線を真正面から描くことで、臆することなくその人物の『真実』を描く勢いが弱い」
「木下さんは、それを私の絵の『欠点』だって言ったのね」
彼女は、納得した様子だ。
「御影石君、もう一度、私の絵のモデルになってほしいの。今度は真正面から、あなたの視線を見て、恥ずかしがらず臆することなく堂々と、鑑賞者と視線が合う絵を描いてみせるから」
「わかった」
再び『だれ』に行ったら、新しく彼女が描いた僕のデッサンが展示されていた。鑑賞者と視線が合う作品だ。僕は思った。彼女が視線の合う人物画を描く―描けるようになったのは、彼女の傷ついた心あるいはアイデンティティの回復がある程度は達成できたことの表れだろう。僕が初めて芸術療法の場で彼女に出会った時から比較すると、彼女は、僕もそうだけれど―トラウマからかなり解放された気がする。いまだに他人の言動や視線にストレスを感じることがままあるにしても。
「御影石さん」
木下さんが僕に声をかけた。
「木下さん、いろいろとありがとうございました」
「いや。こちらこそ。良い絵が展示できてうれしいですよ。通夜子さん、勉強されたみたいですね。通夜子さん言ってましたよ。『御影石さんのおかげなんです』って」
「いえ、僕は何も」
二週間を経て、彼女の小さな個展は無事幕を閉じた。見に来てくれた人の心に素朴な感動を与えたと思う。すてきな個展だった。元はと言えば、僕も彼女も「芸術療法」という医療サービス、リハビリテーションから「深入り」してここまで来たわけだが、やってみると単なる「療法」と違って、得るもの学ぶもの楽しむもの考えさせられるもの成長するものなど、たくさんの発見があった。
恋愛エチュード ジュン @mizukubo
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