第172話 夢の船に



 物心がついた頃からジークにとって頼れる人間は兄のレンしかいなかった。

 鬼尾街では皆自分らのことが手一杯で、他人を助けるなんて余裕はなく、それが当たり前の環境で育ってきたジークには理解できなかった。

 死にかけの小僧に寝床と食事を与えるなんて、この連中はなにかを企んでいるかもしれない。




 次の日の朝。

 昨夜投げされたことで足を痛めてしまったジークはフウカに半ば強引に部屋から連れ出され、知らない連中と食卓を囲んで食事をとることになった。


 白米、汁、漬物、至って庶民的な献立だが、主食雑草のジークには豪華なものだった。

 空腹に耐えきれなかったジークは、白米を素手で鷲掴みにして口に運んだ。


「こらッ! 箸を使えよ! 箸を!」

「ハッハハハ! 犬かお前は!」


 そのさまは餌に食らいつく野生の犬そのもの。

 注意するケンシンと、面白そうに笑っているフウカ。

 生まれてこのかた食事の作法を仕込まれたことのないジークには箸の使い方はこれっぽっちだった。


「だが、食事を出した者に対して良い態度とは言えないな。ジークよ、箸を使え。知らないのなら覚えろ」

「……自分の飯を、どう食おうがテメェには関係ねぇだろうが」


 口まわりが米粒だらけになったジークは唸るように返した。

 食卓に冷たい空気が流れる。

 ジークに向けられた敵意によってフウカの表情から笑顔が消え、何故か拳の関節を鳴らし始めた。


 何かを察したケンシン、サブロウ、セイラの子分三名は食卓から離れる。

 次の瞬間、誰もが反応するよりも速くジークの体が食卓に勢いよく叩きつけられた。


「がはっ!?」

「ハハ、聞き分けのない狂犬には、こういう躾が手っ取り早い。言葉で駄目なら肉体に叩き込むだ。セイラ、手当しておけ」

「物理的に叩きつけてどうするんですか……まったく」


 セイラは気を失ったジークの傍らに駆け寄り、フウカの容赦のなさに深い溜め息を吐く。


 暴力での解決はこの造船場ではご法度になっているが、フウカがジークを気絶させなければ三人の誰かがきっと巻き込まれていたという確信がセイラにはあった。


 拾われたこのジークという少年が普通の少年ではないことは、誰がどう見ても明らかだった。







「どうして……僕なんかを助けるんだ」


 セイラからの手当てを受けるジークは、小さな声で訊いた。


「僕なんかを助けても、お前らが得するわけじゃないだろ。それとも、僕をなにかに使う気なの?」

「使うって、そんな……」

「金なら集められない。僕は兄者のように賢くないし体も弱い、役に立たないクズだ」


 きっとこの連中もアマノと鬼尾組と同じで、弱い人間から金を巻き上げようとしているはずだ。

 手当てをしてくれるのも使い物にならないと困るからだ。


 利用されるぐらいなら、死んだ方がマシだ。


「さっさと殺せよ……」


 兄を失ったあの日の光景がジークの脳裏に深く刻まれていた、アマノの影も同様にチラつく。

 人を殺してもなんとも思わないあの男は、いつも笑っていた。


 あのフウカという女も同じように笑っている。

 笑っている人間、何かを企んでいる。


 笑っているあの女は、嫌いだ。




「人が人を助けることに疑問垂れてる君は、赤ん坊か何かなの?」

「……は?」

「君はクズじゃないよ。君と、君の兄を利用してきた人たちがクズなのよ。ジーク君がどんな生き方をしてきたかは知らないけどね。世の中には人が人を助ける常識もあるってことだけは理解して欲しいわ」


 俯いていたジークは顔を上げ、驚くように目を見開く。

 自分を手当てしてくれているセイラが泣いていたからだ。


「フウカさんもその一人よ。昔から生粋のお人好しでね、私とケンシンとサブロウもあの人が手を差し伸べてくれなきゃ、とっくの昔に死んでいたわよ」

「……」


 人が人を助ける。

 そんな世の中があってもいいのだろうか。

 あの町で生まれ育ってきた時があまりにも長すぎたために、とうに荒みきってしまったジークが理解するには、まだ早かった。


「すぐとは言わないけど、いつか君にも分かる日が来ると思うわ」


 フウカ達のことはまだ信用できないジークだが、彼女らのことを知りたかった。

 なぜ自分を助けてくれたのか、なぜ生かしてくれるのか、なぜ優しくしてくれるのか。


 ―――なぜ此処には角を生やした者がいないのか。





 体の許容を超えた量の木材を涼しい顔で肩に担いで歩いているフウカを、ジークは口を半開きにしながら目で追う。

 女だからと侮っていたが、よくよく観察すると男並みに筋肉質な肉体だ。


 返り討ちにされたのも納得ができる。

 フウカは素で強い、正々堂々挑んでも勝てないだろう。


「さっきから何を見つめているんだ? 暇なら少しだけ付き合ってくれてもいいんだぞ?」


 ジークの視線に気づいたフウカは嬉しそうに手招きする。

 あまり関わりたくないジークだったが、断ったらなにをされるのか分からないので大人しく近づくことにした。


 案内されたのはフウカが秘密裏に管理している造船所という場所だった。

 まだ完成とは程遠い建造中の大型の船舶を見上げたジークの反応を見て、どのような感想を溢すのかをフウカはワクワクして待つのだが。


「あれは、何だ……?」


 船の建造が禁止されている和の大国で、ジークは実物を見たことがなかった。

 それどころか船という概念を彼は知らないのだ。

 逆にフウカの方が驚かせられることになったが、ジークがまだ少年であることを考慮してじっくり説明することにした。


 船は海を渡るために乗り物で、領内の政務を統括する者たちに悟られないようこの造船場で秘密裏に完成させようとしていること全部。

 フウカの言っていることをジークは全部頭に入れることはできなかったが、なんとなく理解しいたように聞き返す。


「なんで、その船で国の外に出ちゃ駄目なんだよ……?」

「さあな、外国との接触がキッカケで国が変わるかもしれないことを危惧しているだろう。内政やら政策やらにはこれっぽっちも興味はないが、昔から生きている者達にとって今まで築き上げてきたものが変化によって壊されるのは怖いだろうよ」

「だからといって、それで皆を閉じ込めていい理由になるのかよ」

「ああ、お前の言う通りだ。しかし、この国ではそれが何百年も前から当たり前のことで、それに逆らおうとする民草はまずいない。役人に気取られれば命はないからな」


 それっきりジークは押し黙り、フウカが作業を終えるまで造船所の隅っこで考え込むように俯いていた。

 あの少年がどのような目に遭って、どのような環境で育ってきたかはフウカは知らない。


 だからといって訊くつもりは彼女にはなかった。

 誰しも訊かれたくない過去の一つや二つはある、彼女もそうだった。




 日が暮れ始める時間、造船場の隅っこで大人しくしていたはずのジークの姿がなくなっていることに気がついたフウカは、他の三名に悟られないよう洞窟の外を探すことにした。


 特にケンシンに知られると一番煩いので、バレないようにさっさと連れて帰ろうとフウカはジークの気配をたどりながら洞窟の外に出て、少し離れたところにある海崖に登る。

 海の向こう側、地平線を見つめたまま座り込んでいるジークがそこにいた。


「なあフウカ、俺達って自由なのかな……」


 近づいてきたフウカに気づいていたのか、顔を海の方に向けたままジークは彼女に力のない声で尋ねる。

 ジークの方からようやく喋ってくれたことを嬉しく思いながら、フウカは隣によっこいしょと座り込んだ。


「やっと自分を閉じ込めていた地獄から抜け出せたと思っていたのに、外の世界は僕の居たところと一つも変わらない……」

「……」

「僕は生きていてもいいのかな……その先が同じ地獄ならいっそ死んだ方がマシなんじゃないかな?」


 あの場所で兄と一緒に死んでいれば、苦しまずにいられたかもしれない。

 これから先どう生きていけばいいのかジークには思いつかなかった。


 そんな彼に、フウカは憐れみの視線を向ける。

 他人に同情するような目を向けたくなかったが、ジークを知れば知るほど同情せずにはいられなかったのだ。


(子供だというのに……ここまで追い詰められていたのか)


 まだ未来のある子供だというのに、それを自ら手放そうとするほどまで追い詰められているジークの心情を、完璧に汲み取ることができなかったことにフウカは珍しく自分に対して落胆する。


 子供を背中を押すのは大人の役目であり使命なのだ、このまま終わるわけにもいかなかった。


「ならばジーク、我の船に乗れ」

「……は?」

「自由になりたいという志は我々造船所組も一緒だ。そのために一刻も早く船を完成させて、海を渡りたいと思っている」

「だけど、海に出るのは禁止なはずじゃ……」

「死にかけていたお前を拾ったとき、直感だがお前も我々と同じだと感じたんだ。ボロボロになってまで生きようとしていた。口先でいくら死にたいと吐き捨てようとジーク、お前は心のどこかで生きたいと願っているはずだ」

「……」


 波打つ音、風が強くなっていくのをフウカは感じた。

 まるでジークの心情に共鳴するように、彼の中の何かが動こうとしていた。


「地獄から抜け出した先がまた地獄ならば、心の拠り所にたどり着くまで抗い続ければいい。我々も同じだ、古くから守られてきた和の大国の規律から逃れるために自由を夢見て抗い続けている。これから完成させる船はきっと、どんな荒波であろうと我々を海の先まで運んでくれるはずだ」

「海の先……」


 フウカは立ち上がり、いつもの気さくな笑顔をみせながらジークに手を差し伸べる。


「では今一度訊こう。ジーク、いつか完成させる夢の船に、共に乗ってくれるか?」


 そこにはもう、ジークが嫌悪していた笑顔はなかった。


 アマノとは違う、今まで自分を見下してきた人間たちとは違う。

 彼女は本当に、自分を救おうとしてくれていることをジークは間近に感じ取って、堪えきれず涙を零した。


 何の得にもならないというのに、自分に手を差し伸べてくれる。

 そんな彼女の浮かべる笑顔と言葉に嘘と偽りなどなく、どこまでも真っ直ぐだった。


「僕に船の作りからを教えて……ください」


 ジークは慣れない敬語で返し、フウカの差し伸べた手を握りしめた。

 造船所で一日中作業するフウカたちを見て、自分も彼女たちと同じことがしたいと思っていた。


 そして、いつか彼女の役に立てる人間になりたいとジークは心の中で誓うのだった――――

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