炎と虫と刃と

「せ、先輩。あの。えっと」

「話は後だ。じっとしてろ。一歩も動くなよ」

「ひゃい」


 鋭い眼光で私に一瞥をくれた吉根先輩は、地面に座り込んだ状態の私を置いて立ち上がった。

 その、視線の先に――。


「う゛。うぅぅ。ぐぅお。お」


 ふらふらと体を揺らし、髪を振り乱し、目を血走らせた葉山さんがいた。

 体の至る所から黒い煙が立ち上り、彼女を包み込んでいく。

 おかしい。

 何もかもがおかしい。

 一体、彼女はどうしてしまったというのだ。

 

 葉山さんが膝をついて蹲った。

 少なくとも私にはそう見えた。

 しかし――。


「おぎゃぁああ!!」


 彼女は力を溜めていたのだ。こちらに飛び掛かる力を。

 飛び上がる力を。

 一瞬で見上げるほどの高さに達した彼女の体が、そのまま吉根先輩に向かって落ちてくる。明らかに人間業じゃない。

 もう何が何だか分からず呆然とするしかない私の目の前で、


「先輩!?」


 その炎を葉山さんの体が通り抜ける。

 突然炎上して消え失せた先輩に驚愕するも束の間、改めて目の前に肉薄した葉山さんの姿にぞっとした。背筋は曲がり、髪は乱れ、口元から粘っこい涎を垂らし、吐息にすら黒い煙が混じっている。

 その歪められた顔は、確かに捕らえたはずの獲物の感触がないことに困惑していた。


「どうした。こっちだぜ?」


 そんなイケボが、背後から聞こえた。

 振り向けば、少し離れた場所で何事もなく悠然と佇む吉根先輩の姿。

 え? いつの間にそこに??

 それを見た葉山さんが唸り声と共に飛び上がり、再び襲い掛かった。


「残念。こっちだ」


 再び先輩の体が燃え上がり、掻き消える。そしてまた、離れた場所に現れる。


「ほら、こっちにも」

 右から。

「こっちにもいるぜ」

 左から。

「どうした」「ほら」「ほら」

 前から後ろから奥から手前から。

「こっちにも」

「「「こっちにも」」」

「こ」「っ」「ち」「に」「も」


 気づけば、無数の吉根先輩が私たちを取り囲んでいた。

 四方八方から聞こえる低音ボイスに脳が痺れる。

 なにこれ、楽園パライソ

 私、ラリってる?


 突如現れた大量の吉根先輩に、葉山さんが牙を剥き、次々と襲い掛かる。

 しかし、彼女の細腕が触れるや否や、その体はオレンジ色の炎となって掻き消え、直ぐまた別の場所に新たな吉根先輩が現れる。

 その度に、葉山さんの体から立ち上る黒い煙が量を増し、彼女の動きが一層荒々しくなっていった。

 その時――。


「大丈夫、三条さん?」


 私の背後から甘やかな声が聞こえ、耳朶を擽った。

 振り返った目の前に、爽やかなイケメンフェイス。

「しむ――」

「しっ。静かに」

 私の唇に、細くきれいな人差し指が添えられる。


 紫村くん?

 なんでここに?


「動いちゃダメだよ」


 ぞくり。

 また、悪寒がした。


 本能で感じる恐怖に従って視線を地面にやれば、私に向かって、黒々とした靄のようなものが這い寄っていた。

 それは、相変わらず禍々しい叫び声を上げて暴れまわる葉山さんの体から伸び、ゆっくりと鎌首をもたげて私に向かってくる。


「ひ――」

「大丈夫」

 後ずさろうとした私の背中を受け止め、紫村くんが肩越しに手を伸ばした。

 その指先に、ひらひらと、瑠璃色の微光を放つ蝶がとまった。


 そして――。


 きち。

 きち。


 微かな音。

 遠くに聞こえる汚い絶叫が途切れたタイミングで、僅かに耳に届く音。


 ぶん。

 ぶん。


 目の前を横切る小さな影。

 小さな、小さな影。

 飛んでいる。蜂。蜻蛉。金蚊カナブン。蝶。蝉。

 這っている。蟻。百足。蜘蛛。螻蛄おけら

 跳ねている。飛蝗バッタ蟋蟀コオロギ螽斯キリギリス


 いつの間にか現れた大小無数の虫が。

 私を取り囲み、黒い靄の塊を阻んでいた。


「き――」

「大丈夫だってば。じっとしてて。あとちょっと」

「いや無理キモイキモイキモイ」

「キモイとか言わないの」

「無理ぃ!」


 腰が抜けて立てない私が、せめて這ってでもこの場から離れようとするのを、何故か紫村くんが肩を掴んで阻む。

「ほら。もう終わるから」


 そう言って、彼が指差す方を見れば、苦し気に全身を搔きむしり、錯乱する葉山さんの姿があった。あんなに丁寧に作り上げたメイク顔はもう見る影もなく、目は血走り、唇は真っ青だ。

 彼女を取り囲むように、オレンジ色の炎の塊がぐるぐると宙を回っている。


 それを、いつの間にか四人にまで数を減らした(それでも多いが)吉根先輩が四方から囲んでいた。

 彼女の体の黒い煙は、吹きあがり、膨れ、拡散しようともがいているように見える。しかし、それを阻むように炎の塊が舞い、踊り、彼女を苛む。

 

 明滅する光。宙を飛ぶ火。鬼火――人魂だ。


 そして。


 鈍く光る、刃。

 黒づくめの男が。

 上下黒のつなぎに身を包み、表情の見えない顔で、ゆらり、ゆらりと歩いてくる。

 それはまたしても、私のよく知る人物だった。


 ジンさん?


 なんで?


 なんで、刀なんて持ってるの?


 なんで、


 現れた三人目、ただの用務員のはずのオジサンは、葉山さんと全く同じ、いや、段違いの量の黒煙を体中から立ち上らせて、その右手に日本刀を携えていた。

 一歩。一歩。身もだえる葉山さんに近づいていく。

 

 ゆらり。

 その体が揺れ、瞬き一つの合間に、映像のコマが抜け落ちたように、ジンさんの体が葉山さんを追い越していた。

 振り抜かれた刀。

 その軌跡に、赤い血飛沫。


 糸が切れたように、葉山さんが倒れる。


 炎が。

 赤く黒く、血糊をつけた刃を照らす。


 斬った。

 葉山さんを、ジンさんが斬った。

 お腹。血飛沫。赤い。黒い煙。人殺し。燃えてる。炎。虫が。虫が。私の足に、這い寄って……。


 ぽたぽたと、赤い雫を落としながら、ジンさんが近づいてくる。

 いつもの無表情。

 ガラス玉のような瞳が、はっきりと私に向けられていた。


 紫村くん、なんで私の肩を掴んで離そうとしないの?

 吉村先輩、なんで黙ってこっちを見るだけなの?

 怖いよ。

 ねえ。助けて。

 誰か。


 赤い。

 黒い。

 刃が、振りかざされる。


 私の意識が、闇に落ちた。

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