第78話 『ここ』にいる
「それではその、すみません。作戦とは言え、こんなところに閉じ込めて」
「問題がなければ、夜更けには面会にくる。それまで不便をかけるな」
すまなそうな表情で告げ、シルハたちは立ち去っていった。冷たい鉄格子越しに、足音が空しく遠ざかっていく。
なるべく綺麗な場所を選んだとは言われたが、牢の床や壁には黒いシミがついており、何かが腐敗したような臭気が漂っている。『何か』の正体など、想像したくもない。
悪臭をまともに吸い込んでしまい、チャッタは堪らず激しく咳き込んだ。
「さすがに、牢の中はこんなもんだよな」
「ムル、ありがとう。ゴホッ……そうだよね、牢まで清潔で豪華だったら怖いよ」
背中を擦ってくれたムルに礼を言い、チャッタは自身の胸をさする。
彼らが投獄されることになった牢は、王宮の端の地下にあった。目的地に近いと喜んでもいられない。王宮の敷地内にあるだけで、牢と王宮は全く別の建物なのだから。
牢の壁は分厚い土壁で出来ており、肌に触れる空気は、じっとりと湿り気を帯びていて不快である。
「とりあえず、今できることは何もないね。シルハさんたちを信じて、体力を温存しておこうよ」
チャッタがうっかり何かを尻に敷かないよう、慎重に確認しながら腰を下ろす。運悪く頭の上に砂埃が降ってきて、慌てて片手で払い除けた。
見上げると、土壁が少し欠けたところが見える。
「なぁ、罠、じゃないよな? ちょっと心配になってきたんだけど」
「気持ちは分かるけど、ここまで来たら待つしかないよ。幸い両手の拘束は解いてもらったし、何かあったら自力で動けるだろう?」
さすがにチャッタのボウガンは取り上げられたが、元々ムルもアルガンも武器を持って戦う訳ではない。いざとなれば、脱獄も容易いだろう。
拘束の跡をなぞるように、チャッタは手首に触れながら、ふと思う。
「そうだ。心配と言えば、ニョンは元気にしてるかな……?」
あの丸いモコモコとした生物を思い浮かべる。ニョンは当然着いてきたがったのだが、敵の本拠地は危険すぎるとワーフィブの元に預けてきたのだ。
「あー。あの毛玉のことだから、今頃、奇声発して自由に跳ね回ってるだろ?」
「そうだよね……寂しがってないと良いな」
「にょー」
「そうそう。こんな風に――!?」
「チャッタ。背中にニョンが貼り付いてる」
弾かれたように振り返ったチャッタは、時間差で大きな悲鳴を上げた。
ムルの指摘した通り、自分のマントの中から見慣れた毛玉が顔を覗かせているのである。黒胡椒のような瞳が、チャッタの顔をのんきに見つめていた。
「ニョン! いいいい、いつからそこに!? え、まさか、ずっとここまで着いてきてたのか!?」
「ニョンは軽いから、気がつかなかったのかもな」
「いや、いくら軽いからって、背負ってる感覚くらいあるだろ、ちゃんと気づけよ!? 置いてきた意味がないじゃん!?」
あ、とチャッタは少し上を向いて、声を出す。
「僕、いつもは水の蜂の研究資料を背負ってるから……背中に何かあることが当たり前になってたのかも」
「にしたって、色々違いがあるだろ。重量とか熱とか感触とか」
水の蜂の研究資料も今回ワーフィブに預け直してきたのだが、まさかそれがこんな結果を産もうとは。
ニョンはチャッタの背中から飛び降りると、ちゃっかりムルの腕にすり寄っている。
「仕方がない。ニョンはずっとチャッタのそばにいろ」
ムルがニョンを撫でながら、そう言い聞かせている。戦闘する可能性が高いムルの近くにいるよりは、チャッタの方が安全だろう。
ニョンは渋々ながらも、同意するように短く声を発した。
「チャッタ。任せても良いか?」
「そうだね。連れてきちゃったのは僕だし、責任はとるよ」
チャッタは諦めたように嘆息して微笑む。
ニョンのおかげか和やかな空気が漂いかけたその時、三人の体を大きな衝撃が襲った。
何か巨大なものに内側から突き上げられたかのような、一瞬で収まった地震のような。
いや、もっと適切な表現があるような気がする。
「え――」
尻もちをついて、チャッタは服の上から左胸をぎゅっと握る。心臓が早鐘のようになっていた。
そうだ、鼓動。空間全体が一瞬、生物の心臓のように脈打ったのだ。その振動がチャッタたちの体の内側に響いた。
先程のは、そうとしか表現できない衝撃だった。
「なんだ、今の……?」
次がないってことは大丈夫なのか。アルガンが緊張した面持ちで、鉄格子を掴んでいる。
鉄格子を掴む彼の手がほんのり赤く光っているのを見て、チャッタは血相を変えて彼を止める。
「とりあえず落ち着いてよ、アルガン。気のせい、にしては大きな衝撃だったけど、もう少し状況を把握してからでも遅くは」
「――チャッタ、アルガン」
呼ばれた声に振り返ってみれば、ムルの様子がおかしい。俯いて強く拳を握り、辛そうに肩で息をしているのだ。
「ムル⁉︎ どうしたんだ、どこか具合でも悪いのか⁉︎」
慌てて立ち上がったチャッタに、ムルは俯いたままでゆっくりと首を振る。
そして、口を開いた。
「突然だけど、話を聞いてほしい。ずっと、あの人。シルハという人の武器をみた時から、違和感があったんだ。俺は同じような人と戦ったことがあるって」
「へ? なんで、今そんな話」
疑問の言葉を投げかけようとして、チャッタは咄嗟に口を噤む。ムルは話を聞いてほしいと言っていた。ここは黙って彼の話を聞くべきなのだ。
「最初は、あの人自身に会ったことがあるのかと思った。けど、あの人は俺を知らないようだったし、俺もそれは何か違うと思った」
アルガンも開きかけた口をぐっと引き結ぶ。二人は固唾を呑んでムルの言葉を待った。
「それで、あの人の剣の師匠、ワーフィブさんに聞いたんだ。長くて細い長剣を使ったあの武術は元々、素性の分からないある旅人から伝授されたものらしい」
ある旅人。
ムルがゆっくりと顔を上げた。
「それが俺の――父さんだ」
一瞬、何を言ったのか分からず、二人は絶句した。
今、父さんと言ったか。父さん、つまり父親だ。
それは、つまり。
「え、ちょっと。アンタ、父親なんていたのか……?」
「いや、父親はいるだろうけど。え、と言うことは、君がシルハさんの剣術に感じていた既視感は、君のお父さんに繋がるものだったからで――いや、ちょっと、待って。それよりもムル、まさか君……記憶が……」
「こんな状況だけど、二人には全部話す。水の蜂のことも、彼女たちに何があったのかも、俺がした『約束』のことも。俺が思い出したことを、全部」
ムルの口から次々に言葉が飛び出してくる。口を挟む暇もない。
アルガンとチャッタは焦って混乱した。チャッタも考えがまとまらず、両手を所在なさげに彷徨わせる。
全部思い出したって、一体いつから、何がきっかけで。いや、今はそんなことは良い。
強く頭を振って、チャッタは両手を前に突き出しムルの言葉を遮った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ムル! 記憶が戻ったのは、えっと、とりあえず良いとして。それを急に全部話すって、何故そんな、まるで焦っているみたいに」
「――いるんだ。ここに」
胸から絞り出したような声に、チャッタは再び口を閉じる。
アルガンもただ呆然とムルを見つめていた。ムルは何か重大なことを言おうとしている。それだけは、分かった。
緊張で喉が鳴る。
こんな時でも表情を変えないムルの口元を、チャッタたちは一字一句漏らすまいと見つめていた。
「みんながずっと探していた、女王蜂様が
ムルの声は、ほんの僅か震えているように思えた。
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