第76話 前夜

 冷たい外気に頬を撫でられ、チャッタは身を震わせた。息を吐くと、口から煙のような呼気が立ち上り霧散していく。


 砂漠の夜は相変わらず冷えきっている。岩壁に囲まれた夜空は深い藍色をしていた。そこに浮かんだ月は、まだ丸い形を保っている。カンデウでの戦いは遠い昔のことのように思えるが、ほんの数日前の出来事なのだ。


 マントの裾を掴む指先に力込めた時、チャッタの耳が何か鈍い音を拾う。音が聞こえる方向、背の倍ほどある岩の向こう側を覗くと、探していた二人の姿を見つけた。


「おらぁっ!」

 アルガンが叫び声と共に拳を突き出すと、ムルがそれを下から救い上げるようにして払う。そのままムルが右手を前に突き出すと、アルガンが後ろに跳躍して距離をとる。そして再びアルガンが、左右の拳を順にムルに向けて振るう。

 何事かと思ったが、組み手というか手合わせのようなものをしているようだ。


 気心知れた相手とのやり取りだからか、アルガンの表情は生き生きとしていて明るい。ムルもどことなく楽しげだ。

 息の合った二人の動きは躍りのように軽やかで、チャッタの唇から感嘆のため息が漏れる。

 ふと、ムルが視線をこちらへ向けた。


「うわっ⁉ 突然止まるなよ、危ないだろ――あ」

 慌てて片足を踏ん張り、体の動きを止めたアルガンがこちらを振り返った。途端、何故か不自然に視線を逸らされる。

 なんだろうその反応は。チャッタは不思議に思って目をしばたたかせる。


「チャッタ。起きたのか」

「うん。僕もなんだか眠れなくてね。二人も眠れなくて外に出てるって聞いたから、僕も出てきたんだ」

 そうかとムルが頷くと、近くの岩の影からニョンがひょっこりと顔を出す。まるで自分もここにいると主張しているようだ。

 図らずも全員集合になってしまい、チャッタは眉を下げて口元を緩める。


「二人はえっと……」

「俺の感覚を取り戻すため、付き合ってもらっていたんだ。ずっと眠っていたからな。それに、軽く体を動かした方が、気も紛れてよく眠れるのではないかと」

 アルガンが。ムルがそう言って視線をアルガンへ向ける。一呼吸ほど遅れて、彼は顔を上げ曖昧に頷いた。

 どうも様子がおかしい。ムルも怪訝に思ったのか、僅かに首を傾げる。


「アルガン疲れたのか? もう、寝るか?」

「いや、そういう訳じゃ、なくて」

 アルガンは俯きがちにチャッタの顔に視線を送っては、言葉を濁している。暗くてよく見えないが、どうも顔色がいつもと違うようだ。

 状況が分からず、なんだか腹正しい気持ちになってきた。チャッタは眉を潜めながらアルガンに問う。


「僕に、何かあるんでしょ? アルガン。何か後ろめたいこと? それとも僕が何かしちゃった?」

「違う。チャッタは何もしてない! えっと」

 彼にしてはやけに頼りない声で、観念したようにポツリと告げた。

「ワーフィブのじいちゃんに、聞いちゃったんだよ。チャッタが、じいちゃんの集落を『説得』しに行ってくれてた時のこと」


「説得してた時、って」

 火がついたように、チャッタの頬が真っ赤に染まる。

 嘘だろう、聞いてしまったのか。忙しなく視線を彷徨わせた後、チャッタは思わず両手で顔を覆う。

 ここまで照れる必要はないのだが、アルガンの様子に釣られて居たたまれない気持ちになってきてしまう。

 穴があったら入りたい。いっそ遺跡に戻ってしまおうか。


 チャッタたちの様子に、ムルは不思議そうに瞬きをする。ややあって、低く平らになっている岩の上を一瞥した。


「二人とも、座ってちゃんと話したほうが良い」

「嘘だろ⁉」

「え、話すの⁉」

「何があったのか、俺も知りたい」

 結局、抵抗などできぬままムルに手を引かれ、二人は並んで岩の上に腰を下ろす。ムルもチャッタの隣に腰を下ろし、ニョンを膝の上に抱え込んだ。


 周囲が静寂に包まれる。時に夜風が岩の間を吹きぬけ、口笛のような音色を響かせた。

 アルガンとチャッタの距離は、拳一つ分ほど。間近で見たアルガンの頬は赤く染まっている。覚悟を決めるように喉を鳴らすと、チャッタは口を開いた。


「ワーフィブさんに聞いたことって……僕が集落を説得に回っていた時の話、だよね、多分」

 それに対して頷くと、アルガンは俯いたまま話を始めた。


 チャッタがリムガイたちの目的に気づいて、人々を守るため必死で駆け抜けたあの夜。

 当然、すんなり『説得』に応じてくれる集落などなかった。誰もが訝しがり、予測だけで集落を離れることなどできないと断られ、時に怒りをぶつけられる。

 それでも綱渡りのような交渉を続けて、一つ一つの集落を説得して回った。永遠に明けないのではないかと錯覚させるほど長い夜。

 そして最後にたどり着いたのが、ワーフィブたちの住む集落だったのである。


「じいちゃんの集落はリペに近い分情報が早くて、チャッタたちの手配書も回ってたんだってな。罪人の言うことなんて信じられない。それよりも早く兵士に突き出そうって」

「……そんな感じだったかな」

 あの時の光景がよみがえり、チャッタの声が少し震えた。


 突き刺さる人々の悪意ある眼差し、罵詈雑言と飛んできた石。あの時はよく負けじと立っていられたものだと、他人事のように思う。

 それでも必死で言葉を交わす内、どういう流れだったかはもう覚えていないが、チャッタの命と引き換えに条件を呑んでやろうという話になった。


「それでアンタが出した代わりの条件が、水の蜂の記録を差し出すことだったんだろ? 当然、集落の人は怒って受け入れてくれなかったけど、じいちゃんが理由を尋ねてくれて」

 そうだった。人々の輪を割ってワーフィブが近づいてきて、こう告げたのだ。


『他の集落の人々は、もう避難したと言っておったな? だったら、事が済むまでワシらと行動を共にしてもらうと言うのはどうじゃ? 血気盛んな若者はおるが、少なくともワシは無抵抗の人間を殺したりはせぬよ。いくら罪人だと言われていようともな』

『――どうしても、行かなければならない所があるんです。だから、それもできません』


 きっぱりと言い切った自分に、ワーフィブは怪訝そうに眉を潜めた。しかし、垂れ下がった瞼から見える瞳は冷静で、公正さが伺える。

 だからこそ、ここで言うはずのなかった本音が、チャッタの口からこぼれ出た。


『大切な友人の手を離してしまったんです。僕が弱かったから、彼を危険な場所に一人で行かせてしまった。だから僕は彼を追いかけて追いついて……もう一度、彼の手を握ってあげたいんです』

『大切な、友人じゃと……?』

 拳を強く握って、顔を上げた。チャッタを睨みつけていた人々が、怖じ気づいたように後ずさる。


『彼は優しい子で、人を傷つけたり人から何かを奪ってしまうことを恐れています。だから今回のことで、あなた方の命も僕自身の命も、何一つ失うことがあってはならないんです!』

 そうなったら、アルガンの心は今度こそ壊れてしまうから。


 目じりに熱が集まっていく。胸の奥が詰まって今にも泣き出してしまいそうだ。張りつく喉を剥がして、チャッタは言葉を絞り出す。

『僕に力はありません。だけど僕にできるやり方で、彼を守ってあげたいんです……!』


 しばらく誰一人声を発しなかった。説明とはとても言えない、勢い任せのチャッタの言葉だけで、状況が伝わったわけが無い。

 しかし頬を柔らかく緩ませ、ワーフィブはチャッタに近づいてきた。

 そして水の蜂の記録をチャッタから受け取ると、それに目を通し始めたのである。


『おお、これは――若いのに、よくここまで……』

『他の方には、ただの紙の束でしょう。けれど、この水の蜂の記録は僕の半生そのものです。然るべき人の元へ持っていけば、重宝されると思います。もちろん、全て捨てて燃やしたって構いません』


 今までが全て灰になったとしても、もう一度集め直したら良い。

 チャッタは口の端を持ち上げて、得意げに笑う。

『こう見えて、根性はある方なんですよ』

 耐えきれないとでも言うように、ワーフィブは豪快に笑い集落の人々に声をかけたのだった。


「あー、あの時は必死だったから、ちょっと調子よく喋りすぎちゃったというか……。ああ、でも、ちゃんと本心だからね!」

 平静を取り戻したチャッタがそう言うと、分かってるよ、とアルガンは頷く。


「俺、そんな風に言ってもらってたなんて、全然知らなかったから。改めて……その、巻き込んで悪かったなって。王都へ行くことになったのも、俺の事情じゃん? 危険を冒してまで、付き合ってもらわなくてもいいんじゃないかって」

「アルガン」

 チャッタは思わず彼の手首を掴んで、その深紅の瞳を覗き込んだ。


「僕もムルも最後まで付き合うって決めてるんだから、もう何も言わないでよ。それに王都なんて一生の間に行けるかどうか分からない場所なんだから、ちょっと危険な観光旅行って感じに」

「観光は無理があると思う」

 すかさずアルガンに口を挟まれ、チャッタはやっぱりかと苦笑する。しかし、アルガンの表情はいくらか柔らかくなっていた。


「分かった。もう何も言わない」

 彼はやんわりとチャッタの手を離し、夜空を仰いだ。釣られてチャッタとムルも星空を見上げる。

 随分と遠くに来てしまった気がしていたけれど、薄い黄金色の満月や宝玉のような星屑は、どこにいても変わらずチャッタたちの頭上にあった。


「なんかさ。もちろん、アブルアズことは絶対に止めなきゃならないし、俺のやったことを忘れる気もないんだけど……。今はそれだけじゃなくって」

 アルガンが星空を見上げたままで呟いた。


「俺、ムルやチャッタから、十分過ぎるくらいたくさんのものをもらったから、ちゃんと返したいんだ。だからチャッタの言う通り、もしも王都で『水の蜂』が苦しんでいるなら絶対に助けたい。そのことで俺の力が役立つならって思うんだ」

 そしてこちらを見て、照れくさそうに微笑んだ。


 なんだか堪らなくなって、チャッタはついアルガンの頭へ手を伸ばす。

 触れて撫でた髪の毛は、なるほどムルが気に入るのが分かるくらい艶やかで触り心地が良かった。


「なるほど。これが噂のとぅるとぅるか」

「良いだろ?」

「――なんで、そんな話になったんだよ⁉ ムルもなんで得意気なんだよ、何の自慢だ⁉」

 チャッタの手を叩き落とし、アルガンが顔を真っ赤にして叫ぶ。怒っているのか照れているのか判別のしにくい表情である。


「ごめん。つい……」

 謝罪の言葉を口にしたチャッタは、指で頬をかく。さて、いよいよ明日は王都だ。何があるのかどんなことが起こるのかは分からないが、きっと二人となら大丈夫。そんな確信めいた想いが胸を満たして、チャッタは笑みを浮かべた。


「頑張ろうね。きっと上手く行くよ」

「そうだな!」

「にょにょ!」

 ムルの代わりとばかり、ニョンがその場で跳ねながら声を発する。遅れて首肯したムルがなんだか可笑しくて、チャッタとアルガンは思わず噴き出してしまった。




 二人分の寝息が聞こえる小部屋の中で、ムルは仰向けに寝転がり天上を見つめていた。皆で遺跡に戻った後も、彼だけは眠れなかったのである。

 彼は視線を横に移し、チャッタ越しにアルガンを見つめる。ふと、アルガンの姿が、ダブって見えた。


 あの時、彼の周囲は凄まじい業火が渦を巻いていて、それでいて彼の表情は驚くほど冷え切っていた。

 しかし、ムルの目には何故か、『彼は泣いているのだ』と感じられたのである。ムルは何時間もかけて彼と戦い、僅かな隙をついて針を刺し辛勝した。


 ムルは寝床から上半身を起こし、改めてアルガンの寝顔を見下ろす。規則正しい寝息は何の苦痛も感じられず、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいた。

 こんな時だが、良い夢でも見ているのだろうか。


 初めて会った時から、違和感はあったのだ。凄惨さ故か断片的な戦場の記憶。そこで対峙した炎の魔術を操る少年。

 ただの人間が長い時を生きられるわけもない。アレが本当にアルガンの記憶だと知った時、ムルは内心酷く驚いたものだった。


「アルガンが今、泣いてなくて良かった」

 ため息のように声を零す。

 アルガンが思い出すことはないだろうが、それで良い。王都へ行って元凶と決着をつけたら、今度こそ自由に幸せに生きて欲しいと思う。

 勿論、チャッタにも。


「にょ」

 起きてしまったのか、ニョンがムルの膝に飛び乗ってくる。その手触りの良い柔らかな体毛を撫でながら、ムルは祈るように目を伏せた。


 を告げた時、二人に何を言われ、何を思われるだろう。きっと酷く驚かれる。避けられたり気まずくなったりしないと良い。二人とはずっと、これまでと同じ関係性でいたいから。


 ムルはニョンを撫でる手を止め、自分の左胸に手を当てる。じんわりと伝わってくる熱を感じながら、微かな声を発した。

「俺もちゃんと話さないとな」

 ずっと黙っていることなどできない。必ず二人に話さなければ。


 自分が思い出した、のことを。

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