迷い子

 ――ある時、ニャーンは一人の少年を助けた。十歳くらいの黒髪の男児で薄汚れた格好。目には全く生気が無い。

「大丈夫?」

「……」

 崖下を見下ろしながら彼は一言も発しない。怪塵を通して伝わって来る感情は悲しみ。けれども、それすら酷く希薄。

 何もかもを諦めてしまっている。だから誰か大切な人が乗っていたかもしれない崖下に転落した馬車を見つめていても心はほとんど揺れていない。

(キュート、この子って……)

【察するに奴隷だと思われます。崖下の犠牲者達の大半も同様の服装の者達ですね】

『奴隷商が奴隷達を運んでいて事故を起こしたってところでしょ』

 プラスタもキュートを通じて共有された情報を基に推察する。この惑星の人々は自分達の母星の人間と姿が酷似していて文化も似通っている。だから想像に難くない。彼女とニャーンの生まれた時代には廃されていたが、過去には母星にも奴隷制度が存在した。

 これまでの旅でもそういう仕組みは何度も目にしてきた。人は時に自分より弱い者達を守ろうとせず虐げる。そうなるまでの過程に様々な事情があるならまだマシで、なんの意味も無くそういう行為を実行してしまう者達もいる。


 ニャーンは一瞬、躊躇った。どういうわけか一人だけ転落を免れて崖っぷちにしがみついていた彼を助けるべきかどうか、ほんの一秒足らずとはいえ迷ってしまった。

 そんな自分を恥じながら、もう一度声をかける。


「帰る家はある?」

「……」

 少年は答えない。キュートが翻訳してくれているから言葉は通じているはず。けれど何一つ返事をしない。

 ニャーンは指先から白い小鳥を生み出した。流石に驚いた少年の目が見開かれる。彼の心が完全に死んでいるわけではないと確認して安心しながら小鳥の方に告げた。

「見ていてあげて」

【はい】

『まったく、お人好しなんだから』

 そして彼女は翼を広げ、崖下に降りていく。不幸な事故で命を落とした人々を弔うために。その行動には、今度は一切の躊躇が無かった。




 怪塵で山の斜面を少し削り、そこに死者達を順に埋葬していく。そんな彼女の行為を黒髪の少年は黙って見つめ続けていた。

 が、彼と良く似た顔立ちの女性の亡骸の番になると、いつの間にかどこからか摘んで来ていた花を彼女の胸の上に置く。

「お母さん?」

「ねえちゃん」

「そっか……綺麗な人だね」

「うん」

 少年は悲しんでいる。けれど、同時にホッとしてもいる。

 ニャーンはユニに見せられた悪夢を思い出した。自分もあれらいくつかの夢の中で奴隷にされて酷い扱いを受けた。

 夢ですら思い出すといまだに辛い。現実で同じ運命を辿った彼女や他の奴隷達の苦しみは想像もつかない。 

 だからではないか? 彼はきっと、姉がこれ以上苦しむ必要が無くなったことに安堵したのだ。

 悲しい話なのにニャーンにはどうしてやることもできない。以前、同じような状況で大きな失敗を経験している。虐げられていた人々を解放して、結果的には星一つの文明を死に追いやった。


 神は、人の営みに直接干渉してはならない。


 今ならオクノケセラの命を奪ったそのルールの必要性が理解できる。神々の持つ大きな力は人にとって救いをもたらすとは限らないのだ。たとえそのつもりで使ったとしても、ほんの少し匙加減を間違えただけで逆の結果を招いてしまう。

 アルトゥール達が慎重になるのも当然。自分達の持つこの力もまた、使い方を間違えれば多くの命を奪ってしまう。一歩踏み間違えただけで、かつてのユニのような宇宙を脅かす猛毒へと変じてしまいかねない。そんな危険性を秘めている。


(でも、私はそれでも皆に干渉し続けなければならない……人の生み出す悪意を祓うこと、それが私に望まれている使命だから)


 なのに彼女は今また迷いを抱いている。本当にそんなことが可能なのかと。かつて自身が実際に起こした奇跡にさえ疑念を抱く。

 奇跡とは簡単に起こらないからこその奇跡。そういうものを自分は当たり前の事象にしなければならない。

 この身に可能なことかと彼女は問いかけ続ける。

 長い長い迷い道を歩みながら。




 その夜、彼女はいくつもの墓を作った事故現場に留まって少年と寄り添いながら眠った。山の夜は冷える。火は起こしたけれど、それだけで凍えるような夜気から身を守れるはずもない。

 幸い彼女には怪塵がある。毛布を再現して自分と少年をまとめて一枚のそれで包んだ。目に見えない粒子が振動して熱を発生させているため、とても暖かい。

 凄惨な事故の後だから、少年はやはりなかなか眠れずにいる。しばらく無言で過ごした後、彼の方から話しかけてきた。

「おねえさんは天使?」

「ううん」

「なら、魔法使い?」

「怪塵使い、って言ってもわからないよね。私はこの白い砂みたいなものを操ることができるの」

「こんなの、はじめて見た……」

「この星には無いものだからね」

「星……?」

 どうやらこの惑星の人々にはまだ自分達の暮らす大地が宇宙に浮かぶ星々の一つだという知識が無いらしい。

 ニャーンはプラスタとキュートの知恵も借りながら色々と説明してやった。自分達が暮らす世界は果てしなく広い宇宙の一部で、大地とはその宇宙に漂う星の一つであり、他の星々にも多くの命と社会が存在すること。自分は、そのうちの一つからやって来た旅人だということ。

 彼が信じたかはわからない。ただ黙って熱心に話を聞き続けていた。

 そしてやがて話を聞きながら眠ってしまった。


 気付いたニャーンは語るのをやめ、一人でまた星空を見上げる。

 彼が少しだけアイムに似ているからだろうか、かつてビサックの小屋やワンガニ、それ以外にも様々な場所で見上げた夜空とそれに付随する思い出が次々に蘇って来た。

 視界が涙で滲み、そして雫が一つ頬を伝って零れ落ちる。

 その雫が少年の頭に落ちて、目を覚まさせてしまった。


「……泣いてるの? どうして?」

「皆を待たせているの。大切な約束をして旅立ったのに、まだそれを果たせていない」

 答えると、少年は手を伸ばして指先でそっと涙を拭ってくれた。

「泣かないで。ぼくもがんばるから」

「えっ……?」

「ねえちゃんと約束したんだ。何があっても生きるって。どんな辛い目にあったって、それだけは絶対にあきらめない。ぼくは約束を守る」


 瞬間、ニャーンは気付く。自分は思い上がっていたのだと。


「……そうだね」

 いつの間にか遥かな高みから見下ろしているつもりでいた。神である自分が彼を助け、守るのが当然のことだと。

 けれど実際には違った。今、彼女はまだ幼い少年の一言に励まされた。助けられたのだ彼の姉に対する想いと自分に向けられた優しさに。

 所詮そんなもの。神様になったって、自分は結局その程度の存在。

 誰も彼もを救い、守ろうとするなんておこがましい。


【それでいいのですか?】

『いいと思うわ』


 彼女の二人の同行者の意見は相反している。けれどニャーンは答えを決めた。少年の言葉により身の程を知って、だからこそできることがあると気が付いた。これならきっと――


「ありがとう」

 空ではなく少年の顔を見て微笑む。彼女を見上げる彼の瞳の中にも星は輝いていた。この煌めきを忘れることも絶対に無い。

 少年はまた安堵しながら頭を振る。目の前の少女に姉の面影を重ね見つつ同じ言葉を返す。

「こっちこそ、ありがとう」

 命を救い、大切な姉を埋葬して、そして一緒にいてくれる。

 本当に心からの感謝を彼女に向けて捧げた。

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