影より出でる(2)
「……ふざ、けるな」
悔し涙が零れる。とうとう、これまでずっと抑え込んでいた感情が堰を切って溢れ出した。雨の聖者マリスは、あの光を目の当たりにしながらまだ自分の胸に顔を埋めて泣きじゃくっているだけ。母親に縋りつく幼子のように。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。怒りがこみ上げる。お前はもう子供ではない。何度この身体を抱いた? 性欲のはけ口に使った? 他人の名を呼び、ミューリスという存在を無視して己の自我を保つための道具として弄びながら。
顔を隠す漆黒の布、教主の証のそれを脱ぎ捨て、床に叩きつけてやる。
「私を見ろ!」
「ヒッ!? ど、どうしたのミゼル?」
「誰がミゼルだ! いいかげんにしろ! 私はミューリスでミゼルじゃない! ミゼルなんて女はどこにもいない! とっくの昔に土に還った! 現実を見ろ! 私を認識しろ!」
肩を掴んで言い聞かせる。怯えて逃げようとしても逃がさない。今度こそ、このクソ女に真実を思い知らせてやる。
「私はお前が嫌いだ! 何度殺してやろうと思ったかわからない! でも、お前がいなきゃ大勢が死ぬんだ! だから皆、お前を利用するために、都合の良い道具として扱うために私のことも利用したんだ! うんざりなんだよ、そんなの! 私は二度とお前なんかに抱かれてやらない! 誰が死のうと知ったことか! 私は私だ! ミューリス・アレスだ!」
感情が昂りすぎて自分でも何を言っているのかよくわからない。この女に本当の自分を認めさせたいのか、それとも外で怪物に襲われている人々を助けたいのか、あるいはマリスを怒らせ殺して欲しいのか。
きっと、その全部だ。全部だけれど、どれか一つでいい。一つでいいから叶えてくれ。今までの恩を返せ。散々慰めてやっただろう、その借りを今ここで返せ。
「選べよマリス! 私に逃げられたくなきゃ怪物共を駆逐してみせろ! それが無理ならさっさと死んでしまえ! お前なんか私はいらない! 見ているだけで吐き気がする! 役に立てないなら消えてくれ! 頼むから! さっさといなくなってしまえ!」
ありったけの本音をぶつけて、そして途中から伏せていた顔を持ち上げる。反応を窺う。
マリスは泣いていた。ただ静かにミューリスの顔を見つめて涙を流す。
しばらくして、大聖堂の中からも悲鳴が上がり始めた頃、ぽつりと告白した。
「ごめんなさい……知っていたの……」
「は?」
「あなたは、ミゼルじゃない……前のミゼルも、その前のミゼルも……みんな、別の人よ。だって人間がこんなに長く生きられるはずがないもの。私みたいに、精霊と同化でもしない限りは」
マリスは知っていた。自分が利用されていることも、そのためにミゼルに似た娘があてがわれていることも。
知っていて、自分もその歪な慣習を利用し続けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……あなたを、あなた達を傷付けた……みんな、みんな大好きな人たちだったの。本当に、本当に大切で、愛おしくて……」
こんな自分を愛してくれるのは、偽りだとしても、そのフリをしてくれるのは彼女達だけだった。だから手放したくなかった、今の立場を。
ミゼルの面影を残す少女達と共に生きられる幸せを。
「ごめん……なさい……」
「……」
三百年以上の時を経て告げられた真実にミューリスの絶望はさらに深まる。もはや呆れて言葉も出ない。
知ってた? 知ってて騙し続けた?
自分達が彼女に対して行っていると思っていたことを、本当はこっちがやられ続けていた。滑稽にも程がある。
「なんのために……私も、母さんも……」
許せない。自分の欲望のために代々の『ミゼル』を欺き続けて来たこの女だけは絶対に。
マリスを力一杯突き飛ばす。そして素早く剣を拾った。もう怪物共がすぐそこにまで迫っている。きっと自分は死ぬだろう。けれど、その前にこの女を殺す。この女の命だけは他の誰にも譲らない。それを奪うのは自分達『ミゼル』の権利だ。
「死ね!」
「い、いやあああああああああああああああああああああっ!」
マリスの顔は恐怖と絶望に歪んだ。死に対する恐怖と愛する者からの拒絶。その両方が彼女の中にあったタガを外してしまう。
突如の轟音。世界そのものが押し潰されてしまいそうな圧力。驚いて天井を見上げたミューリスに対し、一瞬で崩壊したそれの瓦礫と大量の水が襲いかかって来る。
雨だ。これまでの豪雨ですら比較にならない人知を超えた量の水滴が一気に降り注ぎ、その勢いを弱めることなく聖都全体を押し潰そうとしている。雨というより、もはや海が落ちて来たと表現する方が相応しい。
あっという間に街全体が洪水に飲み込まれ、人も動物も怪物ですらも圧倒的な勢いの濁流に押し流されて藻屑となる。
(死ぬんだ、私)
ミューリスは確信した。けれど強い力で引っ張られて水面から顔を出す。まさかマリスの手かと思ったが、そうではなかった。
「大丈夫ですか!?」
見知らぬ男だ。防壁の上にいて、たまたま近くへ流されて来たミューリスを見つけ助けてくれたらしい。
大聖堂の中にいたのに、いつの間にか聖都の端まで流されてしまっている。防壁で囲まれた街は今や完全に水槽と化していた。膨大な水は街から外へ溢れ出し、ここにいる自分達もまだ安全とは言えない。住民はほとんど死んだだろう。自分達以外に生き残りがいるかさえ不明。
怪物達はどうなった? この激流によって引き裂かれバラバラになったのか、それとも次の瞬間にも水中から飛び出してきて自分達を殺すのか。
「雨が強い! あっちに小屋がある! 屋根の下へ!」
青年はミューリスを強引に立たせ、防壁の上にある小屋の中へ避難させた。中では鳩がたくさん飼われている。突然侵入して来た人間に怯える様子は全く無い。人に慣れている。遠方との連絡用の伝書鳩だろう。
いつ潰されるかもわからない。あまりに貧相で頼りないその小屋の中で震えていると、遠くから獣の咆哮のような声が聞こえて来た。長く切なく響くそれに青年はいっそう怯える。
「な、なんだ、あの声……」
「泣いているのよ」
ミューリスはぽつりとそう答えたが、それ以上は何も言わなかった。雨は今なお降り続いている。あの女の涙が止まるまで、きっと止むことはない。だからといって、わざわざ捜して慰めることはもうしない。
自分はミゼルではないのだ。今度こそミューリスとしての人生を取り戻す。二度とあの女の元になど戻るものか。
さよならマリス。心の中でだけ別れを告げた。自分の正体に気付いていないらしい青年に悟られたくはない。これまで顔を隠してきたことが幸いした。
さっきから彼は彼女の肩を抱いている。出会ったばかりで気安いけれど、このままでは二人とも凍えてしまうから許してやろう。もしこの状況から生き延びられたなら彼のような男性が傍にいてくれるのは心強くもある。
地獄のような光景から目を逸らし、白い光が駆け上がって行った夜空を再び見つめる。背教者と呪われた娘、そのどちらも今はあの場所にいるはずだ。
「世界を救って……」
運良く生き延びたのだから早々にこの自由を終わらせて欲しくない。ミューリスは肩に置かれた男の手に自分の手の平を重ね、ぬくもりを感じながら願った。本心から勝利を願う。
聖者の泣き声が彼方から響き、雨は降り続け、夜空に輝く光はもうここからでは見えない。だとしてもきっと、ここはもう影の中ではない。
ミューリスは今たしかに、自分の人生に転機が訪れたのだと確信していた。
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