光と影
「きょ、教主様!」
暗い紺色の法衣を着た老人が駆け寄って来る。巨大な女神像の前に跪き、祈りを捧げていた彼女は静かに立ち上がりながら振り返った。
黒いドレスで身を包み、やはり漆黒の布で顔の大半を隠した女。十年前に教会の頂点に立った当代の教主である。名はミューリス。
陽母教会の長は代々女性と決まっている。象徴が女神だからだ。その代弁者たる教主は彼女が地上に落とした影。女以外には務められない。
「何事です、騒々しい」
怜悧な声。張りはあるが抑揚に乏しく、若くも老いているようにも聞こえる。
教会の第三位──男としては最高の地位まで上り詰めたクラナガン大司教は、この世の終わりでも訪れたかのような形相で報告する。
「アイム・ユニティが! あの獣が聖都に現れました! 教主様に用があると言って面会を求めております! し、しかも……」
「しかも?」
「例の……『呪われた娘』を伴っています。噂に聞いた通り、後見になったと……」
「なるほど」
いつかは訪れると思っていた。
堂々と正面から乗り込んでくるのも彼らしい。
「通しなさい」
「は?」
「会います。二人とも私の部屋へ」
「お会いになると? アイム・ユニティですぞ、あの神をも畏れぬ痴れ者。まして教主様の私室でなど……」
「護衛もいりません。どのみち、彼等が本気になれば聖都など一瞬で壊滅します。相手が敵意を示さない限り、こちらも交戦の意を見せてはなりません」
「なるほど……」
そのためにあえて友好的に接すると思ってくれたようだ。まあ、実際に半分程度は本音である。
「では、そのように」
「ええ、お願い」
クラナガン大司教は来た時のように急ぎ足で出て行く。この最奥の祈りの間まで入れるのは大司教以上の階位にある者だけ。つまり三人。だから彼が伝えに来たのだ。
残りの一人は、何も出来やしない。
あれはすでに壊れている。
「それにしても……」
顔を隠す布の下でふと笑うミューリス。
まさか、自分が生きているうちにあの男がまた訊ねて来るとは。怪塵使いの少女の出現といい、今はそういう時節なのかもしれない。
女神像を見上げる。向こうはこちらを見下ろしている。
そう、見下している。神の目からは地上に生きる者達など虫けらでしかあるまい。
歴代の教主や信徒は、己を彼女の影の一部とみなすことで虫けらよりはマシな存在だと言い聞かせ自尊心を満たして来た。
つまらぬ見栄。
「ニャーン・アクラタカか……」
一度会ってみたかった。なにせ彼女は羽ばたいた。己をただの影と思わず、翼を広げて、より広い世界を目指し。
羨ましく、妬ましい。
「こちらへ」
尼僧に案内されて歩き出すアイムとニャーン。ニャーンは前を行く年配の女性と同じ服、つまり僧服に着替えてある。やはり聖都を訪れるなら、この格好でないと失礼だと思ったからだ。今も彼女の信仰心は健在。だから緊張もしている。
「ビクビクするな、しゃきっとせい」
怒られた。
「そう言われても……」
さっきだって生きた心地がしなかった。第六大陸に上陸した途端、アイムは巨狼の姿のままいきなり聖都へ乗り込んだのだ。そして人の姿に戻った彼とニャーンは、あっという間に僧兵達に包囲される羽目に。
千人以上いたと思う。全員が殺気立っていて手に持った槍の穂先をこちらに向けて来た。怪物とはまた異なる殺意の集中。吐き気まで催したもののどうにか堪えた。僧服は二度と汚したくない。
「今のお主なら、あの程度の数どうということもない。無傷で無力化できるじゃろ」
「できますけど……」
怪塵の翼で身を守り、その間に壁を作って閉じ込める。雨によって怪塵が洗い流されるとはいえ、雨自体にも怪塵は含まれる。だからここ聖都でも彼女の武器は豊富だ。そこら中に怪塵の存在を感じる。
(流れがずっとあるから怪物化しないだけで、実はすごく危ないところなのかも……)
テアドラスの時のように地下にも怪塵の結晶ができているに違いない。もしも許されるならこの機に一掃しておきたい。
廊下を進むと、いくつものガラス窓の前を通った。こんなにたくさんガラスが使われているなんて流石は教会の中枢。一枚だけで庶民なら十日は暮らせる。
外はずっと雨。相変わらずの天気。昨日今日から続いているという話ではなく、何年も前からほとんど雨ばかりなのだ。それが第六大陸。
雨を降らせる能力者がいて、彼女が怪物の発生を抑止すべく力を行使している。だから怪物の発生率はとても低い。
「教主様、連行しました」
「えっ?」
連行。案内だと思っていたが、尼僧の認識は違ったらしい。ニャーンが驚いている間に中から『お通しして』という声が返り、扉が開けられる。ニャーンの緊張は極限に達した。
「きょ、教主様……!」
まさか辺境の修道院にいた自分が教会の長と対面する日が来ようとは。いったいどんな人なのだろう? 女性だということしか知らない。
中に入ると、そこは予想通り荘厳に飾り立てられた部屋。しかも広い。この一室だけで街の聖堂の役割を果たせそう。
「ふわあ……」
見惚れていると視界の隅で黒いものが動いた。びくっと肩を震わせ、そちらに目をやる。黒い……影?
「ようこそ、信仰を持たぬ者アイム・ユニティ。そして呪われた子ニャーン・アクラタカ。私が当代の教主ミューリス・セッツァー。どうぞ、おかけになって」
そう言って彼女は白い大理石のテーブルを示した。
「やはり、その用件ですか」
木組みに柔らかいクッションを被せた椅子。先に座らせた二人の前へ手ずから入れた茶を置き、トレーを片付けてからミューリスもようやく腰を下ろす。
顔は布で隠されている。けれど細い隙間から覗く瞳は水色。綺麗に結い上げられた髪は老いたためか元からそうなのか白色である。
すぐに地の色だとわかった。ミューリスが顔の布を外したから。
「あ、あれっ?」
驚くニャーンを見て艶然と微笑む彼女。予想よりずっと若く美しい。二十代から三十代の半ばほどだと思う。
「私は影。たしかにこれは人前では外さないしきたり。ですが、もちろん時と場合によります。飲食には邪魔になるでしょう?」
「あ、なるほど……」
よく考えたらそれもそうだと納得。そして淹れてもらったお茶に手を付けると、ふわりと優しい香りがした。どこかで嗅いだ記憶がある。
「この匂い、第一大陸の茶か」
「流石ですね」
「あっ」
そうだ、ワンガニで飲んだお茶だ。グレンとの決闘の後、街の人にご馳走してもらった。
「この大陸では高級品じゃな。相変わらず儲かっとるようで何より」
「貴方の嫌味も変わらず洗練されていませんね。千年生きた割には稚拙」
「それこそ直截にすぎるわ」
アイムとミューリスの間には、ずっと険悪な空気が漂っている。いつものようにやはり知り合いらしい。
「フン、教主か……あの時のチビがな……」
「予測はできたでしょう? 私は母に似ているので……」
「まあな」
「あっ」
二人の会話で思い出す。数年前に修道院で聞いた覚えがあった、当代の教主様は先々代の教主の娘だと。
(あれ? 先々代? 先代じゃなくて?)
今さらながらに違和感を抱く。ミューリスはまだ若い。つまり、先々代は高齢になってから子を生んだということだろうか?
気になる。でも複雑な家庭の事情があるのかもしれない。初対面でいきなりそんな不躾な質問をしては怒らせるだろう。モヤモヤしながら黙り込むニャーン。その間にも二人の対話は続く。
「で? そろそろ返事をくれんかの、こやつの処遇をどうする?」
「それは無論、破門です」
「えっ!?」
あっさりとニャーンは僧籍を剥奪されてしまった。
「当然でしょう、怪塵を操る娘を身内に抱えていては信徒達に示しがつきません。ましてアイム・ユニティが後見とあらば、なおさらに」
「あうう……」
ぐうの音も出ない正論。悲し気な少女を見て教主は目を細めた。
「おかしな子ですね、教会が好きなの?」
「も、もちろんです」
それこそ不思議な質問をされ首を傾げる。相手が教主なのでなおさらに。
「こやつには信仰心など無い」
「へ?」
アイムからも意外な言葉。ついには目を点にしてしまう。
ミューリスは否定しなかった。自分で淹れた茶の優しい香りのみ味わいつつ自嘲気味に笑う。
「その通りですが、教主として責務を全うするつもりではあります。呪われた子ニャーン、貴女は本日をもって破門。二度とこの聖都に足を踏み入れることは許しません。その一杯を飲み終えたらユニティと共に疾く立ち去りなさい」
彼女はそこで言葉を切る。
切ろうとしたが、アイムが問いかけた。
「他には?」
「何も」
「それって……」
聖都にさえ踏み入らねば自由。そういう意味だとニャーンも気付く。
「温情ではありません」
この娘は鈍そうだ。だから言わずにおこうと思った言葉を、あえて口に出す。アイムのせいで引き出されたとも言える。
「お互いのための措置です。貴女がその気になれば、我々など容易く蹂躙されるでしょう。その気が無くとも人々は疑い、不安に陥る。できれば第六大陸自体に永遠に近付かないでいただきたい。けれどユニティの使命や我々の安全を考えるなら、それは難しい。だから聖都への立ち入りのみ禁じます。双方のため住み分けられるのであれば、あとはお好きになさい」
抑揚に乏しい無機質な声。眼差しも冷たい。本当に一片の温情も無いのだと思う。
だとしても石を持って追われるよりはずっといい。それに修道院から飛び出した時点で自ら僧籍を捨てていたようなもの。悲しくはあるけれどニャーンは受け入れた。
「わかりました、仰る通りにいたします」
「……」
アイムも何も言わない。それが教会側としても最大限の譲歩だとわかっている。都合も良い。彼はニャーンと教会の繋がりを断ちたかった。少なくとも第六大陸では。
「祈るくらい、どこででもできる。まあ、こんなところじゃろ」
そう言って立ち上がる彼。茶には全く手をつけていない。
ただ、ニャーンが続けて立ち上がると、彼は何かを考えるように動きを止めた。
やがて口を開き、何か言いかけて──やめる。
「達者でな」
「そちらにも、女神の祝福を」
二人が最後に交わした会話はそれ。戸惑いながらもニャーンは頭を下げ、小さく「ありがとうございます」と述べてから彼と共に立ち去った。
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