逃げる
駅の近くにある、ショッピングビルを、僕はぶらぶらしていた。服売り場にレストランの外、クッションやイスなどちょっとした家具を扱っている店も入っている少し大きめの所だ。近くにビジネス街があって、平日の昼だというのに遠方から買物に来た人のほか、昼食を採りに来たビジネスマンでにぎわっていた。
そのビルの中庭にあるカフェに、彼女は座っていた。
本来はもう若いといえる歳ではないだろう。すっきりしたデザインだけど、ちょっと古い感じのスーツに身を包んでいる姿はなんだかつまらなそうに見えた。テーブルにコーヒーカップ一つだけを置いて、ぼんやりしている。
「こんにちは。少しお話いいですか? 実は僕動画配信をやっていて……」
僕はいつもの説明をした。
「怖い話? あるわよ」
気だるげに言ったその女性は、もったいぶるように一口コーヒーをすすった。
そして、ビルの入り口に視線をむけた。
「まさしくこういった感じのビルであった話なんだけどね」
その日は残業が早く終わってさ。気晴らしに少し買い物しようと思って、ここみたいなショッピングビルに立ち寄ったの。
ビルの中にある店のいくつかは閉まっていたけど、いくつかはまだ開いている、そんな中途半端な時間帯だった。
目当ての店はシャッターが下りてた。仕方ないから、帰ろうと思って歩き始めたんだけど。
向こうから、灰色のスーツを着た男が歩いてきた。
やせていて、短い髪はぼさぼさ。周りに会社がたくさん近くにあるから、スーツを着ているのは別に不思議じゃないし、体型も髪も本人の勝手なんだけど、目が。
ほら、子供の時って、大人が怒った顔をしていなくても、自分を叱ろうとしているのって、なんとなくわからなかった? じゃなきゃ、近づいてくる悪ガキが、何か自分にいたずらをしようとしているな、って。そんな雰囲気をもっと強烈にした感じが目から伝わってきた。
草食動物も、肉食動物に気づく時ってこんな感じじゃないかしら。
とにかく、そいつが私になにか危害を加えようと狙っているんだと、はっきりわかったの。
かといって大声で助けを求めるわけにはいかない。だって、その男にまだ何をされたってわけじゃないんだから。
「助けて!」とかなんとか騒いで、相手にしらばっくれられたら私の方が馬鹿みたいになっちゃう。
私は、男に背を向けて走りだした。
いつの間にか店の間を通り抜け、非常階段を駆け下りてた。そこには私と後ろの不審者意外誰もいなかった。
わかると思うけど、ああいうビルって、人がいる所にはいるけど、いない所にはほんとにいないのよね。多分、人気のないところに行くよう、うまく誘導されていたんだと思う。
後ろからコツコツと足音が近づいてくる。走っている様子もないのに、確実に近づいてくるの。このまま逃げてもビルから出る前に捕まるのは目に見えていた。
私は一か八か、どこかに隠れることにした。
それで、非常階段を離れて、かけこんだのはトイレ。
うふふ、我ながらありがちなところに逃げ込んだと思ったわ。
逃げているあいだ中、ずっと新聞だったかネットだったか、何かで知った事件が頭の中でぐるぐる回ってた。
どこかのビルで、女の人が変質者に襲われ、トイレに逃げ込んだものの、追い詰められて殺されたって。
私が逃げ込んだトイレの個室は、ドアから手を放すと勝手に閉まるタイプのものだった。私は一番奥の個室に飛び込んで、鍵をかけようとして、やめた。
男子トイレでも同じだと思うけどさ、使用中なのかわかるよう、取っ手の下あたりにプレートが付いてる奴、あるでしょう。鍵をかけると青から赤に変わるアレ。もしその色を変えてしまったら、私が逃げ込んでいる個室が一目でわかってしまうじゃない。
だから、あえて鍵をかけなかった。かけたくてしょうがなかったけどね。
代わりに、せめて見つかりにくいよう、扉の真横に立って小さくなっていた。
耳をそばだてていたからか、かなり遠くから近寄ってくる足音が聞こえてきた。
もし自分の心臓の音で気づかれたら、なんて考えて、「今すぐ鼓動が止まればいいのに」なんてバカなことを祈ったわ。近くを飛んでるハエの羽音も耳障りだった。追い払いたかったけど、手をふったりして壁にあたったら、と思ったらできなかった。ただただ、じっとしてた。
足音は、トイレの中まで入ってきた。個室が並ぶ前を、入口から奥と歩いているのがわかる。戸の下の隙間から、灰色のズボンのすそと黒い革の靴が見えた。
私は悲鳴を上げないよう、堅く口を引き結んだ。
でもまさか、個室に逃げ込んでおきながら鍵をかけず、無防備でいるなんて思わなかったんでしょう。個室を開けようともせず、足音は遠ざかって『いきかけた』。
その時よ。本当、これ以上ない、冗談みたいなタイミングで、トイレの水が流れたの。思わず便器の方を振り返ったわ。
そのトイレはセンサー式で、手をかざすと流れるタイプだった。もちろん、私はそんなことしていない。便器に座ってもいない。それなのに。
そして女の笑い声がしたの。すぐ私の隣、私の耳元で。
その瞬間、急に思い出した。トイレで女の人が殺された事件、あれ、まさしくこのビルで起きたことだって。
じゃあ、この笑い声って……
私は個室を飛び出していた。もう変質者なんて頭になかった。今遭った怪異から逃れることしか考えてなかった。
まさか獲物が自分から飛び出してくるなんて思わなかったんでしょうね。しかも、楽しそうに笑っていから。向こうからしてみれば、笑い声を立てたのは私しかいないわけだし。
手に持った包丁の恐ろしさと、ポカンとしたまぬけ顔がアンバランスで、結構滑稽(こっけい)だったわ。でも……
そう言って彼女は袖をめくって見せた。
肘と手首の真ん中あたりに、ひきつれたような古い長い傷跡があった。
「廊下に出ようとしたところを斬られたのよ。でも無事に何とか逃げられた。運よく、血まみれの私に気づいてくれた人がいてね。そこからは変質者は逃げるし、『警察呼ばなきゃ!』ってなるし、大騒ぎよ。新聞やニュースでも話題になったわ。華々しく惨殺されたわけじゃないから、扱いは小さかったけど」
「まあ、そこであなたが殺されていたなら、この話を僕にできるはずがないですもんね」
僕の言葉に彼女が少し笑った。
「それにしても」
と僕は言う。
「トイレを流した、あの笑い声の主は誰だったんでしょうね。やっぱり、前の被害者だったんでしょうか。でも、犯人に祟らないで、逆に犯人に協力するなんて。自分が殺されたのだから、あなたも殺されないと不公平だと思ったのかな」
その言葉に、彼女は意味ありげな笑みを浮かべて見せた。
「どうせ誰も信じてくれないから、いつもはここで話をやめるのだけど、あなただけには特別に教えてあげる。なんだかあなたって、妙に話しやすいのよね」
そう前置きをすると、彼女は続けた。
「笑い声がしたときね、私はその方向に顔をむけたの。壁に、一匹ハエが止まっていた。体はハエだけど、頭は人だった。若い女の顔をしてた。白髪を細かく刻んで並べたような小さな白い歯、泣きはらしたような真っ赤な目。金属みたいにピカピカした、緑色の肌。そんなのが壁に止まって笑っていたの。たぶん、そいつがセンサーの前を飛んで、反応させたのよ」
「人面犬ならぬ、人面バエですか」
まあ、人面犬がいるのなら、人面猫や人面バエがいてもおかしくはない。
「そのハエが、被害者が化けて出てきた物なのか、ヘンな妖怪の類(たぐい)なのかはわからないけどね」
そういうと、彼女は少しビルに目をやり、またコーヒーをすすった。
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