第9話 恋とリフレクソロジー|2015年9月
果穂のリフレクソロジーのお店は、なかなか繁盛しているらしかった。口コミで評判が広がり、お客さんも順調に増えているらしい。携帯電話で閲覧できるお店の予約表は、ずっと先までいっぱいだった。
——久しぶりに果穂のリフレクソロジーを受けたいと思ったんだけど、予約いっぱいだね。
幸彦がメールを送ると、「夜なら大丈夫だよ」と返ってきた。
——新しい方法も試してみたいから、ゆきちゃんが練習台になってくれたら助かる。
最近、少し疎遠になっていた果穂と会う約束ができて、幸彦はほっとした。最近の果穂はこれまでのように幸彦を振り回さなくなって、世間の常識的な優しい叔母のようになってしまった。それが、幸彦には何だかさみしかった。顔を合わせて、手厳しいことを遠慮なくぽんぽん言われたかった。
約束した時間に行くと、果穂はマンションのエントランスで六十代くらいの女性を見送っているところだった。女性は、果穂に何度もお礼を言い、名残惜しそうに去っていった。果穂がひとりになるのを待って、幸彦は現れた。
果穂の店は自宅を改装したマンションの一室だ。一緒にエレベーターに乗り込む。エレベーターの中で、果穂は店に訪れる客がどんな感想をくれたかという話をした。嬉しそうだった。でも、幸彦は、何だか落ち着かなかった。そして、果穂が、ますます美人になっていることに気後れした。毒が抜けて研ぎ澄まされている。果穂が笑った顔があまりにもきれいで、幸彦はいらいらした。たくさんの客を癒し続けて果穂がどんどん透明になっていくような気がした。
「そうやって、毎日毎日ほかの人を癒してばかりで、果穂はいつ癒されるの?」
思わず口にした後で、後悔した。また変なことを言ってしまった。そのとき、エレベーターが目的の階に到着してドアが開いた。このままうやむやにしてしまえ、と、幸彦は先に降りた。
「わたしも癒してもらってるよ」
「彼氏、できたの?」
振り向かずに、幸彦は言った。
「お客さんに、だよ」
そんなのはきれいごとだと幸彦は思った。そうやって自分に言い聞かせて、自分をすり減らして、他人に奉仕して、果穂がすり減っていく。そう思うと幸彦はたまらなかった。
突然、手首をつかまれた。
触れられたことに動揺して、幸彦は、無言のまま果穂を見た。
「そっちじゃないよ、うちは。こっち」
と、果穂は言った。慌てて幸彦は回れ右をする。考え事をしていたせいか、エレベーターから降りて果穂の家と反対の方向に歩いていたらしい。果穂の手が離れても、いつまでも体に指の感触が残っていた。
部屋には心が洗われるような、澄みきった香りが満ちていた。幸彦の足の裏を果穂の手がつつみ、ゆっくりと確かめるようにもみほぐされていく。
「ゆきちゃん、わたしの言ったこと、信じてないでしょう?」
果穂がぽつんと言った。
「わたしも会社勤めをしているときだったら、ゆきちゃんと同じように信じなかっただろうな」
お客さんに癒されているという話の続きだ。幸彦は黙って果穂の次の言葉を待った。
「自分で工夫して努力してがんばった結果が、誰かを喜ばせて、その喜んでいる様子を直接見ることができることが、こんなにうれしいって知らなかった」
「ふうん、そんなもんかな」
幸彦は目をつむって、ここ最近で自分は誰かを喜ばせたことがあっただろうかと考えた。ひとつも思い浮かばなかった。
幸彦の頭の中に現れたのは最近できた彼女の顔だった。告白されて付き合うことになった。同じ学部の一つ下の学年で、幸彦は彼女のことをあまり知らなかった。好みのタイプというわけでもなかったが、断るほどでもなかった。彼女がいないとできない経験の数々はそれなりに感動的だったが、最初の感動が過ぎると、違和感だけが残った。デートをしても、メールのやり取りをしても、心ははやらず、ごっこ遊びを強制されているような気分だった。なんでこんなことをしているのか分からなかった。
彼女の喜ぶ顔をもうずっと見ていない。努力はしている。でも冷めた気持ちから抜け出せない。彼女は何も悪くないのに。
「人を好きになるって難しいね」
幸彦は言葉を天井に向かって放った。向かい合ってしゃべっていたらこんなことは言えないが、果穂の指にすべてをゆだねている今なら何でも言えた。
「そうね。せっかく自分を好きになってくれた人を傷つけたくなんかないのにね」
幸彦は驚いて口をつぐんだ。リフレクソロジーをやっていると心の中まで分かってしまうのだろうか。果穂のうつむいた顔はどこか悲しそうだった。幸彦と目が合うと、弱々しく笑って、
「でも、仕方がないのかな」
と、言った。まるで自分のことを言っているようだった。
すべてが終わると体が軽くなった。心も軽かった。何かが解決したわけではないのに、固く結ばれていた結び目がほどけてゆったりとした気持ちになっていた。ハーブティーを用意するために果穂が部屋を出て行ったときだった。果穂の携帯電話が着信を受けて震えた。ちらりと見ると、着信相手は「佐々木君」と表示されていた。
幸彦は手を伸ばして応答ボタンを押した。ちょっと驚かせてやろうと思ったのだ。電話を耳に当てると少し黙ってみた。
「ようやく出てくれた」
と、佐々木は悲痛な声で言った。不穏な気配を感じる。何だか非常にまずいぞ、と幸彦は青ざめ、自分の鈍さを呪った。
「俺、本気で果穂さんのこと好きだから。もし振るつもりだったら本気で振ってくれる? メールとか、変なごまかしの言葉とかじゃなくてさ」
こんなに真面目で必死な佐々木の声は聞いたことがなかった。これが恋か……と感心しながらも、もちろん感心している場合ではないことは分かっていた。早く何かを言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。佐々木はどんどんひとりでしゃべり続ける。
「少しは何か言ってよ。果穂さんって優しいけど、そういう優しさって残酷なんだよ」
そういう言い方ないだろ、と幸彦はむっとした。
「ちょっと待てよ」
向こうが息を飲んだのが分かった。通話が切れた。プープーと耳障りな電子音を聞きながら、幸彦は自分の発した言葉を思い出してみた。声も緊張してしゃがれていた。幸彦が果穂と一緒にいるなんて想像もしていない佐々木が、あんな状況であの声が幸彦だと気づく可能性は皆無だった。となると、どう勘違いしたかは推して知るべし。
「果穂! 果穂!」
幸彦は、子供のときみたいに一生懸命、果穂の名前を呼んだ。
「なに? ゆきちゃん? なんか出た?」
手に殺虫剤を持って現れた果穂に、違う違うと幸彦は叫んだ。
「佐々木から電話がかかってきて、間違えて取ったら切れちゃったから、フォローの電話をかけて」
携帯を押しつけると、果穂は発信ボタンを押して耳にあて、しばらく神妙な顔をしていたが、やがて、電源が切られてます、だって、と言った。
幸彦は脱いでたたんでいたジーンズのポケットを探り、自分の携帯を取り出して佐々木にかけてみる。つながらなかった。一時的に誰とも話したくなくて電源を切ったのだろうか。衝動的に携帯を川に放りこんだ……ということも佐々木の性格なら考えられる。
「佐々木君、なんて言ってた?」
と、果穂がきいた。幸彦の頭の中に佐々木の言葉が蘇る。
——そういう優しさって残酷なんだよ。
悲しげに微笑んでいるこの人は、はたして残酷なのだろうか、と思いながら幸彦は果穂の顔を見た。佐々木は果穂に傷つけられ、果穂は佐々木を傷つけていることに傷ついている。
恋はリフレクソロジーのように人を癒すとは限らない。
「すぐ切れたから分からなかった」
と、幸彦は答えた。
ちょうどよいふたり 寒竹泉美 @kanchiku
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