第2話 唐揚げと人生|2013年5月
ほら、地縛霊がいる、と幸彦に言ったのは、最近予備校で言葉を交わすようになった佐々木という図体のでかい男だった。
「そんなものいるわけないだろ、真昼間から」
と、幸彦は言い返した。でも、内心、ちょっとびびっていた。
「それがいるんだな。朝から晩まで、ずっとあそこに」
佐々木があごで示した先は、自習室だった。
窓際の一番奥の席に、一人の男の丸まった背中が見えた。チェックの半袖シャツで覆われた背中が、もぞもぞ動く。毛深いけれど生白い腕がせっせと何かを書いている。体が透けたりもしていない。
「なんだ。生きてるじゃないか」
と、幸彦は言った。佐々木は、幸彦に顔を寄せて、脅すように低い声で言った。
「ある意味、俺らにとっては死人より恐いぞ。あいつは今、医学部を目指して十浪中だ」
「まさか」
「いや、嘘じゃない。みんな知ってる。ここでは一番の有名人だ」
男が参考書を見るために横を向いた。確かに老けている。生徒というより講師に見える。十浪ということは、二十八歳だろうか。でも、無精ひげとたるんだあごの肉のせいで、三十代や四十代にも見える。
「十年やってダメならあきらめればいいのにな」
と、佐々木が言った。幸彦はあいまいにうなずいた。人のことをどうこう言ってる場合じゃない。自分だって、この先どうなるか分からないのだ。
二ヶ月前、願書を出したときは、志望校のランクを下げて妥協した大学に入るくらいなら、いちかばちかで希望する大学を受けて浪人したほうがましだと思っていた。そして、見事に玉砕した。
浪人が決まったとき、幸彦はそれほど落ちこまなかった。浪人すれば、まる一年、勉強だけに専念できるのだ。新たに何かを習う必要もないし、学校行事に時間を取られることもない。もしかして、あと一年あれば、志望校どころか、もっと難しい大学に入れるんじゃないか、と思った。が、そのときの気持ちは五月になった今、すっかり萎えてしまっている。たいして勉強は進まないまま、月日だけがどんどん過ぎていくのだ。試験本番の日が一年後に遠ざかったせいで気がゆるみ、学力はアップするどころか、後退した。本当にあと一年で目指す大学に合格するのだろうか。もし行けなかったら、自分はどうするのだろうか。
そこまで考えて、幸彦はぞっとした。落ちたらどうするのかを、まったく考えていなかった。あきらめた先に何も見えない。かといって、もう一年浪人するのも恐ろしかった。 幸彦は、窓際の男から目を逸らして佐々木に向き直ると 「早く飯買いに行こうぜ」 と、精一杯明るい声で言った。
予備校の出口からコンビニまでの片道数分の道を歩きながら、これから先、この道を何回往復するのだろう、と幸彦は考えた。空が青かった。日差しは焼けつくような強さだったが、風はまだ乾いている。もうすぐ六月になるが梅雨の気配はない。
コンビニは予備校生たちであふれていた。鮭と明太子のおむすびをレジに並べる幸彦の横で、佐々木はカップラーメンに湯を入れている。こぼさないように予備校まで持って帰ると、ちょうど食べごろになるらしい。
「あ、またカップラーメン」
涼しげな声が聞こえて、幸彦はそっと振り返る。甲本さんが首をかしげて佐々木と幸彦の間に立っていた。甲本さんの長い髪は明るい栗色に染めてあって、女子大生のようだ。すごく大人びて見えるが、彼女も幸彦や佐々木と同じ一浪組だということを、佐々木が数日前に聞き出した。佐々木は誰にでも気軽に話しかける。
「そっちこそ、また、それ買ってる」
甲本さんは弁当の上にぽってりとした袋入りのシュークリームを載せている。甲本さんはいつもお昼ご飯を食べたあとに、幸せそうにシュークリームをほおばるのだ。
「先行くぞ。早くしないと麺がのびる」
佐々木がコンビニを出ていった。取り残された幸彦は、甲本さんと目が合って、意味もなく会釈をした。気の利いたことを言って笑わせてみたかったが、何も言えなかった。早足でコンビニ出る。ちょっと気持ちが弾んでいた。別に甲本さんとどうこうなるつもりはないが、姿を見かけたら嬉しい。そんな相手がいるだけで、日々は少しだけ華やぐのだ。
もし受からなかったら、ということさえ考えなければ、浪人生活はなかなか快適だった。予備校には、高校みたいな不条理な規則はないし、最新の設備が整っている。講師の授業は明快で分かりやすいし、進路や勉強の相談も親身になって聞いてくれる。
しかし、家に帰ると、憂鬱な時間が待っていた。いわゆる家族団らんというやつだ。いくら幸彦が先に食べていてほしいと訴えても、母親と父親は三人そろって食卓を囲むという習慣を崩さない。律儀に幸彦の帰りを待っている。そのせいで、幸彦は友達と寄り道して帰ることができない。でも、そんな不満は小さなことだった。幸彦の頭を悩ませている問題は、食卓を一緒に囲んでいるときの母親の態度だった。母親と同じ場所に一緒にいることが苦痛だった。母親は、幸彦が次も受験に失敗したらどうしようということばかりを考えているように見えた。側でそわそわされると、幸彦まで不安になる。
一か月前、今度は大丈夫よね? と何度もきいてくるのに腹を立てて、知るか、と幸彦が乱暴に答え、ケンカになった。それ以来、母親は面と向かって受験のことを言わなくなった。けれど、その分、無言でプレッシャーをかけてくる。
今日のおかずは幸彦の好きな唐揚げだった。が、こんなふうに好物が食卓にのることすら、何かのメッセージではないかと勘ぐってしまう。
母親と目を合わせないようにして、唐揚げにかじりつく。衣が軽やかな音をたて、口の中にあつあつの肉汁があふれだす。でも、母親の前では何を食べても食べた気がしない。
白飯をお代わりしようとして、顔を上げた幸彦は、母親の様子が普段と違うことに気がついた。何かを言いたくてたまらないという感じだが、幸彦に関することではなさそうだ。
「果穂にも困ったものだわ」
母親はこれみよがしにため息をついてみせた。お、と、幸彦は思った。どうやら今日の母親の心配事は、彼女の妹であり、幸彦の叔母である果穂のことらしい。
「果穂ちゃんがどうかしたのか?」
父親がきくと、母親は待ってましたとばかりに、話し始める。
「あの子、誰にも相談せずにいきなり会社を辞めちゃったのよ。せっかくいいところに勤めてたのに、もったいない」
父親は味噌汁をすすりながら、のんきな声で答えた。
「でも、果穂ちゃんなら、すぐに次の就職先も見つかるだろう。頭いいし若いんだから」
母親はふたたび、ため息をついた。
「本人にやる気があれば見つかるんでしょうけどね。就職活動もせずに、ふらふらしてるみたいよ」
「あれじゃないか? いい人がいて、結婚」
「そうだといいんだけど。そんな気配も全然ないのよね」
幸彦は四か月前に果穂と会ったときのことを思い出した。確か、失恋したって言ってたっけ。その反動で、誰かをとっつかまえてスピード結婚とか? いやいや、それはないだろう……。幸彦は首を振ろうとして、そのまま、傾げた。でもそんなことも、あり得るかもしれない。幸彦には、あの叔母の行動はまったく読めない。
「せっかくいい大学出ても、どうなるか分からないわね」
母親の言葉をさえぎるように、「ごちそうさまでしたー」と言って、幸彦は立ち上がる。果穂に何があったのかもう少し知りたかったが、もたもたしていると、とばっちりが飛んでくる。
お風呂、早く入りなさいよ、という母親の言葉に生返事しながら、幸彦は自分の部屋に避難した。
『会社やめたの?』
部屋に戻った幸彦は、果穂の携帯電話にメールを送った。しばらく待ってみたけれど、返事はなかった。落ち着かない気分のまま、開いた参考書をぼんやりと眺める。複雑な方程式だ。まずはグラフを描かないと、と思うのに手が動かない。もう一度、自分の携帯電話に目を落とす。メールを眺めながら、こんなことを果穂に送って、俺はどうしたいんだろう、と少し後悔した。
もったいない、という母親の言い様に、かちんときた。それは何だか違うと思った。でも、幸彦も、もったいないと思っていた。それ以外に感想が思い浮かばなかった。果穂は東大卒だ。自分がどれだけがんばっても、届かない大学に受かって卒業している。東大に受かりさえすれば、前途洋洋だと考えているわけじゃないけれど、無職になったらあんまりにも意味がないじゃないか。
メールの音が鳴った。幸彦はちょっと緊張して、携帯を見る。果穂から来たメールには、
『やめたよ』
とだけ、書いてあった。
そんなことは知っている。幸彦はもどかしかった。やめたのかときいたのだから、まっとうな答えだ。でも、幸彦が欲しい言葉はそんなんじゃない。ききたいことはたくさんあった。
なんでやめたの? と、打とうとして、ためらう。そんなこと、メールできいても、本当の答えが返ってくるわけがない。もし返ってきたとしても、仕事をしたことがない幸彦には、果穂の気持ちは分からないだろう。
幸彦は乱暴に参考書を閉じて、ベッドに寝転がった。いい大学に入って、いい就職をして、安定した給料をもらって、結婚して……。幸彦はそんなテンプレートの人生しか知らない。それが何か違うということは分かるのだけど、でも他に思いつかない。いったい自分は、どこに向かって進んでいるのか、何を目指しているのかも分からない。
幸彦の頭に、今日見た『地縛霊』の姿が思い浮かんだ。十浪ということは、あの男は果穂と同じくらいの年なのだ。そう思うと、なんだかめまいがした。どうしてあいつは、十年間も迷わずひとつのことを目指し続けていられるんだろうか。
『東大行ったの、意味なかった?』
投げつけるように、メールを送った。幼稚な質問だと、笑われるんだろう、と思った。でも、果穂になら笑われてもよかった。
意外なことに、すぐに返事が返ってきた。絵文字も装飾も何もないのに、まるで果穂の含み笑いまで聞こえるような文だった。
『大学、すごく楽しかったよ。』
そっか、と幸彦はつぶやいた。
「じゃあ、目指してみようかな」
口に出して言ってみると、濃い霧の中を歩いていたような気分が、少しだけ晴れた。そういえば、果穂に言われるまで、合格したら楽しいことが待っているなんて思っていなかった。いつのまにか、幸彦にとって、未来は、こなさねばならない義務になっていた。行く先々に実態のない宿題を積み重ねられ、前に進む気力が少しずつ奪われていた。いつからそんなふうになっていたのだろう。
どんな返事を打とうかと考えていたら、もう一度、メール音が鳴った。
『楽しんでね』
『何を?』
ちょっとむっとして、幸彦は即座に質問を返した。きっと果穂のことだ。受験は一種のゲームだとか、勉強は楽しいとか、そんなことを言うんだろう。そりゃ、自分は頭がいいからいいけれど、と幸彦は思った。
メール音が軽やかに鳴った。返事を見て、幸彦はため息をついた。携帯の画面には、
『人生』
と、書いてあった。
「人生か」
携帯をベッドの上に放り投げて、大の字になる。気の長い話だな、と幸彦は思った。
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