海という名の少年

夏羽 希

海という名の少年


 ああ、今日はついていない。天気予報では今日は雲一つない青空だと言っていたのに。十分前から急に振り出した篠突く雨。逃れられる場所を探して、僕は足早に進む。期末テストがやっと終わり、今日は本を買いに来ていたのだ。古本の町、神保町。家から電車で一時間ほどかかるが、部活やバイトが無い日はよく来ている。僕は古本が好きだ。前の持ち主がどんな人で、この本を読んでどう思ったのかなんかを想像するのが楽しいからだ。もちろん新書も買うし、よく読む。しかし僕は古本の方が好きだった。

 雷まで鳴りだした。駅まで走ろうかと思っていたが、近くの店に入ってやり過ごすしかなさそうだ。と、思った途端、ある店に視線がくぎ付けになった。中の様子が見えるような窓も扉も一切なく、壁はすべて黒い石だ。それに、店名がどこにも書いていない。ただ、重そうな木のドアに「貴方の本、探し〼」と刻まれた金色のプレートがかけられている。前からこんな店はあっただろうか。気が付かなかった。とにかく本屋なら、と僕は気の扉を押し中へ入った。見た目通り重たい扉だ。

 重々しい外観に反し、店内は温かな雰囲気だった。床には深い赤色をした絨毯が敷かれており、明るすぎず、それでいて本を読むには支障のない程度の証明に照らされていた。そしてなにより僕の目を引いたのは、驚くべき本の多さだ。壁一面の本棚にぎっしりと詰まっている。中央の大きなテーブルに塔のように積まれている。僕は夢中でそれらを眺めた。するとすぐに、様子がおかしいことに気が付いた。どの本の題名も見たことがない。そして、作者が書かれていないのだ。

「いらっしゃい。それでは、貴方の本を探しましょう」

 突然の背後からの声に、心臓が止まりそうになる。恐る恐る振り返ったが誰もいない。困り果てていると、本の塔の向こう側からまた声が聞こえた。

「こちらです、本の塔が邪魔して見えませんか」

 慌ててテーブルを回りこむと、の主が僕を見てにっこり笑った。ツイードのスーツを着た老人がアンティーク調の美しい椅子に座っている。椅子はテーブルと揃いの木で作られているようだ。

「こんにちは。あの、ここの本は、作者は、あの、」

 全く言葉が出てこない僕の様子に老人はまたにっこり笑った。

「ここにある本は世界に一つだけ。作者は誰も知りません。何が描かれているのかもわかりません。なので、わたくしがお客様の本をお探しして差し上げるのです。おわかりですね?」

 さっぱりわからない。なのに、僕の頭は勝手に頷いてしまった。

「それはよかった。実は、貴方の本はもう見つけているのです。こちらです。どうぞ」

 そう言うと、老人はどこからともなく本を取り出した。青いハードカバーに銀色のインクで波のような模様が描かれており、とても綺麗だ。題名も同じ銀色のインクで描かれている。


 『海』


それがこの本の題名だった。シンプルすぎてどんな内容なのか想像もつかない。ところが、不思議なことに少し本を触っただけで僕はこの本が欲しくてたまらなくなってしまったのだ。値段を聞いたが、高そうな見た目の割に手ごろな値段だった。僕はこの本を買うことにした。

「ありがとうございます」

老人に礼を言うと、彼はにっこり笑って言った。

「こちらこそ。楽しんでくださいね」

さっきに比べて、今の彼の笑顔はなんだかいたずらっ子のようだった。


 僕が本を読むのは寝る前だ。ベッドに寝そべり本を開く。この瞬間が何よりも楽しい。すると、開いた本から何かがひらりと滑り出てきた。透き通った青い海を悠々と泳ぐ大きなクジラだ。女王みたいだ、と思った。クジラの雌雄の見分け方は知らないが、なぜか絶対にこのクジラは女性だと思った。海の女王。

気を取り直して、いよいよ本を読み始める。不思議な店の不思議な店主に選んでもらった本だ。楽しみで仕方がない。

 舞台は小さな王国の港町のようだ。祖母と二人でつつましやかに暮らす主人公の少年、マーレはある日浜辺に打ち上げられている虹色の貝殻を見つける。それは光を浴びずともとても美しく輝き、町中の人々がそれを称賛した。その虹色の貝殻の噂は王様の元まで届き、なんとその虹色の貝殻を寄越すよう遣いの兵士を大勢マーレの家に送るのだ。この王様は欲しいと思ったものは何がなんでも手に入れたくなってしまう、とてもわがままな王様らしい。マーレは追いかけてくる兵士から逃げ、時には機転を利かせて戦う……。

 ちょうど物語が一番盛り上がるところなのに、突然眠気が襲ってきた。ベッドの上で本を読んでいるとよくあることだが、今日はどうにも我慢ができそうにない。僕は先ほどのクジラの写真を栞代わりに読みかけのページに挟み、睡魔に抗うことなく眠りについた。


 眠りについたはずなのだ。だから、これも絶対に夢だ。今、僕は全く知らない外国の街中を全速力で走っている。なぜなら怖い顔をした兵隊が大勢、僕を追いかけてくるからだ。

「おとなしく貝殻をわたせ!」

 後ろからそんな怒鳴り声が飛んでくる。そして右手に握っている虹色の貝殻を見つけ、ようやく僕は気付いた。僕は、さっきまで読んでいた本の夢を見ているのか。しかも僕がマーレだ。

 そこまで理解した時、新たな問題がすぐさま発生した。僕は、マーレが逃げているシーンまでしか読んでいない。つまり、この状況をどう切り抜ければいいのかがわからないのだ。それに、そろそろ体力も限界だ。足は速い方だと思うが持久力はそんなにない。兵隊たちはまだ追いかけてくる。とにかく一度姿を隠して呼吸を整えたい。願わくはこの夢から覚めたい。僕は、前方に子供がやっと通れるような細い路地を見つけると迷わず飛び込んだ。そのまま走る。後方では兵隊たちの立ち往生する声が聞こえた。先に光が見える。もう少しだ。

 路地を抜けた先は海に面したちいさな広場だった。太陽に照らされて海は輝き、そのあまりの眩しさに思わず目を覆う。少し落ち着いてからもう一度広場を見てみる。人はおらず、石でできたベンチがただぽつんと置かれていた。海を覗き込んでみるが、深さがかなりあるらしく海底は見えない。それにしても綺麗な海だ。こういう青をコバルトブルーと呼ぶのだろうか。そういえば、あの本の表紙もこんな色だった。

 ようやく安心できたと思った矢先、

「いたぞ!」

 しまった。すっかり存在を忘れていた。兵士たちは遠回りして違う道から来たらしい。僕が通ってきた路地に戻ろうかと思ったが、きっと出口には待ち伏せする兵士がいるのだろう。逃げ場が完全になくなってしまった。夢が覚めてくれないか期待したが、そんな都合のいいことは起こらない。

 「もう逃げられないだろう!さあ、貝殻をわたせ!」   

 兵士が叫ぶ。でも僕は、絶対に貝殻をわたしたくなかった。なぜなのかはわからない。でも、とにかく「わたしてはいけない」という思いだけが頭を支配していた。だからだろう、こんなに突飛な行動に出たのは。

 僕は貝殻をしっかりと握りしめ、コバルトブルーの世界に飛び込んだ。体がどんどん沈んでいく。そう、僕は泳げないのだ。頭が正常な状態だったら絶対に海に飛び込むなんて真似はしなかった。息苦しさに身をよじっていると、ポケットから何か紙のようなものが浮かんで出てきた。

 あのクジラの写真だ。あの女王の。

 僕は写真に向かって、(たすけて!)と叫んだ。しかし口から空気が泡となって出ていくだけで声にならない。夢なら、今、覚めてくれ……。意識が沈みそうになったその時、体が何か大きなものに押し上げられるのを感じた。そして、気付いた時には僕は海の上にいた。何かの上に乗っている。目の前の水面から飛び出ているのは背びれか。僕は、なんとクジラに乗って海を進んでいた。

 「大丈夫?泳げないのに海に飛び込むなんて、おかしなニンゲンね」

 大きく、低く、深い、響くような声が聞こえた。まさか。

「クジラは喋るものよ。ニンゲンは知らないでしょう」

 やっぱりそうか。すごい夢だ。

「あの、助けてくれてありがとうございます。クジラの女王様」

 想像よりも落ち着いた声が出せた。良かった。すると彼女は不思議そうな声で

「あら、なんで私が女王様なの?」

と訊ねてきた。僕は答える。

「あなたを一目見たときから、ずっとそう感じていたんです。嫌でしたか?」

「もちろん嫌じゃないわ!私が女王様なんて、すてきね」

 彼女は嬉しそうにそう答える。そういえば、僕たちはどこへ向かっているのだろう。そう聞くと彼女は歌うように、あなたが望む場所へ、と答えた。

「助けてくれたお礼がしたいです。何か僕にできることはありますか?」

「うーん、お礼なんていいのよ、と言いたいけれど。その貝殻、虹色に輝いていてとても綺麗ね。私の家がある海の底は暗くて淋しいのよ。それをもらってはだめかしら?」

 この貝殻を彼女にわたす。そう考えると心がどこかすっきりと晴れるようだった。さっきまであんなにこの貝殻を手放したくなかったのに。ああ、そうか。

「もちろんです。この貝殻はあなたに」

 僕がそう答えると、彼女は少し驚いた声で

「本当に?その貝殻のために泳げもしない海に飛び込みさえしたのに?」

「ええ、僕はきっと、あなたにこの虹色をわたしたかったんです」

 彼女は少し黙ってから、大切にするわ、とつぶやいた。その言葉を聞いた途端、僕を眠気が襲ってきた。なんだか懐かしい感じだ。

「あら、もう帰ってしまうのね。もう少しお話ししたかったわ」

 なんのこと、と聞きたかったがもう口も重たくて開かない。

「そういえば名前を聞いていなかったわね。あなたのお名前は?」

 これには絶対に答えなくてはならない気がした。重たい口をなんとか開き、ささやく。 

「マーレ」

「あら、いい名前ね。海だわ」

 彼女の優しい声が聞こえた気がした。


 そして僕は、ベッドの上にいた。背びれの代わりに枕にしっかりつかまって。見回しても、『海』はどこにもなかった。なんとなくそんな気はしていたが。でもまあ、これでいいのだろう。だって僕はもう、この本を読み終わったのだから。

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海という名の少年 夏羽 希 @natsuumare

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