<外伝>完璧な后と愛せない王様 第8話
二本の腕が互いに向かって伸び、ぴたりと身を寄せ合う。
公爵と姫君。
二人が踊る光景に人々の目が釘づけになる。
滑らかにステップを踏みながら、アハトはアデルの耳に何か囁いた。アデルはくしゃりと笑い、アハトに向かって囁き返す。
『身重のため、置いてまいりました』
ふと思う。
私がアハトのような男だったら──
アデルは私を受け入れていただろうか。
かつて、アハトはフィオナに恋焦がれていた。舞踏会のたびにダンスを申し込み、手紙や花束を贈り、社交シーズンが終わってしまうとシルバスティン領まで訪ねていた。
あのような熱は私にはない。
フィオナに去られてすぐ別の令嬢と結婚したが、子ができたということは、それなりにうまくいっているのだろう。
曲が終わり、拍手が起こる。
アハトが一礼して離れると、すかさず別の者がアデルにダンスを申し込んだ。私は身振りでそれを許可する。
「殿下。改めてお祝いを」
ワイングラスを手にアハトが戻ってきた。
二人で乾杯する。
「アデルと何か話していたな」
「ええ。他愛のない冗談です」
「ずいぶん楽しそうだったではないか」
「嫉妬を?」
「まさか」
肩をすくめ、ワインを一口あおる。
「アデルをどう思う?」
「そうですね。聡明で美しく、ご気性もすばらしい」
「ふん」
すまし顔で答えるアハトが憎らしくなり、
「フィオナ=シルバスティンよりもか?」
少しばかりつついてみたくなる。
アハトは一瞬黙り込んだ。それから、口の端にうっすらと笑みを浮かべる。
「恐れながら、殿下。彼女と比べることはできません」
「なぜだ?」
「彼女は──フィオナは」
穏やかな声でアハトは言った。
「私にとって、ただ一人の女性です」
「ふむ。まるで、今もまだ諦めきれないといった口ぶりだな」
「いいえ」
にこやかにかぶりを振る。
その温厚さとは裏腹に、アハトの瞳は踊る炎のように煌々と輝いている。
「私は、彼女を諦めたことなど一度もありませんよ」
「……そうか」
呟いて、私はグラスの中の赤ワインを飲み干した。
嫉妬。
独占欲。
時には狂気。
アイというのは不可思議な感情だ。
パーティーのあと、男だけで談話室に集まって煙草を吸い、ブランデーを啜った。
「私にあんな美しい妻がいたら、誰とも踊らせたりしませんね!」
酔ったルイスの声。それに同意する声。陽気な笑い声。
私は目を閉じ、煙を吐きながら聞くともなく聞く。
誰かをアイする者が、相手を独り占めしたがるのはなぜだろうか。
私はアデルが他の男と踊ろうが、別になんとも──
「………」
ただ、あのとき。
彼女の手を取りたいと思った。
役割も、しきたりも、あの一瞬だけどこかに置き忘れたように思い浮かばなかった。
あれは──何だったの、だろう。
『……あなたと踊りたい』
アデルの淡く透き通った瞳。
まるで湖面のような。いや。鏡か。
瞼の裏に浮かぶその瞳をぼんやり見つめていると、ふいにその色が変わった。
────《黄金》。
「テリオス」
耳元で少年の声がする。
よく知っている声だ。
忘れるはずもない。
私の……たった一人の、大切な。
「お前は、よい王になれ」
《黄金》の瞳の少年は言って、微笑んだその口からごぶりと血の塊を吐き出した。
「‼」
ハッとして跳ね起きる。
いつの間にか寝室のベッドにいた。
荒い息を整えながら記憶を整理する。酔いが回ったので、談話室から早々に引き揚げたのだ。
戻ってすぐ眠り込んでいたらしい。時計を見るとまだ深夜だ。眠っていた時間はそれほど長くない。
どうして今ごろあんな夢を見たのだろう。
今ごろになって──兄上の夢など。
顔をこすって息をつく。胸に手を当てると、まだ心臓が激しく脈打っていた。
まるで不吉な報せだ。
そう考えた瞬間、息が止まった。
……アデル。
寝室を飛び出す。直通の廊下を走りぬけ、驚く兵士には目もくれず、ノック抜きでいきなり扉を押し開いた。
「え? な、えっ?」
物音で起きたらしいアデルが、まだ夢から醒めきっていない目で私を見る。
ベッドに近づいて彼女の顔を両手で挟み、その瞳をじっと覗き込んだ。
「テ……リオス様?」
アデルが困惑したように呟く。
彼女の薄緑の瞳に私の顔が映っていた。狂人のように目を見開き、真っ青になって震えている男の顔が。
「テリオス様」
今度は幾分落ち着いた声で名を呼び、アデルはそっと私の手を包んだ。
「さあ、どうぞ。お座りになって」
言われるままベッドに腰を下ろす。
入れ替わりにアデルは立ち上がり、ガウンを羽織ってから開けっ放しの扉を閉めに行った。その際、扉の前に集まっていた兵士たちに声をかけるのが聞こえる。
戻って来て私の隣に腰を下ろし、
「それで」
アデルは小首をかしげてみせる。
「急にどうなさったのですか?」
「………」
「私が暗殺されたとでも思いました?」
心臓が嫌な音を立て、バッと顔を上げて彼女を見た。
アデルがわずかに目を見開く。
「ごめんなさい。今のは冗談ですわ」
「………思った」
私はかすれた声で呟く。
「そなたが殺されたと思ったのだ」
「え……?」
「驚かせてすまなかった」
「テリオス様」
彼女が私の腕に手を添える。
「同じ顔をしてらっしゃるわ」
「同じ顔?」
「わたくしがダンスに誘ったときです。一瞬だけ同じような……怯えた顔を」
ふいに笑いたくなった。
私はそんな顔をしていたのか。妻にダンスに誘われて、そのように情けない顔を。
だが、きっと彼女は笑わないのだろう。
夜遅く部屋に駆け込んできた私に対し、怒るでも呆れるでもなく、手を握り、あたたかく包んでくれるような彼女は。
「そうだ。怖くなったのだ」
諦めに似た気持ちになり、私は力なく呟いていた。
「怖い?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「私が心を通わせたものは、みな死ぬことになっておるからな」
再びアデルの頬に手を伸ばす。
今度はやさしく。壊れやすいものに触れるように。
「……どうやら私は、そなたを好きになったらしい」
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