第139話 あなたの元へまいります
「なんでだよ!」
馬に鞍をつける老人に向かって、少年が不満そうに叫びました。
「あんな奴にやることなんかねぇって!」
「静かにするんじゃ、テオ。こいつが驚いちまうじゃろぉ」
そう言いつつ、老人は手際よく轡を噛ませます。
「だいたい、先に手ぇ出したんはおめぇじゃろ。話も聞かんと乱暴しよって」
「うっ」
「そんなんじゃお城の兵士になんか一生なれねぇぞ」
「ぐっ」
少年の頭をポンポン叩き、老人がこちらを振り返ります。
「ほれ、準備できたぞ」
私は金貨を二枚渡して礼を言いました。
もっと払うつもりだったのですが、老人が「老いぼれ馬にゃこれでも多すぎる」と受け取ってくれませんでした。
「いいんじゃよ。これでテオに新しい馬を買ってやれるしの」
「でも、怖い思いをさせてしまって……」
「殺す気がないのはわかっとった。お前さんの手、震えとったし」
「う」
剣術を少し齧ったとはいえ、人に刃物を向けるのはやはり難しいですね……。
「大事に使えよな! こいつはじいちゃんが何十年もお城に勤めて、やっともらった馬なんだから」
「えっ?」
「じいちゃんはシルバスティン家の馬丁だったんだ。すごいだろ」
少年がニカッと笑って鼻をこすります。
「昔の話じゃよ。まだ現役じゃったころ、この馬に小さなお姫様をお乗せしたことがある。まことに美しい、天使のごとき姫じゃった。今はお前さんくらいの年になっておるじゃろうなぁ」
天使のような、小さな姫……?
私ははっとして老人を見ました。
老人はやさしい目をして私に手綱を渡します。
「さ、行きなさい。大事な人の命がかかっておるんじゃろう?」
「……はい!」
鐙に足をかけて一気に体を引き上げます。
老人と少年にもう一度礼を言って、私は帝都に向かって走りはじめました。
日が真上に昇りきるまでにシルバスティン領を抜けました。
帝都が近づくにつれ、道は賑やかになっていきます。多くは商人たちですが、大道芸人や、貴族御一行の姿もあります。
隊商のひとつと交渉して金を払い、一団に混ぜてもらうことにしました。
「ずいぶん人が多いですね」
「ああ。なんでも、偉い貴族様が処刑されるんだってさ」
煙草をふかす商売女がそう言って口の端で笑いました。
「おっかないよねぇ。でも、おっかないことがみんな大好きでしょ? 帝都は今ごろお祭り騒ぎさ。おかげでこっちはいい商売になりそうだよ」
「………」
「知ってる? その貴族様、噂じゃ悪魔みたいな男らしいよ。自分の女を使って皇帝陛下を殺そうとしたんだって。けど殺しそこなって、その女ともども串刺しの刑!」
クスクス笑う女。
「気になるよねぇ。どんな男なんだろ。ものすごい色男? それとも、見るからに悪そうな男かしら?」
私は黙って目をそらしました。
世間から見れば、お兄様はまごうことなき悪役公爵そのもの。
誰もが物語の表面をなぞるように噂をなぞり、好き勝手に解釈し、囃し立てる。
前世で『アストレア帝国記』を読んでいた私もある意味では同類でした。ノイン様の冷酷さに憧れ、非情さに胸を躍らせていた。悪だからこそ孤高で美しいのだと。
悪の名を背負うに至るまでのことなど、私には想像もつかなかった。
この世界に──来るまでは。
「あんたは何しに帝都へ行くのさ?」
隣で女が言いました。
前を見つめながら答えます。
「……………になるために」
「ん? 何になるって?」
はるか道の先に帝都が見えました。
胸がぎゅっと苦しくなります。
お兄様。
もうすぐです。
もうすぐあなたの元へまいります。
口の中だけで、私はそっと呟きました。
「この世でもっとも、悪い女に」
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