第72話 まだ死ぬわけにはまいりません
「もう少しだけ、一緒にいてくれませんか……?」
急に年相応の顔でそう言うので、私はランプを消し、ティルトが眠りにつくまで手を握っていました。
すうすうと寝息をたてるあどけない顔。
当主の重責を担うにはあまりに幼く映ります。叔母の気持ちもわからなくはありませんね。
ですが。
私はお兄様のために生きております。
お兄様にとって障害となるのであれば、私はこの手でニーナを始末しなければなりません。お兄様の暗殺者が動き出す、その前に。
「………」
眠り込んだティルトからそっと手を離します。
そんな未来を変えられるのは──ティルト。
あなたしかいない。
あなたが当主として母親と臣下に認められれば、すべてがうまくゆきます。
今はそれに賭けてみましょう。
「……?」
ふいに生ぬるい空気が首筋を撫でました。
振り向くと、レースのカーテンが風に揺れています。
暗い部屋に月明かりが差し込み、その青白く切り取られた光の中に──
人が立っていました。
「……え?」
突然のことに理解が追いつきません。唇から間の抜けた声が漏れます。
人?
いつの間に?
窓から?
ここは城の最上階ですよ?
何度か瞬きをしますが、目の錯覚ではありません。
小柄で引き締まった体──黒い装束──顔の下半分は覆面に覆われて──
その手に抜き身の剣を携えた人物が。
「‼」
刃物の鈍い光を目にした瞬間、全身が総毛立ちました。
口の中をしびれるような強い苦みが走り抜けます。
───────暗殺者。
「………っ」
大きく息を吸い込んでから、わずかに残った理性がギリギリでそれをやめさせました。
叫ぼうとした瞬間、暗殺者の握った刃がピクリと反応した……。
パニック寸前の頭を回転させます。
狙いはおそらくティルト。暗殺者が動きを止めているのは、私の存在が予想外だったから。二人まとめて殺すべきか考えている。
私が大声を出せば、考えを中断してすぐさま任務を遂行するでしょう。
生き残るには?
逃げる?
だめ。出口は暗殺者のうしろ。逃げられない。
ティルトを盾にするのは?
いいえ。さすがにそれはできない。私を見逃す保証もない。
では、どうする?
私は──
私は。
まだ死ぬわけにはまいりません。
お兄様の運命を変える、その日までは。
暗殺者が音もなく一歩踏み出すのを見て、とっさに問いかけていました。
「お兄様の命令なの?」
不思議と声は落ち着いていました。
「私はフラウ=フレイムローズよ。あなた、お兄様に仕えているのではなくて?」
お願い。
お願い。止まって。
服の下を冷や汗が伝い落ちてゆきます。
暗殺者は──
動きを止めました。
刃を握った手をだらりと下げ、輝きのない目を線のように細めてこちらを見ます。
そして、ぽつりと呟きました。
ほとんど聞き取れないほどかすかな、羽音のような声で。
「あの方は…………変わった」
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