第9話 どうしたら私だけのお兄様になっていただけますか?




 ノイン様に近づく女は全員まとめて抹殺する──


 この世界に来たとき、そう誓いました。

 今でもその気持ちは微塵も変わっておりません。

 パーティー会場でお兄様に近づくオーリアを見たとき、私は「虫唾が走る」という言葉を真に理解しました。

 あの、口の中に恐ろしく不快な苦みが広がる感覚。

 それに──

 頭の中にあるフラウとしての記憶や感情。それらも、今の私の意志ときれいに重なっています。

 フラウはずっとお兄様が好きでした。

 物語に登場する誰よりも長く、深く、お兄様のことを想ってきました。

 だからこう考えるのは至極当然のことです。


 誰にも渡さない。

 許さない。

 絶対に。


 でも、あのとき。

 考えてしまったんです。

 考えてはいけないことを。

 お兄様の──

 ────を。






「……お前は昔から体が弱かった」



 帰りの馬車の中で。

 無言で窓の外を眺めていたお兄様が、ぽつりと呟きました。

 皇太子の誕生パーティーを早々に辞去するなど、お兄様は望んでいらっしゃらなかったでしょう。原作でアシュリーがあれほどの醜態を晒しても、途中で帰ったりはしていませんでしたから。

 私は悪い方向に物語を捻じ曲げてしまった……。



「だが、もう十六だ。もっと外の世界を知るべきだと」



 そしてそれは、お兄様がおっしゃるような体の弱さが原因ではありません。



「私の浅慮が招いたことだ」



 いいえ。

 違います。



「今宵はやはり、アシュリーを連れてくるべきだったのかもしれないな」



 いいえ。



「いずれにせよ──お前が気に病むことはない」



 ……お兄様は私を慰めてくださっている。

 やさしい言葉をかけていただく資格など、私にはありませんのに。






 あのとき──

 アイラ=ブラックウィンドとお兄様が親密に寄り添っているのを見たとき。

 私の中にあったのはどす黒い感情でした。

 憎悪。嫉妬。殺意。

 今すぐ目の前の光景を搔きむしって、消し去りたい。なかったことにしてしまいたい。

 それができないならばせめて、あの女を殺したい。

 心からそう思ったというのに。

 私は別のことも考えてしまったのです。


 そう。

 お兄様の──

 幸せを。


 もし、万が一。

 お兄様があの女を愛しているのだとしたら?

 そんなことは無論あってはならないですし、考えてはいけないことでした。だって矛盾しているのですもの。


 ──私はお兄様を愛しています。だから、絶対誰にも渡したりいたしません。

 ──私はお兄様を愛しています。だから、必ずお幸せになってほしい。


 原作でお兄様が誰かと結ばれる描写はなかったと申し上げました。裏を返せば誰とでも結ばれる可能性はある、と。

 つまり、お兄様が他の女を愛することもありうる──ということ。

 考えてはいけない考えが頭をよぎった瞬間に、私の心と体は機能不全を起こしてしまいました。矛盾を処理することができなかったのです。

 前にも後ろにも進めない。

 私は、ただの役立たずになってしまいました。






「……………………ど」



 気がつけば、口が勝手に動いていて。

 窓の外を見つめていたお兄様の瞳が、ちらりと私を見ます。

 宝石のように美しい《真紅》の瞳。

 その瞳を見つめるだけで、私は幸せでした。

 前世の私は、いえ本来のフラウだって、自分の恋に見返りを求める気持ちはありませんでした。

 ただノイン様が、お兄様が好きで。大好きで。

 見つめているだけで、おそばにいられるだけでいい。



「……………ど、う」



 すみません。

 嘘をつきました。

 おそばにいられるだけで十分だなんて本当は思っていません。

 ただ、それは叶わないことだから。

 お兄様を危険に晒してしまうことだから。

 だからこうして歯を食いしばって、必死に押し殺して。

 私がこんなに我慢しているのに。

 それなのに。

 あんな……女。

 あんな女にお兄様を取られるなんて。

 嫌。

 絶対に嫌。

 私は。

 私は。

 私──は──



「……………っ」



 膝に置いた拳を限界まで強く握りしめて、顔を上げます。

 お兄様の顔がよく見えません。

 涙が、邪魔です。

 あふれてくる涙を瞼で押しのけて、何度も押しのけて。

 ようやく視界が開きました。

 同時に言葉も口から滑り出ていました。



「どうしたら、私だけのお兄様になっていただけますか──?」



 お兄様が──

 私を見ている。



「お兄様にとって、理想の女とはなんですか? 教えてください。お兄様の理想に、私がなってみせます。必ず。だから……!」



 お兄様が──

 瞼を閉じる。



「私だけを、見てください」



 言葉を吐ききって訪れた沈黙に、ゴトゴトと車輪の音が鳴り響きます。

 お兄様はご自分の眉間に拳を触れさせました。目を閉じたまま、まるで傷の痛みに耐える騎士のように、苦々しい顔をなさっています。

 ……申し訳ありません。お兄様。

 私のような者が、こんなことを言うべきではない。

 いえ、言うべきではなかった。

 ですから、お許しを願ったりはしません。

 どのような罰も甘んじてお受けします。

 そうして深く首を垂れた私の耳に、



「この世で最も」



 低くかすれて美しい──

 声がしました。



「悪い女」



 顔を上げると、お兄様は額に当てていた手を下ろし、再び私を見ていました。

 その口元に、酷薄な笑み。

 ぞくっと背筋に冷たさが走ります。

 ああ……私はこの表情を知っています。

 前世で。

 額縁に入れて飾ったこの方の笑みを、数えきれないほど見上げてきました。



「……それが私の理想だ」



 そうです。そうでした。

 私のお兄様は。



「フラウ。お前が私の理想の女になれると言うなら」



 この物語の──《悪役公爵》なのです。



「そのときは、喜んでお前だけのものになってやる」



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