渚のルーニィ

王生らてぃ

プロローグ

 その日、わたしは海で、妖精を見た。






 いつものように、夜の散歩に出かけていた時のことだった。


 街灯もなにもない、ただ、真っ暗で月明りだけが照らしているだけの波打ち際に、光り輝くものを見つけた。はじめは水面に月の光が反射しているだけかと思ったが、よく見ると、それは人間のような姿をして、確かにそこにいたのだった。



 すらりと長く細い手足。腰まで届く、波打った亜麻色の髪の毛。夜の闇に映える、真っ白な肌。彫りの深い顔立ちと、宝石のような青い瞳。――絵画の中にいるような美しい女性が、一糸まとわぬ姿で立っている。その足首を、寄せては返す波に晒して、どこか物憂げに空を見上げて、たたずんでいる。よく見れば、髪の毛や指先から、水がしたたり落ちている。



 海水浴でもしていたのだろうか。

 こんな夜中に?

 裸で?

 いや、そもそも――こんな時期になぜ?



 今は四月一日の夜。まだ春になりきっていない、肌寒い夜だ。まして海の水温はさらに低い。そんな時期に海に入る人なんているわけがない。


 わたしはいろいろな意味で、目を奪われた。


 その不気味さ、異様さ、そして――美しさに。


 すると、その人はゆっくりと水平線へと視線を移すと、そのまま海の向こうへ向けて歩き出した。足首が海の中へ沈んでいき、ふくらはぎ、膝、太腿、そして腰……長い髪が水面に漂い始めたあたりで、わたしは思わず声を上げそうになった。




「あの……!」




 けれど次の瞬間には、さっきまで目の前にあったその姿は、水面に揺れる月の光と混じり合って、消えてしまっていた。






 見間違い、だったのかもしれない。


 ただ月の光が、若い女性の姿に見えただけかもしれない。けれど、その姿ははっきりと目に焼き付いていた。見間違いとは思えない。だけど、この世のものとも思えない美しさだった。だからわたしは、あれは妖精だったんだと思った。あれは海の水の精ウンディーネ。それか月からやってきた――月の人ルーニィだと。




   ○




「あ……瑠璃るりちゃん。おはよう。今年も同じクラスだね」


「……」


「瑠璃ちゃん?」


「……え? ああ、玉ちゃん。おはよう」




 幼馴染の玉ちゃん――倉守くらもり玉枝たまえが、わたしの顔をじっと覗き込んでいた。眼鏡に三つ編みの、小さいころから変わらない、いつものスタイルだ。




「大丈夫? なんか、ぼーっとしてるけど」


「昨日、あんまり眠れなくて……」



 というか、まったく眠れなかった。家に戻って布団の中にもぐりこんでからも、あの光景が忘れられなくて、ずっと目が冴えて眠れなかった。いつの間にか朝日が昇ってきて、仕方なく起き上がり今に至る。眠くはないが、頭がぼーっとしてしまっている。


 玉ちゃんは自分の席に鞄を置くと、すぐにわたしの机のほうにやってきた。




「ほんとだ。ちょっと目が赤いよ。目薬、貸してあげよっか」


「ううん、平気だから。ありがと」


「なにかあったの? 相談に乗るよ?」


「そういうんじゃないよ、なんか目が冴えて眠れなかったってだけ」


「本当に?」


「なんでもないって」




 玉ちゃんはまだ不安そうな顔をしていたが、わたしは、昨日のことを何と説明したらいいかわからないし、そもそも、あんまり人に話したくはなかった。なんとなく、自分の中にとどめておきたかった。




「でも、よかったぁ。今年も瑠璃ちゃんと同じクラスで」




 玉ちゃんはほっと胸をなでおろしている。


 ずっとぼーっとしていたから気にしていなかったけれど、教室には、あまり馴染みのない生徒が多い気がする。そういえば、今日から高校二年生。進級に伴うクラス替えで、人見知りの激しい玉ちゃんは不安になっているのだろう。




「去年も同じこと言ってたよね。周りに知らない人ばっかりだって」


「うう、だって……」


「玉ちゃんも、もう子どもじゃないんだから。そろそろ人見知りを克服していかないと」


「そ、そんなに簡単なことじゃないよ……」


「ていうか、こんな小さな学校なのに、クラス替えくらいで不安になることないじゃん。確かに去年は違うクラスだったけどさ、ぜんぜん知らない人ってわけじゃないでしょう?」


「そうだけど……」




 ちょうどその時、朝のホームルームのチャイムが鳴る。




「ほら、席に戻らないと……ふわぁ」


「う、うん」




 玉ちゃんは慌てて自分の席に戻っていく。


 わたしは、こみ上げてくる大きなあくびをこらえるので精いっぱいだった。今ごろになって眠気が強くなってきた。こんな調子で始業式を寝ずに乗り越えられる気がしない……。


 クラスメイト全員が席に着いたころ、ガラッと教室の扉が開いて、担任の先生が入ってくる。




「みなさん、おはようございます。朝のホームルームをはじめますよ」




 担任の室戸むろと秋汰しゅうた先生は、去年もわたしの担任だった。ふだんはちょっとラフな雰囲気で生徒にも友だち感覚で接することが多いけれど、今日は式典だからか、びしっとフォーマルに決めている。




「今日はこのあと、始業式に出席するために体育館に移動します。そのあとはロングホームルームの時間があって、お昼前には下校となります。では、出席をとります……が、その前に」




 と、先生が言葉を止めて、窓際の後ろの席あたりに一瞬視線を向けた。わたしをはじめとして、多くの生徒がそっちを振り返った。


 ひとつ席が空いている。


 初日からさっそく休んでいるクラスメイトがいるのだろうか? と思ったが、先生がその疑問を打ち消すかのように告げた。




「今年からこの学校に通うことになった、転入生がひとりいます」




 えーっ、という驚きの声が、朝の教室の緊張感を一気に吹き飛ばした。




「転入生?」「ウソでしょ~?」「漫画でしか見たことない」「どんな人かな?」「男子? 女子?」




 一気に色めき立つクラスの声が、どこか遠くに感じられる。とにかく眠い。みんながキャーキャー騒いでいるのに乗じて、こっそりこらえきれなかったあくびをした。




「はい、静かに。さっそく紹介しますね」




 じゃあ、入ってください。


 先生が告げると、みんなの視線が教室の扉に集まる。


 がらっと扉が開く。


 ――その転入生の姿を見て、クラス全員が息を吞んだ。




「え……」




 わたしもそうだ。


 眠気が、一気に吹っ飛んだ。







 真っ白な肌。


 海のような青い瞳。


 日本人離れした、彫りの深い顔立ち。


 一七〇センチはあろうかという、高い身長。


 ほっそりした、長い手足。


 そして――腰のあたりまで伸びている、波打つ、亜麻色の髪の毛。







春月はるつきひかるです」




 金管楽器のように、その声は、静まり返った教室によく響いた。


 見間違えるはずもない。


 それはまさに、昨日の夜にわたしが見た妖精だったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る