第一章
「お前はすごいよな、ユリア・クロジッド」
「任務中に私語は厳禁でしょう。持ち場に
「
蔵書室があるのは、ヨルン国の城内でも一番
ここは資料などを置いてある倉庫で、夜はまったく
自分は蔵書室の入り口の警備、ジョージは蔵書室がある建物の入り口を警備している。
だから本来なら、ジョージは外で見張りをしているはずだった。
一晩中の見張りは確かに
なるべく相手をしないようにしているが、ジョージは気にした風もなく話し続けた。
「騎士団でもエリート集団の近衛隊に入れた時は一族総出でお祝いしたのに、十年経っても見張りしかやらせてもらえないんだぜ。それに比べて、お前は
ジョージの言葉は賛辞のように聞こえるが、目は笑っていなかった。
「無視するなよ、ユリア。お前は軍学校では
ジョージが
「
どきっとしたが、顔には出さなかった。
「おい、聞いているのか?」
「仕事に戻ってください。隊長に報告しますよ」
冷たい視線を送ると、ジョージはむっとした顔つきになって背を向けた。
「わかったよ。本当にお前って真面目で
ぶつぶつ言いながら、ジョージが
ようやく姿が見えなくなって息をつく。
努力と運の良さもあって、騎士団でも
夢を
「危なかった。あの事がばれたら、軍人生命が終わる。気をつけないと」
気を引き
「誰かいるのか!」
人の気配はなかったが、頭の中で警告音が鳴る。
「誰だっ」
曲がり角の向こうに人がいた。黒いマントにフードを
そのまま背後に回られて、口を
「あやしい者じゃない。用があって来ただけだから
落ち着いた低い声だった。何かその後も話していたが、耳には入ってこなかった。
声からも体格からも彼が〝男〟だというのは明らかだったからだ。
「うわぁぁぁぁ!」
体中に虫が
「男がわたしに触るな!」
全身の力を込めて、男の顔を
渾身の
殴られた勢いで、フードが取れて、男の顔が見えた。その顔には、見覚えがある。
「まさか、レオン王……?」
思わず
一度しか見た事がないが、〝大陸の太陽〟だと噂されるレオンは
まだ十九歳だが、国王としてファーストデンテ国を治める
数ヶ月前に行われた、他国の貴族や王族を招いたパーティーで、ローラとレオンが
男はそのレオンとうり二つだが、ファーストデンテ国の国王がヨルン国を
「私を後ずさらせるなんて、なかなかいい拳だね。ヨルン国の兵士はよく鍛えられているようだ。……おや、その顔の発疹は何だい? じんましんかな?」
レオンそっくりの男が、こちらをまじまじと見つめた。
はっとして、
「関係ないでしょう。……何者だ!」
ファーストデンテ国の国王のはずはないと思ってそう
左腕で顔を
「レオン王と呼んだだろう。知っているのになぜ聞くのかな。それよりそのじんましんはどうしたんだい? 以前、妹が
男は腕を組んで、観察するようにこちらをじっくり見つめた。
「ち、
「いいや。
「黙れ! レオン王が我が国を訪れたとは聞いていない。本物のはずがない!」
混乱していたのか強気な言葉が出た。しかし男はうろたえるそぶりさえ見せない。
男が片目を
「内密の訪問なんだ。ヨルン国の国王と
にこやかな表情と声だった。あやしいそぶりも、慌てている様子もない堂々とした態度だ。しかし頭の中で油断するなと警告音が鳴る。
軽い印象の口調と態度だが、見かけにだまされるなと。
体や指先の動きまで、彼には
(この
剣には自信があるが、直感がそう
目の前の男からは、
ファーストデンテ国の国王は、国で一番の剣の使い手だと名高い。
もし彼が本物だとしたら、これだけの
内密の会見なら、国王の訪問を近衛隊の隊長しか知らされていないのも
「急いでいるから、失礼して通してもらうよ」
片足を
「……お通しできません」
「なぜ? 私は本物のファーストデンテ国の国王、レオンだ。あやしい者ではないよ」
「あなたが本物のレオン王だとしても、許可のない者を通すわけにはいきません」
レオンが
「融通が利かないタイプなんだね。それだと生きづらくない?」
余計なお世話だと心の中で叫んだ。レオンが
「じゃあ、通してくれれば、殴った事は報告しないであげるって言ったらどうかな?」
言葉は
「一兵士が
ただではすまないだろう。軍人生命にも
「もちろん、内密に通してくれれば、殴った事も君が内緒で通してくれた事も
軍人として身を立てたいなら、彼の囁きに頷けばいい。
一度
「……蔵書室には許可のない者は入れません。たとえレオン王でもです」
ヨルン国に忠誠を
レオンはふいに真顔になって目を見開いた。しばらくして、ふっと笑う。
「……なるほど。そうか。ならいい」
身構えていたが、あっさり身を
彼はそのまま廊下を歩いて、曲がり角を曲がる。
彼の姿が見えなくなってから、ようやく息をついた。
じんましんが引くのにしばらくかかる。
かゆみを
「何だったんだ、いったい……。それにずっと
レオンが言っていた事は当たっている。こんな症状が出るのは、過去の
絶対に他人にそれを知られてはならないので、ずっと隠してきた。
ようやくじんましんが引いて、気持ちが落ち着いた。
「他国の国王を殴ったのだから、処分されるのだろうか。でも……夜中にこっそり蔵書室に
間違った事はしていないと自分に言い聞かせて、任務の
● ● ●
「いつになったら、
自宅で食事をしていたユリアは、母の言葉に思わず息をついた。
「さあ。わたしにもわかりません」
「わかりませんって、もう二ヶ月も仕事していないのよ。お父様が
「……レオン王が夜中にこっそり蔵書室に忍び込もうとしたからです」
「でもレオン王は、陛下との密談の前に風に当たりたくて散歩していただけと言われたんでしょう。それで蔵書室がある建物に迷い込んでしまったと。それなのに、あなたが勝手に
どこをどうねじ曲げたらそういう話になったのか、さっぱりわからない。
あの
本当の事なので認めた。レオン王は無断で蔵書室に入ろうとしたと
「蔵書室に忍び込もうとなさったとしても、相手は国王なんだから逆らわずに入れて差し上げればよかったじゃない。何で殴ったりしたの? まさか、あの病気がまだ……」
「違います。
母には心配をかけたくなかった。だから本当の事は言えない。
「それにいくら他国の国王でも、許可がないのに蔵書室に通すなんてできません。それはわたしの職務規定に反します」
「その
「尊敬しているので、父さんにそっくりでけっこうです」
言い返すと母は
真実をねじ曲げて告げ口したレオンの事を考えると、
(隊長には殴ったのにはそれなりの理由があるだろうと聞かれた。理由によっては処分しない方向に持ち込めるかもと。でも言えなかった……。男性
自分が
レオンの
子どもの
男達に囲まれて殺されかけたのだ。それ以来、心構えなく男性に触られるとじんましんが出て、つい相手を攻撃してしまう。
軍人は心身ともに健康なのが第一条件だ。これが知られたら、
(殴った理由を言えば、情状
「レオン王。許可なく蔵書室に侵入しようとしたくせに、告げ口とは
思わず
「ユリア! 城からお
母は真っ青になっていた。自分もそうだ。
(とうとう、
もしそうなら、今日で軍人生命は終わりだ。ショックのあまり
いつでも任務に戻れるよう、軍服は準備してあった。
このまま退役になったら、
いろんな思いが心に
何を言われても、最後まで軍人らしくあろう。ユリアはそう心に決めた。
● ● ●
近衛隊の
ユリアが連れて行かれたのは、きらびやかな
「お待たせしてごめんなさい、ユリア」
確か同じ年だったはずだが、自分とは中身も外見もまったく
「話をするのは初めてね」
「はい。ローラ
「かしこまらないで。
思わず目を
順調にいけば彼女の護衛になるはずだったが、蔵書室の一件でその未来は絶たれた。
ローラに
(てっきり隊長に強制退役を命じられると思ってたけど、何でローラ姫が……?)
「
微笑むローラは同い年とは思えないほど愛らしい。守ってあげたくなる
「いいえ。……何かご用ですか?」
「うっ……ううっ」
(な、泣いている……? どうして?)
「ローラ姫、どうなさいました?」
「ごめんなさい。急に泣き出してしまって。実は、
おめでたい話だと思ったが、ローラは悲しそうに泣き続けている。
どうしていいかわからず、無礼だと思いつつ彼女の
しばらくそうしていると、ローラがハンカチで
「ごめんなさい。
ローラはしばらくしゃくり上げていたが、やがて泣きはらした目をこちらに向けた。
「ホラクス国が、ヨルン国を
その話はよく知っていた。思わず目を
「はい。軍事国家ホラクス国は、他国を侵略する事で国を大きくしてきました。数年前から、彼らが次に狙っているのはヨルン国だという
「噂ではないの。彼らはヨルン国で採れる宝石の利益を狙って、この国を侵略しようとしているわ。確かな情報では、一年以内に侵略が始まる可能性が高いの」
ショックのあまり、息を
ローラが落ち着こうとしたのか、息をつく。
「ヨルン国には質のいい宝石が採れる鉱山がいくつもあるでしょう。その宝石の利益で国も民も
大陸に八つある国のうち、軍事国家ホラクス国と経済大国ファーストデンテ国は並び立つほどの大国だ。確かにファーストデンテ国に後ろ盾になってもらえれば、ホラクス国はそうやすやすとヨルン国を侵略できなくなるだろう。
頭の中で、いままでの話と二ヶ月前の出来事が、一つに
「さきほどご結婚なさると
ローラが小さく
「ファーストデンテ国のレオン王よ。結婚する事で彼らはヨルン国の宝石の流通を一手に引き受け、
なるほど、と心の中で
「ローラ姫はレオン王がお好きなのですか?」
レオンの印象は自分にとっては最悪だが、ローラが彼を好きならば、良い
「レオン王とは、一度パーティーでご
「気が進みませんか?」
ローラが
「女性関係が派手なのは仕方ないと思うの。あれだけ
「三年前の……ファーストデンテ国の内乱の事ですね」
ローラが目に涙をためて頷いた。
「前王がお
叔父に加担した貴族や軍人も、厳しい
「……いろいろ噂されていますが、レオン王は国王として本当に
少しでもローラの不安を
「でも血の繋がった叔父を目の前で処刑するような方よ。そんな方に
「そんな……。それでは政略結婚ではないですか」
あんな
ローラが泣きそうな顔で微笑む。
「国を守る為だもの。私が嫁ぐ事でみんなを守れるなら、行くつもり。だけど、あの方が怖い。何か失敗したら、私も処刑されそうで……」
うるうるしたすみれ色の瞳で見つめられると、胸がぎゅっと
「ローラ姫。わたしでお力になれる事があれば……」
思わず声を上げると、ローラは両手を胸の前で組んだ。
「本当に? 実はあなたにお願いがあって呼んだの。突然だけど、私と
その提案は予想外で、理解するのにしばらくかかった。
「わたしが……ですか。わたしは
「知っているわ。でもぜひあなたにお願いしたくて。レオン王は
すみれ色の瞳にじわりと涙がにじんだ。それでもローラは泣くのを
「でもあなたは、レオン王に堂々と意見したと聞いたわ。彼を
ローラが
「結婚式まででいいの。結婚式が終われば私は
ローラが両手を額に押し当てる。手も額もすべすべで柔らかい。
「ローラ姫のお力になりたいのは山々ですが、わたしがレオン王を殴ったのは事実です。わたしが一緒に行けば、レオン王の怒りをかうのではないでしょうか?」
一番心配な事を口にすると、ローラは顔を上げた。
「レオン王には、あなたを同行させたいと手紙でお願いして、許可をもらったわ」
「えっ!? 本当ですか?」
意外すぎて目を見張った。
(何で許可されたんだ? 一兵士が国王を殴ったんだから、処刑されたっておかしくないのに。まさか、わたしを呼び寄せて
ヨルン国にいては手が出せないからではないかと青ざめると、ローラが
「心配ないわ。レオン王は殴った事は罪には問わない、あなたともう一度話をしたいから連れてきていいとお返事をくださったの」
(罪には問わないけど、近くに来させて
レオンにされた事を思うと、そんな考えが頭に
「だからお願い。一緒に来て。国の為にどうしても
ファーストデンテ国に行ったら、レオンに何をされるかわからない。
しかし目の前の弱々しいローラを放ってはおけなかった。何よりヨルン国の平和を守る手助けができるのなら、たとえレオンにどんな嫌がらせをされても
「わたしでよろしいのですか?」
「あなたじゃないと
必死の願いが心を打った。国の平和の為に、
そんな彼女の力に少しでもなりたい。
「わかりました。わたしでお力になれるのなら」
覚悟を決めて頷くと、ローラの
「
そうだったのかと目を見開く。同い年だとは知っていたが、生まれた日まで同じとは知らなかった。ローラが
「私は
ローラの占い好きは有名だ。あまりに当たるので、彼女は
正直、占いには興味はないが、ローラの夢を見ているようなきらきらとした
「確かに運命かもしれないですね。結婚式までの間、護衛はお任せください。
「ありがとう、ユリア。とても心強いわ」
● ● ●
ユリアは、馬車の窓から辺りを
「ローラ姫。そろそろ国境です。国境を越えたら、ファーストデンテ国の城まで、半日ほどで
向かいに座るローラに向き直る。赤いビロードの座席に座るローラは、不安げだ。
「いよいよね。ドキドキするわ。レオン王とは一度ご
レオンの顔を思い出して、はらわたが
「レオン王は三年前、十六歳で国王に
(いくら事実とはいえ、レオン王を
心の底では、結婚を喜べない自分がいた。ちょっと
「……立派なお相手ですが、よく知りもしない方と結婚なんて不安ですよね」
目を落とすと、ローラは
「
「ローラ姫のお気持ちに、民を代表して心からの感謝を
胸に手を当てると、ローラが泣き笑いの表情になった。
「ありがとう。……ああ、話をしているうちに国境についたわね」
ローラが涙を
「ここを過ぎたら、ファーストデンテ国の領土ね」
「はい。まだしばらく山道が続きますが」
辺りはうっそうとした森だ。この山を下りると、ファーストデンテ国の町並みが見えてくるらしい。
検問所での手続きが終わり、再び動き出した馬車にしばらく
「駄目ね、やっぱり不安が大きくて息が苦しくなってしまう。こんな時は……」
ローラが荷物から取り出したのは、口がコルクで
「私が
「ローラ姫自ら煎じられたのですか?」
「お茶も煎じるし、お
「すごいですね。わたしなんて卵を焼けば
「でも、ユリアはとっても強いと聞いたわ。軍学校の
ローラにきらきらした目で見つめられて、恥ずかしい気持ちになる。
自分とはまったく正反対のローラ。
出発前、ファーストデンテ国に同行する百人ほどの護衛や侍女、侍従達一人一人に言葉をかけて回っていたのを見た時は、何とすばらしい王女だろうと感動した。
ヨルン国の王族は民とは
だがローラは、以前から分け
(ローラ姫は、きっといい
そうは思うが、結婚に反対するわけにはいかない。この結婚に国の未来がかかっている。
ローラが嫌がっているならともかく、彼女も
自分が何か言う筋合いはない。それでも気持ちを
「よかったら、あなたもどうぞ。気持ちが落ち着くわ。温めて飲んだ方がおいしいけれど、馬車の中では無理だし。ごめんなさいね」
「いえ、わたしごときが姫が煎じてくださったお茶を頂くなんて
「何を言っているの。私が無理を言ってついてきてもらったのよ。このぐらいさせて」
首を
せっかくここまで言ってもらっているのに、断るのも失礼かとグラスを受け取る。
「では、お言葉に甘えて」
ローラが自分のグラスを目の高さに持ち上げた。
「ヨルン国の平和を願って」
「すごくおいし……うっ」
何事かと窓を見ようとした時、声が聞こえた。
「
言葉を理解した
● ● ●
鏡に映ったローラの顔を見つめて、ユリアはいままでの事を思い出していた。
「そうだ。ファーストデンテ国に行く
鏡の中のローラが
「何か変だな。いつもはドアノブは
そう
「いや、
シルクのネグリジェに金色の巻き毛。すみれ色の
小柄で、大陸の
「いや、あり得ない……。鏡に
鏡をじっくり観察するが、特に異変はなかった。
「そうか、わかった! これは夢だ。お料理上手で裁縫上手で天使の微笑みを持つ
一気に気持ちを
「すぐに目が覚めるはず。……それにしても細部まで
部屋の
「想像力は
頬を思い切りつねると、痛みで顔をしかめた。鏡に映るローラが青ざめる。
「どうして痛いんだ。痛いって事は夢ではないという事。つまり……」
夢でもなければ、鏡に仕掛けもない。だったら、いま見ているのは現実だ。
「何で、わたしがローラ姫になってるんだ────────!!」
どんなに訓練を積んでいても、この予想もしなかった非常事態の前では、さすがにうろたえる事しかできなかった。
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