今日、虹の彼方で

東 里胡

今日、虹の彼方で

今日、虹の彼方で(1)

「今日、大変だったのよ。由布子さん家からボヤが出ちゃって」

「嘘でしょ?! 大丈夫なの?」


 母から今日の出来事を聞き、慌てて離れの灯りを確認する。

 家の電気は消え、既に眠っているみたい。

 由布子さんはガスコンロにお鍋をかけていたのをすっかりと忘れ、温室のお花に水をあげていたらしい。

 どこからか漂う焦げたような臭いに気づいた母が、慌てて駆け込んで事なきを得たとのことだった。


「まあ、ボヤですんだし、由布子さんは無事だったからね。ただ、お鍋が一つダメになったわね」


 笑えない冗談を言う母に顔をしかめた。


「由布子さん、なにを作ってたの?」

「多分、アップルパイじゃないかしら」

「多分?」

「だって鍋の中は真っ黒になっていたし、由布子さん自身が何を作っていたのか覚えてないって言うんですもん」


 キッチンの中に剥いたリンゴの皮が無造作に放置されていたらしい。

 昔からお菓子作りの得意な由布子さんのことだ。

 アップルパイのリンゴでも煮ていたのだろう。

 それにしても、何を作っていたのか覚えていないなんて、いよいよ、か。

 小さくため息をついた私に、母も仕方なさそうに笑う。


「我が家に来てくれたらいいのにね」

「由布子さんは来ないよ、離れが大好きだもん」


 母はこの家に一緒に住まないかと、5年程前から由布子さんを誘っている。

 けれど、由布子さんは「私は一人が気楽なの」と、いつもやんわり断っていた。

 だからといって、人嫌いなわけじゃない。いつだって私や母の訪問を迎え入れてくれたし、仕事の関係者さんだって、ウェルカムでもてなしていた。

 由布子さんは、あの家が大好きだから離れたくないだけなのだ。

 水色の壁にエンジ色の三角屋根、ポストには小さな風見鶏がついた可愛らしい洋館。

 50年前に由布子さんが自分で建てたその離れは、まるで童話の世界にでも出てきそうな雰囲気をかもしだしている。

 多少窓枠がガタついていたり、ところどころ建付けが悪かったりもしてるけれど、手入れは行き届いていた。

 甥である父が、時々、日曜大工で直してあげていたりもするし、本人が大の掃除好きだったりもするから。

 普通のご老人よりも元気で明るく何よりもお洒落で、いつまでも由布子さんは若いんだ、もしかして年を取らない魔法使い? なんてつい最近まで本気で思っていた。

 ただ現実は残酷。御年94歳。もうすぐ95歳になるこの一年で、由布子さんは少しずつ色んなことができなくなってしまった。

 物忘れも年々酷くなっている。

 いつまた今日のようなことがあるとも限らない。

 そう思うと心配で仕方なくて――。


「ねえ、お母さん。私が由布子さん家に住もうかな」

「それ、いいかも」


 お母さんは私の言葉の意味を噛みしめて、笑顔を覗かせた。

 来てくれないなら、こっちから出向けばいい。

 一緒に住むのが私ならば、由布子さんはきっと歓迎してくれる。


 松野由布子さんは、私が小さい頃に亡くなった祖母の長姉だ。

 生涯独身を通し、実家の敷地内に洋館を建てた少し風変わりな人。

 どんなに年をとろうとも少女のような雰囲気をまとわせている由布子さん。

 おばさんとかおばあちゃんと言われるのが大嫌いで、だから私や母も由布子さんと親しみをこめて呼んでいる。

 特技はお菓子作りと紅茶を上手に淹れること、趣味は温室でキレイなお花を咲かせること。

 それから、由布子さんにはもう一つ名前がある。

 絵本作家の『まつの ゆう』先生。

 昭和から平成にかけて小さい子に大人気の由布子さんの絵本は、何度も重版されて今も店頭に並んでいる。

 体調不良が増えたため10年前に引退してからは、趣味程度で時々書いているみたいだ。


「サナが仕事に行っている間は、なるべく私が由布子さんと一緒にいるようにするわね。夕飯なんかはお母さんに任せて」


 母の提案に頷いて、思い立ったがなんちゃら。

 その日の夜から、物置部屋と化していた由布子さん家の二階の六畳間に引っ越したのだった。

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