赤ワインの湖

生田なつあき (なつあきじゃんぷ)

第1話 ひとくちのワイン

木造建築の小さな家に

夕陽がゆるりと降りてきた。


2階の階段から身を乗り出し

フォガルティ・キャッシュという名の少年が

目を細めて覗いている。


彼の視線の先には 彼の両親が ゆったりと落ち着きながら 赤色に透き通るワインを静かに嗜んでいた。


キャッシュの父

「 今日もいい取引が成立したよ。もうじき隣町のすべての飲食店が君の自信作のワインを提供してくれる。多くの町の人たちが喜んでくれる。世界一のワインだと。毎日頑張っている君のおかげだよ。僕もここが見せ所だな。君のために惜しみない努力を捧げよう。」


キャッシュの母

「 本当に嬉しいわ。ここまで大変だったでしょう…?あなたの積み重ねがあってこそ、私たちがこうしてみんなから喜んでもらえるようになったのよ。私のことを誰よりも褒めてくれたからここまで一緒に頑張ってこられたの。あなたの誇りは私の誇りよ。乾杯しましょう。」


キャッシュの母は先代の家族から受け継いだ小さなブドウ畑とワイン倉庫から努力の結晶である赤ワインをゆっくりと流し込む。


彼女の横顔を微笑ましく眺めながら、キャッシュの父も美味しそうにワインを一口。腕の良いセールスマンである彼は、彼女の努力する姿に感動をいだき、覚悟を持ってワインを色々な場所へと売り歩き裕福な家庭に貢献をしている。


彼らが美味しそうにワインを楽しむ姿を見てキャッシュも子猫のように前のめりになり

大きな丸い目でじっと見つめていた。


キャッシュもまた 頬を赤らめて 目をとろけさせる 赤ワインの世界を見てみたいと思っていた。


口元が美しい赤い波に揺られる気分はなんと甘美なことだろう。そして夕陽に照らされるような暖かい顔を浮かべられるのは、どれほど幸せなことなのだろう。


あたりに ふんわりと漂う ワインの香りを楽しみながらキャッシュは 白い樽と煉瓦造りの暖炉のそばに開けられたワインボトルを眺めていた。


キャッシュの母

「 あら、フォガルティ。ごめんなさい。

起こしちゃった?…ワインはまだちょっとだけ早いかもしれないけれど、レーズンサンドなら一緒に食べてみない?」


キャッシュの父

「 おお!そうそう。これもお母さんが作ってくれた自慢のお菓子なんだよ。見ておくれ。このクリーミィなチーズに甘く煮たレーズンを程よく詰めて…ほろりととろける柔らかいビスケットをこうしてサンドすれば…さぁ、召し上がれ。」


キャッシュはレーズンサンドを受け取り

「さく…」と、ひとくち。


柔らかいチーズのクリームに心地よくクッションになるビスケット。ホロリと小麦が優しく砂時計の砂のように崩れる頃に、レーズンの凝縮された鮮やかな風味が琥珀色に広がってゆく。


キャッシュの母

「 …いい笑顔ね。……おいしい?」


キャッシュは、柔らかい笑顔で頷いた。


無口な子で喋るのが苦手ではあったが

彼の見せる笑顔は心が暖炉の火のように暖められるほど優しい笑顔だった。


キャッシュの父

「 あぁ、よかったよかった!美味しいだろう!お父さんとお母さんは、キャッシュの笑顔が見たくて頑張ってきたからね。」


キャッシュの父は キャッシュのふわふわした髪を 猫を寝かしつけるように ゆっくりと撫でてくれた。


キャッシュはゆったりと瞳を閉じながら

視線の先にあるワインをちらりと眺めた


この透き通ったルビーのようなワインをここで飲んだらどうなるのだろう。この眠たくなるような良い匂いだ。ぶどう畑で感じた赤色の風のように鮮やかで重く水彩絵の具が頭の中で広がってゆくような…そんな感じに違いないのだろう……


キャッシュの周りの世界は ろうそくの火が消えるようにゆっくりと暗くなりはじめた。


そこからまたマッチの火のように、すぅっと明るくなり始めるとベッドの毛布のぬくもりが肌にじんわりと伝わってくる。


それと同時に、あの香りがキャッシュを包みこんだ。長い眠りからさめたぶどうの暖かい匂い…ほどよく甘く流れ込む飲み心地…潤いながら一息ついた時…心に赤い花が開くように。


キャッシュは もそもそ と毛布から這い出ると 音もなく階段を降り…

黒く艶のあるワイン瓶の目の前にやってくる


わずかに力を込め 木のコルクを ぽんと外す


……頭の中で 何かが どろりとはじける

キャッシュの周りの音が一瞬で消える

何かを強く求める眼差しをワイン瓶に向けた

彼は左手に小さな窪みを作り

右手でワイン瓶をわずかに傾けた


とぷ…


左手に小さな赤い湖が流れると


た……た……た…


紫色の雫が手から垂れはじめる


口元に近づけ ぎこちなく 左手を傾ける


すぅーーー………… たん たん たん たん


水滴が床に落ちるたびに小さな花火が打ち上がるような感覚がした。



柔らかい… なんだろう………これ……


凝縮されたブドウの真っ赤な清流が

暖かい霧に覆われて彼を飲み込んでゆく

わずかに感じる 黒いビター

ぼおっ…と 眠たくなり 幸せな匂いがする

この眠りの中でキャッシュはダンスをしている。煉瓦造りの建物で白い手を月に伸ばし…

ゆっくりと回りつづけているのだ…

でも…届かない。

彼は静かに 赤い湖に潜り 深く黒い場所へ

もっと…もっと…気持ちよく………


…きゅっ。

わずかに残っていた理性がコルクをきつく締めた。何か嫌なものに突き動かされるように雑巾で黒い水滴を残さず拭き取る。


どくどくと堪えようが難しい心臓の音を感じながらキャッシュはひと仕事を終えて

椅子に かたりと 腰掛けた。


体から風船のように抜けていく空気

官能的な匂いがする

月明かりに映るキャッシュの顔は


誰にも見せたことのない

官能的な笑顔をしていた。





( つづく )

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