イミテーション・ガールズ

逸木裕/小説 野性時代

第1話

イミテーション・ガールズ──2002年 春




 子供のころから、熱中というものを知らなかった。

 小学校、中学校と、わたしの周りには何かに熱中している子がいた。隣に住んでいるざきさんはヴァイオリンに熱中していて、ずっとコンクールに挑戦していた。中学のソフトボール部で一緒だったさいさんは、わたしがけろりとしていた引退試合で声を上げて泣いていた。

 二週間前、わたし──さかきばらみどりは、高校二年生になった。

 この十七年弱を振り返ってみると、わたしの人生は〈常温の水道水〉という感じだ。運動も勉強もそれなりに好きで、それなりに得意。好奇心もあるほうだし、友達もそこそこいて、家族関係も良好。成績表はほとんどが五段階の四で、特別に得意な科目も、格段に苦手な科目もない。口当たりがよく、温度もちょうどよく、それなりにミネラルも入っていて、まあまあしい水道水。

 飲み下せないほどの熱湯や、甘すぎる砂糖水や、舌にびりびりとくる炭酸水、そういうものを求めているわけじゃない。コンクールで落選したときの瀬崎さんと道端ですれ違ったことがあったけれど、魂が抜けているというか、そこにいてもそこにいないような、なんとか形だけがこの世に存在している感じがしたものだ。ああはなりたくないとか、逆にあそこまで打ち込めることがあってうらやましいとか、そんなことも感じない。ただ、自分は熱中とは無縁で、これからもそうだろうという現実認識だけがあった。

 高一、高二とずっとやっている図書委員も同じだった。一生懸命活動している人はいたが、わたしはクラスの中に成り手がいないからやっているだけで、毎日ただなんとなく仕事をこなしている。

 そんなわけで、わたしにとってはその文庫本も、いつもの日常業務のひとつだった。

「ごめん。返却期限、切れちゃった」

 昼休み、図書室のカウンター。クラスメートのもとれいに差しだされた文庫本は、バーコードリーダーを当てると一ヶ月も延滞していた。春休みの前から借りていたようだ。

「次から気をつけてね」

 と言った瞬間、怜は不愉快そうにまゆをひそめた。そこまで強く言ったつもりはなかったので、わたしは当惑した。怜は無言できびすを返すと、わざとらしく足音を立てて去っていく。

 そこで、わたしは気づいた。

 文庫本の背表紙。カバーに巻かれているビニールに、ほんの爪の先ほどの、小さな穴が開いていた。しかも、穴の縁が、わずかに黒ずんでいる。

「怜」

 熱中していないからこそ、仕事はきちんとやらなければいけない。そんな使命感があった。わたしは図書室を出て、怜を捕まえた。

「何、これ。どうしたの」

 本を見せて言ったが、怜はそちらを見ようともせず、わたしのほうをにらむ。

「だから、遅れてごめんって言ってるでしょ」

「そうじゃなくて。本のここ、何?」

「は?」

 背表紙の破れを指差したが、怜はわたしを無視して再び踵を返す。これ以上問い詰めても意味がないと思い、わたしは遠ざかる背中を黙って見つめた。

 ビニールの穴から、何かが漂った。鼻を近づけてくんくんとぐと、古本のかび臭さに混ざって、わずかに焦げたような臭いがした。

 火だ。

 これは、火であぶられた跡だ。


 昼休みが終わりかけ、教室に戻る途中で、もうひとつ事件に出くわした。まつおかよしの一派が、後輩と思われる女子を取り囲んでいた。

 好美は、わたしたちの学年のボスだ。一年生のころから人脈が広く、上級生や教師にもパイプがある。仲間意識が強く、身内に対しては優しいが、敵と判断した相手には容赦がない。

 わたしはいまのところ、どちらでもない。クラスの中でなんとなく生きているわたしは、仲間にしたいほどのピースではないし、排除するほどの存在感もない。

「何泣いてんだよ。被害者ぶりやがって、テメーのせいだろ」

 好美にすごまれ、後輩の女子は涙ぐんでいる。一方的な暴力を、廊下を行く生徒たちは見て見ぬふりをして通り過ぎていく。別にそれは責められることじゃない。強いものに不用意に逆らわないというのは、処世術の基本だ。

「好美」

 わたしは話しかけた。にこりと笑い、腕時計を示す。

「そろそろ昼休み終わるよ。ほら、教室行こう?」

「入ってくんなよ、榊原。関係ないだろ。消えろよ」

 タイミングよく、チャイムが鳴った。毒気を抜かれたのか、好美はちっと舌打ちをして、教室に向かっていく。取り巻きの女子たちがわたしをめつけてから、好美のあとに続く。わたしは後輩の女子に笑いかけた。彼女はおびえたようにびくっとして、足早に去っていった。

 わたしはたまに、こういうことをする。誰かが怒っている現場に入っていって、適度な温度の水を差す。差された側は少し白けたような感じになって、散り散りになる。場を適温に調整するための、言葉、表情、行動。昔から、こういうことは得意なのだ。

 別に正義の使者を気取っているわけじゃない。人を助けたいという気持ちはあったけれど、感謝されたいという下心も当然ある。面倒くさくて通り過ぎることもあるし、気が進まなくても声をかけてしまうこともある。ぐちゃぐちゃと絡まった感情の総体。要するに、ただの、気まぐれだった。

 教室に入ると、隅にいる怜の姿が目に入った。怜は外を見ていて、目を合わせようとしない。わたしは自分の席に座る。

「授業をはじめるぞー。Stand up, please!」

 タイミングよく英語のきよ先生が入ってきて、全員が立ち上がって礼をした。

 ──清田先生、髪切ったね。

 座ると、隣の席のしんどうささやきかけてきた。言われてみると、いつもよりツーブロックの髪が短くなっている。よく気づいたねとこたえると、彼女は満更でもない顔をした。

 萌音は、恋愛に〈熱中〉している子だ。

 昔からの付き合いだが、小二のころにはもう彼氏がいて、それから何人もの男子とくっついたり別れたりしている。恋をしているときの萌音は、判りやすい。髪の分け目から口の端、身体の隅々に至るまでベストな〈進藤萌音〉をビシッと作り、キープする。わたしにはとてもこんなことはできない。

 清田先生に目をやった。

 相変わらず、太陽のような先生だった。去年、今年と、わたしたちの代の学年主任をやっている。長身で若く、明るくて理知的。アメリカからの帰国子女で、英語の発音もりゆうちよう。実際に清田先生が赴任してから、この学校の英語力はかなり伸びたらしい。萌音ならずとも、女子から人気があるのもうなずける。

 ──ね、この前のこと、それからどうなった?

 萌音が聞いてくる。授業中にする話か──とあきれつつも、無視するわけにもいかない。

 ──だから、その話は無理だって言ったでしょ。

 ──お父さんに話してくれた? 清田先生、結婚してないことは知ってるんだけど、もっと情報が欲しいんだよ。好きなものとか、彼女がいるかとか。

 ──話してないよ。父さんはプロだから、タダでなんか動いてくれないって。

 ──そうかなあ? みどりが言えば、やってくれるんじゃない? 可愛い娘なんだし。

「進藤! 榊原! What's going on!? こそこそと話さない!」

「あ、ソーリーティーチャー!」

 萌音が冗談めかして答えると、教室がどっと沸く。注意を受けたことすらもうれしそうだった。全く、恋しているときの萌音は無敵だ。

 ──ね、お願い、みどり。もう一回頼んでみてよ。だって……。

 萌音はさらに声のボリュームを絞った。

 ──みどりのお父さん、探偵なんだし。

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